写真の女のレビュー・感想・評価
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カマキリの生態に準えた男女の仲の歪な関係。
ミニシアター系の作品ではビジュアルテイストが強いかなと思う感じで観に行きました。
で、感想はと言うと、まあまあw
ミニシアター系の作品らしい感じで、イメージテイストと言うか、ビジュアルに拘っている感じが強いかなと。
ストーリーは独身で寡黙な写真屋の店主がとあるきっかけで知り合った女性が自宅に転がり込み、その女性の写真を取る事で交流を深めていくが、その女性との交流が様々な事を巻き起こし、平穏な男の日常を静かに崩していく。
と言うのが大まかなあらすじ。
感想をまあまあと書きましたが、どのレベルでのまあまあかと言うとミニシアター系レベルでのまあまあw
ただ、所謂大作系の作品と比べるのはナンセンスですが、映画と言う大きなカテゴリーの中でこういった作品があるのが映画の面白さでもありますが、観る側を意識した作品かと言うと少し違うかな。
いろんな作品を観る事で観る側の枠が広がるのが楽しかったりするので、なんでも観る方ですが、ミニシアター系の作品を観る度に大手の大作系の作品の凄さを実感します。
そう考えると、もっとミニシアター系やインディーズ系は尖った方が良いかなと思うのですが、面白さと言う点では結構難しい。
寡黙で独身、静かに黙々と仕事をこなす械が面白いんですが、惜しいのは最後の手前で喋っちゃった事w セリフが全然無くて話さずに最後もまで行くのか?と思っていたら、喋ってしまったのは個人的に惜しい。せめて械が喋ってエンドロールと言う流れならまだ良いのになんでこのタイミングで?と言う感じ。
また、体に傷がある女キョウコもなかなか難しい。傷の部分がエロくもグロく、血も出るので観る人によっては嫌悪感を示すかも。
このキョウコとの出会いが事件と言うか、械の人生に起伏を与えている訳でが、何処か幻想的と言うか現実味が無いんですよね。
監督の串田壮史さんはこの作品が映画初監督との事ですが、CM等の映像系作品をキャリアがある方みたいで映像には拘りが強いのは作品の端端から感じられます。
面白いのは劇中で械が飼っているカマキリにカマキリ指導がいた事w
“そこまでカマキリに拘るか?”と言う感じですが、串田監督はカマキリの生態と男女の関係を表したかったと思います。もしくは無類のカマキリ好きw
監督の描きたいメッセージ性が最優先されている感じで、作品の面白さは正直二の次な感じ。
この作品も割とそんな感じですが、何処かエロティック、ミステリアスで官能的。もっと分かりやすいメッセージ性があった方が良かったかなとは思いますが、なんか妙に引っかかる不思議な作品でもあります。
東京のユーロスペースは上映終了してますが、大阪や横浜、名古屋の上映も控えていますが、上映館は結構少ない。なので観るタイミングも結構限られるので興味があってタイミングがあったら如何でしょうか。
妙な後味の引く作品ですw
オスは自己犠牲の生き物なのか・・・な?
予告編を観て、気になって気になって鑑賞。
地味なんですが主人公のセリフ面での演出や意味深(に見える)な演出などが多く、「んー?」と考えながら観てました。当初の予想を裏切ってなかなか興味深い作品でした。
承認欲求が高い女性二名を描いています。
「見た目を気にする人」と「見た目を作る人」と言う登場人物。
またこの「見た目を作る人」もそもそも表面的な美しさしか興味がなさそうな感じからの変化が面白いです。
<見た目=写真>、<見た目を作る人=写真屋(写真加工込み)>という置き方が良いですね。
承認欲求の満たせ方が2通り出てきます。
1つのケースは(メインじゃない方)は緩急の「緩」パートになっており、クスリとしつつメインパートの良い対比となってます。
もう一つのケースは、本作のメインテーマを語っていると思いますが、女性と男性の関係性により得られる承認が声高らかに描かれています。これは監督さんの想い・主張なのかな?
表面的な美しさや承認、また承認を得るために自分を見失うのではなく、たった一人でも人間として受け入れてくれる人が一番だよ。。。とでも言っているかのようでした。
そのあたりの描き方、特に写真屋さん(械)の心情の変化がよく描けていたかな?って思います。
まぁわかりやすくしている感はありますが、女性を被写体として「綺麗にする(撮る)」ことにしか興味がなかったのに、そこの歯車がおかしくなっていく感じが良いです。
まさに無機質な機械(カメラ)を通してしか生物に触れられなかった見た目を作る人が、皮膚の下い流れる物を体感し、頭からお湯をかぶり、写っていたことを受け入れることを決心する(ように見える)シーンは好きですね。目覚めるシーンですから。
ラストのシーンも前振りが効いていますから、なかなか良い終わり方です。
23時は音楽がならないはずなのに、楽しげに時間を過ごす映像。
それは登場人物たちが何かを手に入れた証なんだなぁと思いました。
あと、なんで冒頭からイタリアっぽいんだろう?って思ってました。
なんとなくシチリア(勝手なイメージ)にいそうなダンディな出立ち、ピザやトマトが食卓に並ぶし。
なんでなんだろー?なんでなんだろー?って思ってましたが、インターネットでちょっと調べたら
「イタリアではレディファーストのことをプリマドンナと言って、女性のためならどんな時も男性は自己犠牲を払うべしという考え方が当たり前に浸透している。」
とのこと。
なるほどーーー!そっかそーいう意味合いか。
あー、だから、バレエやってるのか。
あー、だから、あの昆虫を比喩として使うのか。
あー、だから、綺麗にするために骨を折るのか。、、、、って。
と、本作の底辺に流れるものに合点が行きました。(あくまで私見です)
なかなかいろんな「そー言うことかー」な部分が散りばめられ、お話としてもしっかり作られている作品だと思いました。ただ、比喩的な表現がやたら多すぎるかなぁ?って。
もっとストレートに伝えるような部分も多くてもよかったのでは?って思いました。
そうすれば比喩部分も映えたのでは?
良作でした。
比較的観やすいアート作品でしたが……
比較的観やすいアート作品でしたが、正直それでもストーリーはよく分かりませんでした。
なぜそのセリフを言うのか、なぜそんな行動を取るのか、度々理解できないので何も共感出来ずに終わりました。
場面場面で面白い演出や撮影技法をしているのは分かるし、感心はするんですが、肝心のキャラクターに共感できないことには感情移入できないので、こっちが深い感動、心が動かされるという体験をできないんですよね。
演出については、言わずにいられないことが2つばかり。
まず、主人公が一切セリフを言わないのは最後に一言だけ言うんだろうなと思いましたが、それが最後の最後でテーマの説明って最悪ですよね。
テーマはセリフで一切説明しないで、ストーリーで感じさせるのが映画なのに。
説明するなら冒頭でしてくれれば、まだ少しは話が理解しやすくなるのにな。
次はタイトル。
30分過ぎても出なかったから最後に出る映画だなと思いましたが、最後に出たと思ったらまだちょっと本編が続くんですよね。
そこに新しい情報があるわけではなく、タイトル前の画の別カットでしかないから、それは省略してタイトル、直結してエンドロールにしろと。
最後が無駄に冗長でちょっとイラつくというか、その後味のしつこさが作品の評価を更に下げるんですよね。
これ系の監督は、きっと監督が撮りたい画ややりたい演出がいくつも先にあって、それを繋げるように脚本を考えているから、結果としてキャラクターの心情が分断されるんだと思います。
先に脚本をちゃんと考えて煮詰めてから、物語の面白さを観客に伝えるためにベストな演出を頭から選択(もしくはクライマックスから逆算)していけば、こんなことにはならないのではと思いました。
アート系の映画って、サッカーでいえばリフティングして観客沸かせてドヤ顔してるような選手ですけど、リフティングは何回しても点は入りませんからね。
点が入らなければ試合はかろうじて引き分け、ほとんどは負け試合です。
泥臭くても不格好でも、最後には観客を感動させるというゴールネットを揺らさないと……。
これでも色んな映画祭で入選しているみたいだから観たいと思ったのですが、ユーロだけの単館上映でサービスデーなのに客は疎らでした。
商業的な結果がこれなら日本の映画祭はこういうアート映画、エンタメ性を欠く映画を好む傾向を見直さないとダメな時期だと感じます。
鬼滅の刃といった大作アニメ、福田雄一の原作殺しグダグダ映画、そういう作品ばかりに客が入っても日本映画業界自体がゆるやかに衰退していくのは、大衆が求める映画を作らないでリフティングばかりするクリエイター、それらを好んで発掘しようとする映画業界の体質に問題がある気がしてきました。
演出が個性的とかではなく、ちゃんと社会性や大衆性を両立できる作品を生み出せる監督を見いださないと、ハリウッドはおろか韓流にも追いつけなくなりますよ。
ビジュアル重視の、とっ散らかったストーリー
「面白かったか?」と聞かれれば、イエスだ。
しかし焦点の定まらないストーリーで、「つまらなかったか?」と聞かれれば、やはりイエスだ。
前半は、「2つのテーマが走っているのかな」と思って観ていた。
・上手い嘘は人を喜ばせる
・他人を通してしか自分を愛せない
前者は、葬儀屋の男の話とも関連し、後者は、SNSのフォロワーの数を上げることに血眼の主人公の女とも関連する話だ。
「どこへ話が収束するのかな」と思っていたら、
・本当の自分は誰?
というところに行き着く。「なるほど~」と思った矢先、“ちゃぶ台返し”のように、ストーリーは奇妙な方向へ進んでいく。
また、カマキリを主人公になずらえているのは分かるが、長尺を割いているわりに、実質的には本筋とは無関係だ。
主人公の男は寡黙なだけで、“女性恐怖症”には全く見えない。むしろ、女好きと言っていいような行動をとっている。
最後まで観ても、“これ”という語りたいものは見当たらず、意図的に“とっ散らかった”内容を楽しんでいる脚本なのかな、と考えざるを得なかった。
ただ、“画”としては印象的な作品だった。
登場人物の様々な表情。レトロな町の雰囲気。女のアクロバティックなポーズや、シュールな町中のバレエ。亡き子が登場するファンタジー。そして、カマキリの“芸”。
「結局、何なの?」という残念作だったが、「面白かったか?」と問われればイエスである。
誇張した衣擦れ音とカマキリの食べる音が耳につき、女性のチグハグな衣...
誇張した衣擦れ音とカマキリの食べる音が耳につき、女性のチグハグな衣装に疑問を感じる。
その不自然が気になるばかりで、一向に2人の関係について行けなかった。
面白い作品だと思う
結婚式の写真を撮るフォトグラファーには、様々な要望が来る。デジタル写真はフィルムの頃には出来なかったレタッチという処理が出来るから、アルバムを作る前に新郎新婦に写真を見せて、レタッチの希望の有無を聞く。例えばブラジャーの紐が写っているとか、シャッターが押されたときに目を瞑ってしまっているから直してほしいとかいった要望である。中には本作品の女性のように、もう少し美しくしてほしいという要望もある。要望の99%は女性からで、稀に男性からの要望があっても女性から言われて要望してきたというものだ。レタッチャーはソフトを使って要望の通りに写真を修正する。地道で時間のかかる作業である。
大友裕子という歌手をご存知だろうか。活躍した期間が短かったので殆どの人は知らないと思うが、葛城ユキが歌ってヒットした「ボヘミアン」という歌は最初はこの人が歌っていた。もともとはシンガーソングライターであり、彼女自身が作詞作曲した「夜明け前」という曲の歌詞に次の一節がある。
女は化粧した顔を自分の素顔だと思う
あんたはまだそれを知らない
本作品は女の美しさについての真実を求める。化粧した顔が真実なのか、修正した写真が真実なのか、それとも素顔が真実なのか。
人間の脳は結構いい加減で、都合がいいように見ることがある。ブルーをずっと眺めたあとに白黒の風景写真を見ると、脳が勝手に空を青くすることがある。暫くすると白黒に見えてアレ?となる。見えているものが必ずしも真の姿とは限らないし、元の姿よりも見えているほうが真実なのだという考え方もある。
レタッチを繰り返す主人公は、自分で撮影した趣味の昆虫写真さえ修正してしまう。もちろん昆虫からの修正依頼はないから、主人公が自分の目で見た昆虫と写真の昆虫を比較して、より真実らしい姿に作り変えるのだろう。だがそれは昆虫の本当の姿なのだろうか。
怪我をした女の迷いが主人公の迷いを増幅する。女は肉体だ。触れば柔らかい部分もあり硬い部分もある。皮膚の下に筋肉と血管と内蔵と骨を隠し、未消化の食物や大小便も隠している。見えているところが女のすべてではない。女は動き出す。エネルギーの発露だ。それは生命の発露でもある。主人公は写真を撮る。もうカメラは必要ない。自分の目に焼き付けるのだ。そう、生命の躍動こそが本当の姿なのだ。それを撮らなければ写真の意味がない。
主人公の台詞が殆どないことを不思議に思いながら観る作品だが、それほどの違和感はない。むしろ還暦に近い主人公の写真に対する思い入れの深さと、真実の姿を求める気持ちを観客が推し量ることを要求されるようだ。ずっと考えながら観ていられるし、退屈もしなかった。面白い作品だと思う。
白い3ピースと赤い1ピース
画像加工、お直しを得意とする町の写真屋の中年男と、毎日1枚自分の写真をSNSに投稿する今日子の存在意義と情の話。
とりあえず、お見合い写真を撮りに来た女の要求で、ごっつええ感じの兄貴もびっくりなもっともっとのお直し術。って古いですね。こんな話誰もわからなくて良いのです。
昆虫大好き写真屋の男が休日撮影に行った山の中で、木登り自撮り写真に失敗し鎖骨の辺りを怪我した女と出合い、仕方なしに連れ帰って巻き起こっていくストーリー。
写真屋の男が彼女の写真に関わるところに、あらすじに記されている様な熱量は感じられないけどね。
見せたい自分と求められる自分と本当の自分のギャップに迷い、みつけた道でもまた迷子になって、という自身を見つめる物語からの、ブンブンフリ回しまくっていた男と女とカマキリね。
無口な設定ならいざ知らず、頑なに喋らせないとか、そこまでやるとわざとらしくて安っぽいし、どうせ最後はとか思っちゃうし、愛情じゃなくて肉欲で良かったんじゃないのかなと感じた。
写真が人に与える影響。対比と逆説の面白さ。
私を覆っている薄い皮膚のすぐ下には、真っ赤な血がものすごいスピードで駆け巡っている。
つい忘れがちだけど、生きるって、それだけでかなり情熱的なこと。
自分だけのこだわりが詰まったルーティンで生きてきた男が、誰かを生かす為に自分を捧げる。覚悟のシャッター音に痺れました。
もしかして、ミューズを得た芸術家たちも、本当はカマキリのオスだったのではないかと思えてきます。
とくに葬儀屋さんのエピソードがお気に入りで、“虚像”が“リアル”に与える安らぎと切なさと恐ろしさが素晴らしい!季節が夏の設定なのも納得。
江戸っ子おじさん西村喜廣の特殊メイクも見どころです。
(したまちコメディ映画祭復活熱望)
写真を撮るという行為と、写真を見るという行為の移り変わりについて、とても丁寧に描かれていて、改めて写真は不思議で面白い媒体だと感じました。
ちょっと前までスナップ写真は、過去の瞬間を閉じ込めた遺影で、いつの日か見返す事を想定してシャッターを切っていたと思うのですが…
今や共有するのが目的で、なんならシャッターを切る瞬間から不特定多数を意識している。
SNSにアップされた写真は承認欲求を満たす為のツールへと変化し、パーソナルな思い出は情報として消費されるようになったのだなぁ。
あたり前ですが、私たちは他の媒体を通してしか、自分の姿を知ることが出来ない。
・水に映る自分(水面や湯桶)
⇒自己の発見:今の瞬間の自分には違いないが不鮮明
・鏡に映る自分(カーブミラー、車の窓ガラス)
⇒自己の確認:今の自分自身をクリアに確認できるが、自分の横顔を見ることは出来ない
・写真に映る自分
⇒自己の客観視:他者から見える姿に一番近いが、リアルタイムではなく過去の自分である
鏡に写る自分を受け入れられる人にとって、写真は過去の遺影でしかないけれど
誰かの目を通してでないと自分を愛せない人にとっては、写真は自分そのもの。
手軽に写真を加工できる現代においては、理想の自分を作りあげることも出来る。
セルフプロデュースは加速していき、虚像にリアルが引きずられていく。
でも、それは決して病んだ負の世界とは言い切れない…
この映画の面白さは、逆説の二重構造にあると思います。
全ての事柄には良い面と負の面があって、どちらのバランスに傾くか次第だし、たとえ負の面に傾いて見えたとしても、当事者にとっては幸せだったり。(←ゾクゾクする大好きなポイント)
いろんな対比が描かれているので、それらを挙げていくだけでも、相当楽しめます。
以下、お気に入りのシーン
(ネタバレが気になる方はご注意ください)
白線を踏んで歩く男。
白へのこだわりの強さと子供っぽさが同居した、神経質でヤバい大人なのがわかる。
口数が少なく、話せないのかと思いきや、自分の言葉を発信しないSNSから一番遠い存在として描かれるので
対する女の服の柄が強すぎて笑えます。
くるみ割り人形の話だけでわかる、女のデリカシーの無さ。
ポイントがズレていて、とてもその世界に触れていた人とは思えないww
愛されたい願望が強い割に、自分を客観視できていないところに、頼れる人が居ない原因が透けて見える。
やっぱり葬儀屋さんのシーンは、どれも素晴らしい。
写真の新しい可能性を見せてくれたと同時に、写真による記憶の改ざんの立証にもなってしまった。
空白の時間を埋めた幸せと、倍増する孤独。
晩酌のシーンはとくに見事で泣けました。
カーブミラーの先を想像させる余韻が、いまだにずっと続いていて…
もしかして私も『写真の女』という映画の虚構に囚われたのかもしれません。
見ました
『写真の女』をオンライン試写会で見ました。カマキリとの関連性がいまいちわからなかったけれど、お見合い写真を盛る女性と、ある意味盛った写真でSNSのいいねを稼ぐ主役の女性。映像は美しかったしセリフも少な目
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