「取り越し苦労」オン・ザ・ロック 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
取り越し苦労
日本映画にはないが性愛や恋愛ではない男女関係は映画的だと思う。
ソフィアコッポラもそう思っている。(と思う。)
ぜったいに発展しない男女はとても軽やかだ。
親密にならず、きらいにもならず、くっついたりはなれたりする展開からも解放されている男女は楽に見ていられる。
ロストイントランスレーション(以下LIT)が楽しいのはそこだった。
男と女。嫌われる心配も、好かれる心配もしないで、東京の夜をさまよったら、どんなに楽しいだろう。好き嫌いではないところで通じ合える連れがいたら、どんなに楽だろう。
監督はクオリティにムラがある。がSomewhereにもその気配があった。このOn The Rocksにも。
むしろ積極的にLITを狙っている感じがした。ビルマーレイってこともあり、あの魔法をもういちど、の雰囲気があった。
洋楽厨だったわたしにとってクインシージョーンズはむかしからよく見る名前だった。おそらくプレイヤーではない人物(プロデューサー)としては最も著名な人だったと思う。ただわたしはブリティッシュロックに傾倒する、こまっしゃくれた厨だったのでクインシージョーンズが関わったアルバムをほとんど聴かなかった。ただし、髭で美男で、あまり黒くないクインシージョーンズの顔は、昭和世代の誰もが知っていた。
その娘のラシダジョーンズを本作ではじめて見た。母親は白人なのでさらに黒人らしくない。ウィキペディアに
『ジョーンズは幼いころから自分のルックスが「黒人らしくない」ことに悩んでおり、大学2年のときに芝居で黒人役を演じたときは癒されたという。』
と、あった。
生まれは(人種や縁が)かけ離れた男女間であればあるほど優秀だと、どこかで聞いたことがある。配合バランスに加え遺伝子が良けりゃなおさら。ラシダジョーンズをひと目見ただけでも血統書付きなのはわかった。
やんちゃな父親にふりまわされる娘の話。
(LITで)ボブとシャーロットが探検した夜の東京は夢のように楽しかった。父娘でそれを再現するような展開がある
(わたしは誰にも知られていない過疎レビュアーだが)今までLITのレビューを何度か書いた。
さいしょに書いたのはこんな書き出しだった。
『おそらく、誰にも経験のあることかもしれないが、いい映画に出会い、それがすごく気に入ると、同じような映画を探すことがある。
むろん、映画に限ったことではなく、小説や音楽アルバムでもそうだが、琴線に触れたことで、あの感動をもう一度、という状態になり、同じようなものを探しまくる。
そして、ご存じのように、その探索は、ほぼ成就しない。
同じ監督(作者、アーティスト)の作品でも「あれと同じ感動」は見つからない。
歳月を経て、なんとなく、そういうものだと、解ってくるのだが、今なお、お気に入りに出会うと、それ(のような作品)の探索状態に、陥ることがある。
ロストイントランスレーションを見た後の私は、しばらく、重症のロストイントランスレーション探索状態だった。しかし、この映画の滋味をもつ映画は、見つからなかった。同じソフィアコッポラの監督作のなかにも見つからなかった。
だからロストイントランスレーションを、何度も何度も、繰り返し見る。
上京するのに、電車使えばいいのに、わざわざクルマで行って、ジーザス&メリーチェインをかけながら首都高を走ったこともあった。(後略)』
ソフィアコッポラ自身がLITを再現しようとしても、やっぱりそれは成就しない。意地悪な揶揄になるが、もうビルマーレイも、夜の東京を走って横断できるほど若くない。
だがLITを好きな人がOn The Rocksを見たら、ソフィアコッポラがもういちどLITしたがっているのが、痛いほどお解りになると思う。
もういちどLITしたいからこそわざわざ老齢のビルマーレイをかり出して、やんちゃな金持ちに設定し、まるで節操のない行動をとらせて、ボブハリスをよみがえらせよう──としていて、そりゃとうぜん無理だったけれど、ソフィアコッポラがもういちどLITをしたがっている雰囲気は、LITファンから見て悪くなかった。
ひとつ思ったのが、ソフィアコッポラって、完全に上流階級の低回だよな──ってこと。LITもSomewhereもこれも、社会生活にまったく困っていない人物のなやみごとを描いている。だけどぜんぜん嫌味にならない。わたしは低所得者層だがソフィアコッポラの映画を見ていて鼻持ちならない──気分になったことがない。
画商で父親役のフェリックス(ビルマーレイ)はニューヨークの由緒ある高級レストランやバーでギャルソンたちとつうつうなのだが、それはとうぜんコッポラ自身の日常でもあるはずだ。
だけど──その上流階級が気障にならないのがソフィアコッポラ監督の持ち味のひとつであることがOn The Rocksを見て新たに解った。のだった。
知ってのごとく、ソフィアコッポラやLIT周辺は、おしゃれな監督/映画──と捉えられている。畢竟これも、おしゃれな映画ということになろうかと思われる、おしゃれな映画には、おしゃれな映画に寄せたい、(自称)批評家が群がってくる。
で、複数の批評家がこれをウディアレン風コメディ──と評していた。
ソフィアコッポラはLITみたいなのがやりたい。
冒頭で「ぜったいに発展しない男女はとても軽やかだ。」と言った。LITは疲れた者どうしが共鳴したのであって、男女関係に発展する懸念がなかった。Somewhereが叔父と姪なのも、本作が父娘なのも、それに因っている。
反してウディアレンはあくまで男女の恋愛話。ソフィアコッポラが恋愛を描いたことは一度もない。似ているどころかむしろ極北で相対する。
外国映画がおしゃれに見えても、おしゃれは映画を把捉する扶けにはならない。おしゃれに寄せてくる(自称)批評家がうさん臭いだけなのは、その理由による。