「こういう精神性に触れることが出来てとても幸せだ」ブータン 山の教室 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
こういう精神性に触れることが出来てとても幸せだ
「ブータンは世界一幸福な国と言われているそうだが、先生のような人が幸せを求めて外国に出て行く」というルナナ村の村長の言葉が本作品のテーマそのものである。
村長は村以外の場所の様子を知っているが、子供たちは知らない。自動車さえ見たことがないのだ。その分、子供たちは幸福である。知らなければ比較をしないから、自分たちの生活に満足する。村長の悲しそうな顔に対して、子供たちはみんな幸せそうな顔をしている。学級委員のペムザムの可愛さは山間の寒村にあってこそだ。
実は公式サイトを見ていなかったので、主人公が女性教師だと勝手に想像していた。しかし可愛いペムザムと村一番の歌姫であるセデュが登場するからには、主人公は当然男性でなければならない。首都ティンプーに帰りたい気持ちを翻意させるにはそれなりの動機が必要なのだ。
「先生を大切にしなさい、先生は未来に触れることができる人だ」と教わったと、子供たちは言う。未来に触れるという言葉の意味は最後まで説明されない。教師が触れるのは教室と教材と、それに子供たちである。未来に触れるというのは子供たちに触れるということで、つまり未来とは子供たちのことなのだろう。
「寒いときはドマを噛むといい」と祖母は言う。「鳥のように歌って」とセデュは言う。標高5000mを越す峠で素手のまま神に祈る村人。礼儀正しく欲の少ない村だが、文明の情報に少しずつ蝕まれていく。子供たちの知らないCarがブータンの幸福をみじん切りにするのだ。
物欲には限りがなく、入ってくる情報がさらなる物欲を生み出す。仏教もキリスト教も物欲を捨てるように説いた。物欲を充足させることに幸福はないからだ。ギターで歌うことは楽しいが、セデュが歌うヤクに捧げる歌に伴奏はいらない。山間に響き渡るセデュの歌声はコンサートホールのオーケストラの演奏などと比べても意味がない。唯一無二の美しい歌声である。一期一会の邂逅なのだ。
どのシーンを見ても、今生の別れが待っていると思えば泣けてくる。移ろいゆく村の季節も、ヤクの世話をする村人たちも、村長の渋い歌声も、一期一会だ。寒くて不便で貧しい村だが、そこには気高い精神性があった。情報に溺れて足るを知らず、物欲に塗れて常に不幸な自分を省みれば、まさに汗顔の至りである。ルナナ村は標高も高いが、それ以上に精神性の高さが日本の遥か上にある。こういう精神性に触れることが出来てとても幸せだ。本作品を高く評価したい。
緊急事態宣言中だが、座席を制限しても映画を上映する岩波ホールの姿勢は立派だと思う。不要不急の外出は控えろと政府や東京都は言うが、何を以て不要不急とするのかの具体例は示さない。それに対して岩波ホールは、映画は不要不急ではない、人生に必要なのだとして、断固たる姿勢で上映を続けている。天晴れだと思う。