ウィッカーマン final cutのレビュー・感想・評価
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洗脳させられるようなカルトホラー映画
炎を取り込め
大きく燃えろ、燃えろ
炎がタネをまき、滋養を与え
赤ん坊が泣く──
────作中で行われる、謎の儀式より
【感想】
『ミッドサマー』観たことないのに、なぜかこっちを先に観ようと思った者です。
とにかく不気味で、でも不思議と惹き込まれていく奇妙な映画でした。
作中、島の宗教儀式がとんでもなかったです。病気を治すためにカエルを口に含んだり、少女たちに全裸で踊らせたり、人を生贄にして焼いたり。もうぶっ飛びすぎていて、逆に平然と観れてしまっていました。これ現代人の感覚からするともーホントにヘンテコになります。
主人公は最後、「どれだけ言葉で着飾っても、やってることは殺人と同じだ!」とかまともなこと言っていたのに、いきなり意味不明な歌を歌い出して、神にすがるという。
いくらガッチリしたハウイーのような警察官でも、こんな儀式にさらされたらそりゃ狂いますよね。
で、見どころはやはりクリストファー・リーの気迫迫る演技。これゃ怪奇映画スターって言われるだけあります。ラストシーンのポーズなんとなく好きですね。
これを機に、『ミッドサマー』も近頃観てみようかなぁと思います。
(胸糞だろうし、数日引き摺るだろうけど……でも見たい。いやー人間の心理って恐ろしいですね)
(軽々しく言うなよ……)
夏がやってくる
声高く歌うのはカッコー
タネは育ち、はちみつ酒は熟す
樹木には新芽が吹き出る
子羊を追い母さん羊が鳴く──
────〈夏はきたりぬ〉
圧倒的ビジュアルイメージの奔流。異なる宗教間の対立を裏テーマにもつ伝説のカルト・ホラー!
行ってきました、『ウィッカーマンfinal cut』日本最終上映。
それも、新宿K’sシネマさんでの最終日に。
金曜の真昼間? それがどうした。これも立派な人生のテレワークだぜ!
まさに「カルト教団」が世間の話題をさらっている昨今、『ウィッカーマン』こそは時代が要請するマストアイテムといっていいのではないだろうか??
僕が初めてこの映画を知ったのは、そう古いことではない。たしか、30代くらいではなかったか?
海外で編まれた「本当に怖いホラー映画50選」のような企画に入っていて、へえこんな映画あるんだ、と。
そのうち、ニコラス・ケイジによる本作のリメイクがあると聞き及び、先に観ておかないといかんなと廉価版のDVDを買って視聴、その衝撃的内容に文字通りひっくり返った。
噂通りの大傑作。映画史上に残る、真に恐るべき映画だった。
(なお、その後観たニコラス・ケイジ版は、テーマ改変の方向性といい、演出力の劣化度合いといい、概ね許しがたい要素しか見出せない、ゴミ・オブ・ゴミの聳え立つクソ映画だったが、その分元作のすばらしさは際立ったといえる。)
DVDの特典付録のドキュメンタリーを観て、いわゆる「オリジナル全長版」が存在することは知っていたが、これまで無精な性格で、スティングレイ盤をわざわざ買ってまで中身を確認したことはなかった。
今回上映された「Final Cut」版は、94分。
劇場公開版が88分で、オリジナル全長版が99分あるらしいから、ちょうどその中間くらいのボリュームである。
「Final Cut」版と、劇場公開版とで、観てすぐにわかる相違点は以下の通りだ。
●劇場公開版は冒頭に、「撮影に協力してくれた島とサマーアイル卿に感謝を捧げる」といった擬似ドキュメンタリー風の字幕が付くが、「Final Cut」版はケルトの太陽の顔がOPでアップになり、EDで遠ざかっていく構成で、特段のテクストによる説明などは付加されない。
●公開版では後段で回想風に一瞬挿入される、本土でハウイー警部が婚約者と教会でミサに参加するショットが、「Final Cut」版ではアヴァン・パートに若干長めの尺で挿入される。
●「Final Cut」版では、宿泊初日に、サマーアイル卿が若者を宿屋の軒下に連れてきて、ウィロー(宿屋の娘)に性の手ほどきを依頼するシーン(および象徴的なカタツムリの交合する映像)が復活している。
●同様に、宿屋のバーいっぱいにたむろする酔客たちが、ギターを弾きながら猥歌を歌ったり、踊ったりするシーンが、かなりの長尺で復活している。
●サマーアイル卿が林檎について講釈を垂れるシーンが復活している。
その他、記憶だけで書いているので正確なことはわからないが、総じて、島民たちによる歌謡シーンや宗教儀式シーン、ハウイーによる島内の捜索シーンが、追加されたり、尺が長くなったりしていたと思われる。なお、オリジナル全長版に存在するらしい、イギリス本土でハウイーが失踪した少女の捜索にとりかかるシーンは、今回の「Final Cut」版でも割愛されていた。
監督たちが口を極めて痛罵しているほどに、カットされた劇場公開版が「もともとの作品から骨抜きにされて、意味がわからなくなっている」とはしょうじき思わないが(真に重要なシーンはだいたい残っているのでは?)、「Final Cut」版のほうが、島の風俗のより土俗的で因習的で淫猥な面が強調されており、「ケルティッシュ・ミュージカル」としての音楽性と、キリスト教Vs自然崇拝の宗教対立的な部分が強められて感じるのは確かだ。
また、ハウイーが最初に「隣室での他人どうしの性交」と「階下から聞こえる猥歌」に悩まされ、さらには翌日今度は全裸で踊り狂う宿屋の娘に誘惑されて苦しむという二段構えになっていることで、彼を聖アントニウス(砂漠で悪魔たちによる性的な誘惑に苦しめられた聖人)に擬する監督&脚本家の試みは、より理解しやすくなっているといえる。
何より、画質が市販DVDと比べて格段に良化したことで、サマーアイル島の風光明媚な美しさが際立ち、島のもたらす厄災と恐怖との対比が鮮烈になったのがうれしい。
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『ウィッカーマン』は、「伝説」級のカルト映画だ。
僕も、傑作だと思う。
では、これの何がそこまで素晴らしいのか。
とにかく、まずはホンの出来が良い。それが第一だ。
なにせ、最初に出てくるタイトルクレジットの表記は、
「Anthony Shaffer's The Wicker Man」。
要するに、この映画はただの『ウィッカーマン』ではない。
「アンソニー・シェイファーのウィッカーマン」なのだ。
アンソニー・シェイファーというのは、あの傑作ミステリ演劇(&映画)『探偵スルース』や、ヒッチコックの『フレンジー』、アガサ・クリスティ原作の『ナイル殺人事件』『地中海殺人事件』の脚本を担当した名脚本家だ。弟のピーター・シェイファー(『アマデウス』の脚本家)と合作で、「ピーター・アンソニー」名義の推理小説まで三冊も書いている、いわゆる生粋のミステリ・マニアである。
その彼が、DVD特典のインタビューでこんなことを言っている。
「私はかなり長い間、ハマープロの陳腐なホラー・フィルムを超えた、新しい映画を作ろうと思っていました。実際この作品以前に、『いけにえ』を題材にしたホラーはなかった。私はよくありそうな話をふくらませて、衝撃的な探偵物語に仕上げるため、『探偵スルース』のような舞台劇に仕上げようと試みました。そして衝撃的な結末にするため、古典的な方法を使って、今までの真実を正反対にひっくり返したのです。●●が●●れる話にね」
つまり、彼は本作を、ハマープロの衣鉢を継ぐ新機軸のホラーとして企図しつつも、それと同時に、「どんでん返しの仕掛けられた本格ミステリ劇」として練り上げていったわけだ。
実際、本作の「キモ」となっている「趣向」の根幹には、連城三紀彦の『戻り川心中』や城平京の『名探偵に薔薇を』と共通する部分がある(事件そのものが●●を●●するために仕組まれている、という大ネタ)。本作には、通常のホラー映画とは比較にならないくらいの「ミステリ・マインド」が満ちあふれている、と僕が考える所以だ。
しかも、『ウィッカーマン』はテーマにおいて、ジャンル映画の枠組みにとどまらない恐るべき「深み」を備えている。それは、先にも述べたとおり、本作が「宗教」と「宗教」のぶつかり合いを生々しく描き出しているからだ。
ハウイーは、敬虔なクリスチャンだ。
婚前交渉を汚らわしい営みとして、婚約者がいながら今も童貞を保っているなど、おそらく70年代の倫理観と照らしても、かなり保守的でストリクトな価値観をもった信徒だといえるだろう。
いっぽう、サマーアイル島を支配しているのは、古代ケルトの自然崇拝だ。
島民たちは領主の指導のもと、ドルイドの秘儀を復活させている。彼らはフリーセックスを信奉し、豊作を担保する手段として、豊穣の女神と太陽神への「供物」を捧げる。
当然、倫理的には、ハウイーの信じるキリスト教が「正義」の側にあり、島民の奉ずる邪教が「悪」の側にある。物語の表面上も、ハウイーは制服警官で探偵役、島民は得体の知れない不気味な犯罪集団として描かれる。
だが、作り手のスタンスは、必ずしもそういう明快な善悪二元論に立っているわけではない。
映画を観ていれば誰しも、ハウイーの父権的で支配的な性格と、強引で高圧的な捜査方式、頑なで狭量な道徳観に、ある種のいらだちを感じるはずだ。
いっぽうで、クリストファー・リー演じるサマーアイル卿は、奉じている宗教こそカルトだが、佇まいには知性と教養が感じられ、島民に対する姿勢もフランクで宥和的だ。明らかに、人物としてはハウイーより、領主のほうが「魅力的」だろう。
島民たちも、奇妙な儀式や非科学的な教育・治療を奉じてはいても、基本おおらかで陽気で楽し気だ。サマーアイル島は、ペイガニズムに支配された「穢れた」場所かもしれないが、島民にとっては居心地のよい「楽園」であり、「ザナドゥ」なのだ。
これは、1973年という公開年を考えれば容易に察しがつくことだが、両者の宗教的な対立には、当時の保守派とヒッピー・ムーヴメントの対立が風刺的に反映されていると見ていい。
ここでの製作者たちのシンパシーは、必ずしもハウイーに代表される守旧的なキリスト教側に置かれていない。むしろ、自由で放埓で生の歓びに満ちた異教徒たちの生き方のほうへ、「憧れ」にも似た眼差しが向けられているのが感じられる。
さらに本作には、『地球最後の男』(『アイ・アム・レジェンド』)や、一連のゾンビ映画と同様の「価値観の逆転」に関する視座が存在する。すなわち、「主人公以外の全員がおかしいのなら、それは主人公だけがおかしいのと変わらない」という逆説だ。ハウイーは、決して絶対の正義と無謬性を手にした「名探偵」として作中に君臨しているわけではない。
異なる宗教世界の対立によって生み出される「謎」(ミステリ)と「恐怖」(ホラー)。
その二つの世界の正当性について、作り手たちは一方的な価値判断を持ち込まない。
だからこそ、『ウィッカーマン』の脚本には「深み」があるのだ。
ただ「脚本の良さ」だけで、あれだけの人々が『ウィッカーマン』に魅了されているはずもない。
なぜなら、多くの人は、筋を知る「前」に、すでにこの映画の虜になっているからだ。
岸壁に立ち、煙をあげて燃え上がる枝編みの巨大な人形。
メインのビジュアルイメージからして、すでに圧倒的だ。
動物の仮面をかぶった村人たち。戸外で裸で舞い踊るうら若き乙女たち。
顔のある太陽、酒場にかかるグリーンマンの看板、乱痴気騒ぎの祭列、古代の墓所やストーンヘンジ、蛙を娘に呑ませる母親、etc、etc.
散りばめられたアイコンだけで、もうノックアウトされてしまう。
これらの衝撃的なビジュアルには元ネタがあって、それは中世から近代にかけて遺されたケルトやドルイドの遺物と、研究書に描かれた図版や挿絵の数々だ。
これらの奇怪なアイコンを蒐集し、スコットランドでの入念なロケハンを経て、現代の村落に怪しげな習俗と呪物としてよみがえらせたアート・ディレクターこそが、シューマス・フラネリーである。
彼が本作で果たした役割の大きさは、もしかするとアンソニー・シェイファー以上かもしれない。
『ウィッカーマン』に登場する呪物のなかには、日本人の琴線にふれる民俗的共通項も見出せる。たとえば、五月祭の祭列をけん引する赤い木馬と道化。あれは、まさに日本でいうところの「獅子舞」ではないか(木馬に覆われると妊娠する、というのも、お獅子に噛まれると無病息災というのと似ている)。古代から続く風俗というのは、どこか文明を超えて地続きな部分があり、この原初性に我々は惹きつけられるのかもしれない。
同時にあの「赤い木馬」は、僕にニコラス・ローグの『赤い影』(73)に登場する「赤い雨合羽の少女」をも想起させる。
街角を前へ前へと、ハンミョウのように先行しながら主人公をいざない、やがて取り返しのつかない魔界のラビリンスの最奥部へと導く存在。
もちろん、両者には誰もが知っている有名な原型がある。
そう、『不思議の国のアリス』に登場するあのウサギだ。
考えてみると、『ウィッカーマン』と『赤い影』がどこかしら「イギリス的」な味わいを濃厚に漂わせているのは、祖型として両作が『不思議の国のアリス』を抱えているからかもしれない。
『ウィッカーマン』の重要なモチーフとして、「3月ウサギ(March Hare)」が登場するのも、たぶん偶然ではないはずだ。
『ウィッカーマン』と『赤い影』は73年作品だが、実は同じピーター・スネルがプロデューサーを務めている。失敗作の烙印を押された『ウィッカーマン』は、英国では翌74年に『赤い影』の併映作として封切られたのだった。『アリス』の衣鉢を継いだ伝説のカルト映画2作が、奇しくも併映作として世に問われたのだ。まさに不思議な因縁としかいいようがない。
性に奔放な島
クリスチャンで生真面目な頭も固い、しかも童貞の男からしたら全てがカルチャーショックな大打撃、普通の男性だったら酒池肉林で夢のような島!?
奇妙に見える島の住人たちだが、予め計画されたのであれば他所を生贄に自分達が潤う為の工作を一丸となって、映し出される姿は通常ではないのかも?
行き過ぎた性教育なのか発展しているのか、行ったことはないが珍宝館みたいな島なのかも!?
洗礼潔白な男が堕落する姿を想像しながら、最後まで揺るがない姿勢から漢気まで感じてしまう、救いがないながらにも。
88分版を鑑賞。
エロくて美しい
行方不明の少女捜索のためスコットランドの孤島にプロペラ機で到着したハウィー警部は捜査を始めるが、島はサマーアイル卿が統治するケルト神話に支配された独特の信仰感の世界だった。
そこでは生まれ変わる事を信じ、太陽を信仰し、子供たちに生殖と豊作を願うために性的なまじないを教え、大人たちは裸で性的な儀式に参加しているという状況で、キリスト教を信仰するハウィー警部には受け入れられない光景だった。こんな状況で捜査は進むのか、という話。
ミッドサマーのようなカルト的なストーリーでエロいが残忍さは少ない。
こういう世界も有りそうだと思える脚本が素晴らしかった。
あと、女性の裸体は美しかった。
イングランド本土の警察あてにスコットランドの離島サマーアイル島から...
イングランド本土の警察あてにスコットランドの離島サマーアイル島から、行方不明の少女を探してほしい旨の手紙が届く。
本土から乗り込んだハウイー巡査部長(エドワード・ウッドワード)は件の少女の写真を見せながら調査を進めるが、島民のいずれも、そんな少女は知らないの一点張り。
その上、サマーアイル島は領主(クリストファー・リー)による私有島で、文化も本土とまるきっり異なり、自由に男女の交合がなされている。
敬虔なクリスチャンであるハウイー巡査部長は、その島の文化に馴染めず、調査も行き詰まってしまう・・・
といったところから始まる物語で、キリスト教文化だけが文化じゃない、といういわゆる、観る者の常識に問いかける映画。
最終的には、被害者は探偵!という驚天動地のようなオチになるのだけれど、自己犠牲やなにやらとか、科学的には云々、という常識を、「それって口だけだよね? ははン?」って鼻であざ笑うようなところに着地する。
原題は「Anthony Shaffer's THE WICKER MAN」で、脚本化アンソニー・シェイファーの名前が冠されている。
『フレンジー』『探偵<スルース>』『ナイル殺人事件』『ジャック・サマースビー』などのひとなので、狙いは変格ミステリーだと思うのだけれど、もともとは舞台の戯曲も書くひとだから、もしかしたら、ミュージカルとして書いたのかもしれません。
とにかく、スコットランド民謡風のおおらかな楽曲に彩られており、ラストシーンなどは、一緒に踊りだしたくなるぐらいなのだから。
本作はスコットランド版の横溝正史の世界ではないだろうか?
ウィッカーマンとは、枝細工で編んだ大きな人形のこと
高さは数メートルくらい
枝細工なので中は空洞
鳥籠のようになっていて内部に生贄の動物を閉じ込める大きさがある
日本でも秋田県湯沢市に、藁編みの数メートルはある大きな人形を集落の入口に建てる「鹿島様」という風習があるのをテレビで視たことがある
しかしこちらは巨大なかかしみたいなもので、内部に生贄を閉じ込めたりはできないものだった
しかし、どちらも土俗の風習であるのは同じだ
本作の舞台はスコットランドのとある小さな離島
領主が未だに隠然たる権勢を敷いている
ケルトの土俗の風習が強く、キリスト教に重きを置いていない土地の物語
何かに似てはいないだろうか?
本作はスコットランド版の横溝正史の世界ではないだろうか?
この島は獄門島みたいなものだ
いや終盤には洞窟に男女が逃げ込むのだから八つ墓村か
キリスト教が精神世界の根底に育った西洋の人々に取っては、キリスト教が敗退した土地というのは、そら恐ろしいことなのだろう
考えるだけで寒気がするほどなのだと思う
そこが私たち日本人には読みとれにくいことなのかも知れない
しかしそこにホラー的恐ろしさを感じ取れなければ本作の価値や意義が全く伝わって来ないと思う
私たち日本人が横溝正史の土着の古い習俗、因襲の世界に、空恐ろしいものを感じる以上のものがあるのだと思う
もし20世紀以前に本作を戯曲なりで上演しようものなら、群集が抗議に押し寄せて暴力沙汰になったに違いない
いやそもそも官憲によって公序良俗に反するとして上演禁止にされていたことだろう
それ程に冒涜的な内容なのだと思う
その意味で、同じ1973年12月に公開された「エキソシスト」と似ていると思う
ヒッピー文化の終わりの頃
キリスト教が象徴する既存の社会や体制といったものへの反抗精神の表出なのかも知れない
物語は5月1日のメイポールの祭りのケルト版のようなものが行われるから初夏なのだが、撮影は初冬に行われたという
そこを明るいカメラが初夏の日射しを、登場人物の服装を薄い初夏の装いで、無理にも初夏を表現している訳なのだが、空気は正直に肌寒さを映像で伝えている
その肌寒さ感が、本作に西洋の人々が本作から感じる精神的な寒むけを、キリスト教徒ではない私たち日本人にもそれを教えてくれている
特に祭りのシーンは見もの
仮装の衣装のデザインの秀逸さ、ストーンヘッジでの神楽
日本人の目にはその舞踊は神楽に見えるのだ
抜き身の剣を六芒星のように、首の高さで組み
そこに首を入れる儀式もまた際どい
もちろん魔除けと魔術的力を引き出す為のケルト式の儀式だろう
しかし六芒星はユダヤのしるしでもあるのだ
圧巻のラストシーン
ウィッカーマンが炎上し、真っ赤に燃えたその首が落ちる
その落ちた首の向こうに浮かぶものは、同じように空を真っ赤に燃やす夕陽なのだ
その美しいこと
悪魔的な美しさというべきものか
怪作、カルト映画の永遠の名作だ
自分だけが正常で周りが異常な時、それは君が異常なのだ
「村人全員狂ってて、自分だけが正常」
というシュチュエーションホラーの傑作。
そんなシチュエーションに投げ入れられたときに、
僕の頭には「じゃあ正常とはなにか?」という
ひとつの疑問が湧き起こる。
その主観的で曖昧極まりない概念は、
よその文化や常識では全く通用しない、
極めて脆弱な装飾にすぎないのではないか、と。
例えば宇宙人に対して、
こちら側が分かり合えると思っていても、
あちら側は食料としてしか見ていないかもしれない。
(プロメテウス、遊星からの物体 X)
自分の周りが悪魔だけだとしたら、
自分が異端者扱いされてしまう。
(ローズマリーの赤ちゃん)
テキサスの片田舎に行っただけで、
当たり前のように殺される。(悪魔のいけにえ)
僕はこのような、
絶対的なコミュニケーションの不可能性にこそ、
ホラーの特質がある気がする。
そういう君の悪さ、救いようのなさ、が如実な作品だと思う、
しかし本作はそんな堅苦しくまじめ腐った見方なぞしなくても、なんとなくアホらしくて、いい感じにイカれていて、浮かれ気分でお祭り騒ぎな楽しい映画!!
まさにカルト!!
異端とは何か?
元々この映画が大好きなので、映画館で観られて幸せでした。
ミッドサマーを見たときに、ウィッカーマンじゃん!と思ったけど、改めてウィッカーマンfinalを観ると、似て非なるモノですね。
湿り気が無いというか、こちらの方がカラッとしていてみんな明るくて楽しいお祭りを謳歌している。
お祭りの目的もはっきりしているし、今回映像の追加があった事で、より主人公が生贄に選ばれた理由に納得が行くし、島民達の天真爛漫な明るさが際立って怖く感じる。
私ならどの仮装がしたいかなーとさえ思う。
カルト映画の古典とよく言われているが、イメージされる「カルト映画」...
カルト映画の古典とよく言われているが、イメージされる「カルト映画」よりも遥かに王道を行く出来だと思う。堅実である。炎に崩れる頭部越しの夕陽が言葉に出来ぬ美しさ。あのカットだけでもこの映画には大変な価値がある。
ラストまさかの逆生け贄
これ画像が荒いと思ったら73年の作品 携帯の無い時代とは言え状況を報告できる通信手段は無かったのかやはり離島の様な地域なら複数で行かなきゃね むしろ私立探偵やジャーナリストの方が良かったかな?でも今の時代は過去の作品でも値引きしないのね‼️
リメイク版に無いものが全てある
今頃この作品を見る物好きの皆さんは、話の筋はご存知かと思います。
このため、いかに怪しい雰囲気を見せるかが肝と考えます。
リメイク版は、よく訓練された俳優さんが、それらしい田舎で、田舎くさい衣装で、キレイに撮れています。すると、テレビの2時間ドラマのように見えてしまいます。あ、ニコラス・ケイジのいつもの感じねって。
クリストファー・リーが行ってしまっているのは当然として、島民が良い。特にお爺ちゃんたち。
服装も良い。普通にも見えるし、民族衣装の人もいるし。リメイクはそれらしく古臭くしているので、返ってわざとらしいです。
街並みも、田舎の家だけで無くて、適度に都市化しているのが良い。
フィルム撮影の粒子感があるのは当然として、絵がキレイです。特に色が良いです。
そして、最もよく効いているのは歌と踊りでは無いでしょうか。日本でも歌・踊り・祭りは最も、古い伝統が残っているものですよね。生活は基本的に普通に暮らしているが、文化がオカシイというバランスがいいですよ。それと、みんななぜか歌が上手いの。
このように、怪しさのバランスが素晴らしいので、満足でした。
アノ作品を劇場で観れて幸せです。
あと、主演のエドワード・ウッドワードの堅物警官の演技を、ホット・ファズのサイモン・ペッグが真似しているなと思ったら、本人がホット・ファズに出ているではありませんか。今度、見直してみます。
めちゃくちゃやー!(面白い)
卑猥な歌しか歌わない島民、真っ裸で踊る娘たち、のりのりの領主様。
確かにミッドサマーの元ネタですねー!こちらは夏至祭じゃなくて5月祭ですけど。
ストレートな話だけど、歌とかダンスとか変なお菓子とか被り物とか、ディテールが面白い。見る価値ありだけど、一緒に行く人を間違えると気まずくなるタイプの映画でした
ミッドサマーの悪いとこ全部直したらこんな感じ
話題にだけはなったミッドサマーの元ネタということですが、比べるのが失礼なくらいこちらの方が遥かにデキが上です。
不気味で狂ってる音楽、ぶっ壊れた性的倫理感、なんともムカつくニヤつきっぷりの住民、およそ常識からかけ離れた宗教と、確かに共通点は多いです。
が、こちらはミステリー要素があり話がスッキリしてるし、宗教の対立軸もハッキリしていて分かりやすいし、何よりミッドサマーのあの無駄なダラダラ感が一切なくテンポが良好。
主人公が厳格で敬虔過ぎて、結局キリスト教もカルトっぽく見えてくるのがまた皮肉きいてます。ミッドサマーは主人公側がただの寄せ集めで、「バカしかいない13金」状態でしたからね…
ラストシーンの夕陽は最高でした。
分かり合えないから~燃え上がるう~(色んな意味で)
ウィッカーマン観てきた。いやあ清く正しく清々しい(?)カルト映画。
ミッドサマーより断然好き(ミッドサマーがウィッカーマンリスペクトだったので)。
題材と言いたいことがシンプルだった分、ラストが染み渡るやねえ。
劇中にふんだんにカントリー調の音楽が使われてて、本編に牧歌的な雰囲気をより醸し出してるのも良かった。歌詞にも一本芯が通ってて良い(笑)
これ笑うとこな気がしたけど周りの人たちくすりともしてなかったな…
これは、イカレタ部分だけ抜き出してニコラスおじさんがリメイクのに出てるなら、ぜひ観たい!ニコラスおじさん領主と警察官どっちやってるんだろう…(どっちもピッタリ)
あぁ怖い、怖いよ怖い、あぁ怖い
私、ミッドサマー大好きです。
だからこそ観たくて観たくて、、やっと鑑賞できました。
いやいや、いやいや。
怖っ!こわーい!
笑顔怖い。
無邪気こわい
無垢こわい
悪気がないから、
さらにさらに怖い。
クライマックスの畳み掛ける、
幾重にも重なってくる絶望感。
怖い。
信心深い住人達には何も届かない。
だって、かれらは儀式してるだけなんだもん。
終始、いやーーーぁな、ねっちょーりと
ザラザラ〜っとした雰囲気が漂ってます。
まとわりついてくるんだよなー、終始。
なんか、生あったかいんだよな。
見事だな。音楽もよい。牧歌的な感じがさらに怖い。
ホントーに気持ち悪い。
で、お話は良くできてます。
あれやこれや詰め込むことなく、一気に話を
ラストで回収するシンプルさが、
より怖さを際立たせた気がします。
ラストの夕陽のカット、絶品。
どんな酷い言葉を並べて讃えても足りないくらいの作品ですw
ポスタービジュアルにある巨大木製人形がどうにも気になってた作品で、夏に公開された「奇想天外映画祭」で上映されたのは知ってましたが、タイミングが合わず観られなかった。
で、今回、都内では新宿の「K’s cinema」のみで1日1回のみの上映。それも昼間だけと、観賞条件はあまりよろしくないのですが、そう言う条件の方が観賞意欲は掻き立てられると言う物w 前回の失敗を活かして鑑賞しました。
で、感想はと言うと…酷い映画だw
カルト。それもかなりのカルト映画。でもとても興味の唆られるカルト映画。
まさしく「ミッドサマー」の元になった様なストーリーはミッドサマーが好きな人には多分愛されるんではないだろうかw
独自の宗教観が根付く土地で多く普及されているキリスト教を異教徒とし排除するストーリーはカルト映画ならではですが、「スコットランドに古くから伝わる原始的宗教が生き残る島を描いたミステリアスなフォークミュージカル風恐怖ドラマ。」と言う作品説明が笑えるw
確かにそう言えばそうなんだけど、「ミステリアスなフォークミュージカル風恐怖ドラマ」ってどんなのか逆に想像がつかないw
もうカルト映画でいいじゃんと思うのにその説明が逆にややこしくしているが、ある意味鑑賞意欲を掻き立てるw
要するに怖いもの見たさ満載の作品で観て良かったか?と言えば観て良かったw
これはカルト好きの心をワサワサとくすぐる作品ですよ♪
ケルト神話に古代ガリアで信仰されていたドルイド教と言う宗教に「ガリア戦記」と言う言葉も出てくる宗教設定が調べれば調べる程にカルト頭に厨二病頭も刺激するワサワサ感が最高♪
これに古代ガリアの宗教儀式として使用された木製の編み細工で出来た巨大な人型の構造物の檻の中に供犠・人身御供として捧げる家畜や人間を閉じ込めたまま焼き殺す祭儀と言うのはカルト心をワサワサよりもザワザワさせますわw
ミッドサマーはスウェーデンが舞台だったけど、この作品はスコットランドの孤島が舞台。
いろんな宗教があって、それぞれの宗教観があるので、自分の価値観に合わない宗教がカルトや異教徒と考えるのはかなり危ない考え方と言うのは敢えて踏まえて言っても、“北欧ってどんだけカルト宗教が多いねん”と思いますわなw
5月に作品の中で行われた「五月祭」が行われて、6月の後半はミッドサマーの「夏至祭」が行われる北欧の初夏の訪れが恐ろしいw
1973年の作品なだけにザラつく画質もカルト映画っぽくて良い感じ。
また、カルトっぽく島全体が乱痴気騒ぎで性にも開放的と言うのもそれっぽい。
ちゃんとカルトの王道を踏まえてますw
サマーアイル卿を演じるクリストファー・リーは「吸血鬼ドラキュラ」のドラキュラ伯爵の他に古典ホラーにも多く出演している名俳優。
劇中のサマーアイル卿は最初観た時にはクリストファー・リーとは全然気か付かなかった。
クライマックスのシーンでの髪が爆発頭の様になってる姿は同じクリストファー繋がりで「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の時のドク役のクリストファー・ロイドを思い出しましたw
古い作品なので様々な設定を読むと更に観賞後も楽しめる♪
「五月祭で燃やされる生贄は少女ではなく、童貞で、賢くかつ愚かな者でなければならず、しかも王の代理として自由意思で来なければならない。」と言うのは凄いご都合設定だったとしても、生贄となるハウイーが童貞だったと言う設定は“ウソつけ!”と言いたくなるぐらいのツッコミどころ。
宿の女に一晩中誘惑されていてもその誘惑に負けずに意志を貫いた強い男で、断った理由が「婚約者がいる」と言っていたのに、それさえも怪しくなってきたw
仮に本当に婚約者が居たとしても童貞の男が婚約者って相手はどう思うのだろうか?
また、警官として国に正義を捧げ、国に誓いを立てる=女王に操を立てると誓っての童貞だったとしてもかなり痛い。女王もある意味いい迷惑だw
カルト宗教の話かと思いきや、生贄になった男の設定もカルトでしたって良く出来た話だw
木製の編み細工の人型の檻に閉じ込められたからって、力任せに突き破れば出来んじゃね?と思えるぐらいに檻としては弱そう。
でも全体を醸し出している空気が怪しく澱んでいる感じでそうは出来ない磁場の狂った世界観がタマランですw
またハウイーが閉じ込められた檻が焼け落ちてきて、人型の首が擡げた際に見えた夕陽のシーンは恐ろしくも美しい感じの屈指の名シーンではないだろうか?
この作品がカルトであっても、何処か危険で儚く脆く、怪しい魅力はラストに込められている様に感じます。
ニコラス・ケイジ主演で2006年にリメイクされたとの事だけど、なぜこの作品をニコラス・ケイジでリメイクしようとしたのかが謎。もちろんそれだけのカルト臭に魅せられたと思うけど、案の定「ゴールデンラズベリー賞」を受賞しているしw
日本ではごく僅かだけど過去に何度か劇場での上映もされていて、DVDも売られているし、配信でも鑑賞は出来るとの事なので、鑑賞困難と言う程ではないが、オリジナルを劇場で鑑賞するのはちょっと稀かな。
カルト映画って一定層には熱烈な支持があるし、個人的にもカルト作品は好きなんですが、実は今まで引っかからなかったのが悔やまれるw
でも、観賞するとカルト・オブ・カルトな作品です。
久しぶりの満足のいく変な映画を観ました♪
機会があればニコラス・ケイジ版も見ようかと思いますが…今はお腹一杯なので、当分はこの作品の余韻に浸っていようかなw
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