「「好きなこと」に関わる方法」AWAKE Yushiさんの映画レビュー(感想・評価)
「好きなこと」に関わる方法
清田英一(吉沢亮)はかつて奨励会(日本将棋連盟の棋士養成機関)で棋士を目指していた。奨励会では地元で「天才だ」と周りから言われるような子供たち(2020年時点では計170人が加盟)が一堂に会し、その中から年間2人というプロ棋士への狭き門をくぐりぬけるために子供たちが日々切磋琢磨していく。英一はその中で日々努力していくのだが、ある時を境に対戦で負けに負け、さらに浅川陸(若葉竜也)というライバルにも負け、ついに奨励会を去りプロ棋士を断念する。
その後大学に入った英一だったが、小さいころから友達を作らずに将棋しかやっていなかったため、人付き合いの仕方を知らず、大学では孤立していた。そんなときひょんなことから将棋ソフトの存在を知り、将棋ソフトを作りたいと考えた英一は人工知能研究会に入り、そこで実質たった一人の研究会メンバーである磯野達也(落合モトキ)と出会う。パソコンのキーボード打ちすらまともにできなかった英一はその後メキメキとプログラミングスキルを身に着け、自分で将棋のプログラミングまでできるようになった。その後コンピューター将棋の大会で優勝したのをきっかけに棋士との対局である電王戦の出場を申し込まれる。その対戦相手の棋士がかつてのライバルであった浅川陸であった...。
僕がこの映画を観て感じ取ったことは、「好きなこと」を楽しむ方法は一つではないということである。
奨励会に入っていた人のほとんどはプロの棋士になることはできない。では、プロの棋士を目指して日々努力を積み重ねた人がその道をあきらめたら、そこで人生というものは終わってしまうのか?今まで努力していた日々は無駄であったのか?そんなことはない。この映画のキャッチコピーにもなっているが、「夢の終わりは人生の終わりではない」のである。
具体的に見てみる。この映画には奨励会をやめてプロの棋士への道をあきらめた人たちが出てくる。はっきりと作品内で明らかにされているのは英一以外だと2人くらいだろうか。一人目は新聞記者の寛一 郎(中島透)。彼は辞めた後新聞会社から声がかかり、将棋のページを担当する記者になる。2人目は大学の将棋サークルに入っていた。
本当はもっと多いのかもしれない。奨励会の顧問(?)のような人も昔はきっと奨励会に入っていたがプロ棋士にはなれず、指導力が買われて奨励会の顧問になったのだろう。そんなことを言ったら将棋を英一に教えたお父さんだって、将棋サークルのメンバーたちや電脳戦の司会をしていた人たち、それを観戦していた人たちのなかにだって、昔はプロの棋士になりたかった人がいたといえなくもない。多くの人はプロ棋士にはなれなかった。でも、将棋で食っていくことだけが、将棋と関われることではない。指導やサークル、観戦など楽しみ方は沢山ある。それでいいではないか。「AWAKE」はそう訴えている気がした。
話は少し変わるが、「変身」を書いたフランツ・カフカ(1883-1924)は保険局員として働く傍ら小説を書いていた。さらにその小説のほとんどは死後発表されたものであり、つまりカフカは小説で一銭も稼いでいないのである。では、カフカは小説家とはいえないのか?小説で食っていけて初めて小説家と呼べるようになるのだろうか?そんなことを言ったら、生きている間に一枚しか絵が売れなかったゴッホは画家とは呼べないのか?そんなことはない。なぜなら「芸術とは結果ではなく行為である」からだ。同じようなことが、「AWAKE」に出てくる「将棋を楽しむ人たち」にも言えるだろう。