ノマドランドのレビュー・感想・評価
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存在を生きる
アメリカの自然は厳しい。どこまでも厳しく、どこまでも美しい。その厳しさ故に人は家を建てて凌ぐのだが、敢えてそれをせず、どんなに厳しくても自由を重んじる人達がいる。どこまでも自由を求めるそうしたノマド達の姿を1年間掛けて描いている。
主要な登場人物二人以外はすべてそうした生活を実際に送っている人たち。スワンキーやリンダメイ達の姿は、人生の最期まで自由を求める彼等の生活と幸福と厳しさを、彼等の考え方を教えてくれる。
フランシス・マクドーマントは彼等の中に入り込み、役を生きる、というかファーンという存在を生きている…
彼等のそうした生活を前提として、クリスマス時期のみに迎え入れるAmazonや収穫期のみに雇用し彼等をキャンプサイトに住まわせるビーツ農場などは彼等を搾取しているように見えるが、むしろ彼等を尊重しているのかもしれない…
素晴らしい撮影による美しい映像と印象的なフォーキーな劇判がこの作品を唯一無二のものにしている。
アカデミー最有力は伊達じゃない。
崖っぷちでも強く生きる姿に惹かれた。
ノマドの良さは、、
セリフの少ない映画でした。
主演女優の演技力の素晴らしさが際立っていた。
ノマド、ホームレスではなくハウスレスだと言う。なるほど、そうなんだなぁ。
家族も家も街も無くした女性がでもそこから離れられずにハウスレスになって暮らす。広大な自然の中で自分の生き方を見つめている。強いなぁ。
残念ながら、この女性がこういう生き方を選ぶに至る背景、無くなってしまった大切な人達の話は全く出てこない。途中でエピソードが出るかと思いきや、全くなかった。私的にはストーリー性の低さに少し残念な気持ちになった。
でも、最後にノマドの良さは、別れはさよならじゃない、またねだという言葉にはグッと来た。どこかでまた会えると思っていられる。それはステキな話だな。
生きる意味を考えさせられた
ドラマとドキュメンタリーが融合したような、それでいて詩的で不思議な作品でした。
神秘的な風景、圧倒的な自然の姿。
紡ぎ出される人々の暮らし。
企業に勤めていても、突然生活基盤を失うことはあり得る時代に生きている現実を突きつけながら。
遊牧民(ノマド)のようにさすらって日々を懸命に生き、楽しみを見つけようとする、主人公ファーンの前向きな姿を観ながら、生きる意味、働く意味などに思いを馳せました。
映画がきっかけで、自分自身の根源と対話する感覚に陥りました。
また、過度に観客の感情を誘導することなく、自然の素晴らしさと厳しさに寄り添うような、抑え目の音楽が心に染みて。
ほとんどの曲が、自然の音(波や風、焚き火、木々の葉の擦れる音など)をかき消すことなく、重なるように流されていたのが印象的でした。
ノマドランドを見て
ノマド生活に憧れる
私はアメリカの荒涼とした大地を自動車で走るのが好きだし、映画に出てきたバットランド国立公園(とWall Drug)が懐かしかったので、むしろノマド生活に対する憧れを強く感じた。季節ごとに、Amazonの仕分け業務や、RV宿泊施設のトイレ掃除など、季節的な仕事はけっこうあるもので、キャンピング・カーに居住しながら、高齢者が自由に生きていけるならそれでいいじゃないかとすら思った。ネバダ州の企業城下町で夫と暮らしていたが、夫とは死別し、リーマン・ショック後に会社が倒産したことで、町がなくなってしまう。60歳にして主人公のファーンはノマド生活を始める。若い頃の企業城下町への定住生活は映画の中であまり描かれていない。だが、会社が大好きで従業員と家族ぐるみの付き合いしていた夫と一緒に暮らしていた幸せな生活であったことが、映画の中で語られる。それはノマド生活と全然違うように思えるのだが、映画を観ているとその延長線にあるようにすら思える。過去の思い出を懐きながら、自由にアメリカを移動するファーンは、やはりそれまでの人生の延長を生きている。フランシス・マクドーマンドが本当に素晴らしいなと思う。他に登場する人たちも実際のノマド生活者であるらしいし、彼女らが実に魅力的であるから、やはりノマド生活に対する憧憬を感じたのだろう。監督は中国系アメリカ人のクロエ・ジャオ。彼女の撮ったアメリカの大地の景色が本当に壮観であり、主人公の心象をうまく象徴していたと思う。アカデミー作品賞はノマドランド、主演女優賞はフランシス・マクドーマンドかな。
感想:物語が様々な人に開かれていることの大切さ + (おまけ)登場人物スワンキーさんが気になった方へ
普段娯楽映画を見慣れていて、こういうタイプの映画を見ない友人にこの映画を勧めるとしたら、私は「映画のメッセージとか考えなくていいから、ただ2時間旅をするような気持ちで味わえばいいよ」と言うと思う。この映画を見た人ならわかると思うが、この映画は私たちに「ノマドになれ」と言うような押しつけがましさは微塵もない。
もちろん、この映画にはリーマンショック以降のノマドの生き方を選んだ人たちのアンチ資本主義的な態度や、アメリカの貧富の格差が映し出されていると思う。でも、その生活の実はネガティブな側面も同時にたくさん描かれているし、ノマドを選ばず定住する人たち、家族を持つ人たちの姿も描かれている。彼らがノマドになった理由は政治的なものだけではなく、もともと彼らの中にあった個人主義的な考えと結びついていたり、過去に囚われて次の人生にすすめない事が原因だったりと、当たり前だが一つの理由ではない。この映画に「この人の生き方が正解です」等というものはないのだ。
「この映画の意図は?」と評論家的な答え合わせをすることよりも、この映画を見ている時間を味わう事、自分がこの映画を見てる間何を感じるかを見つめる事が大切だ。(それは実はヴィム・ベンダース等の過去のロードムービーの伝統にも通じるところがある。)分断の時代、誰もが自分側か敵側かとネット上で争っている時代に、巨悪を凶弾したり、これが正義だと息巻くのではなく、ただそこにある人達の本当の生活をしっかりと静かに見つめる。そのことによってこの映画は主義主張を超えて、多くの人に開かれていると思うのだ。
この映画を見られた方にもう一つおまけとして、伝えたいことがある。(よって見てない人はここからは飛ばしてほしい)
この映画は二人のメインの役者を除いて、全て実在の人物が本人を演じている。では、素人とは思えない忘れられない印象的な演技を見せてくれた、スワンキーさんに起こったあのような大変な出来事も事実?と気になられた方もいらっしゃったのではないだろうか?そこで、英語の関連サイト等で確認してみたところ、実際のスワンキーさんにはあのような病気は無く、健康に今もノマドの生活を続けられているそうだ。あの話は実は彼女の旦那さんに起こった悲劇をもとに彼女が演じていたのだそうだ。彼女はちなみに、フランシスマクド―マンドの事も二度もアカデミー主演女優賞をとった女優とは全く知らず、誰かのホームビデオぐらいの映画に自分が出るのだと思っていたらしい。
わりと普通
よかった
『ヒルビリー・エレジー』『ミナリ』と立て続けに貧困がテーマの作品を見ていて、これもそれで、さらに孤独も加わる。オレも常々、お金に振り回されるような仕事はしたくないと考えてきたのだけど、お金をある程度の水準で稼いでいないとあっという間に貧困に引きずり込まれるような感じがあり、恐ろしい事だ。主人公よりずっと年寄りで病を抱えているおばあさんが車中泊の旅をしていて、死んだらあの車は主人公に上げたらいいのにと思う。楽々車中泊ができそうなキャンピングカーは燃費が悪くて、コスパが悪い、かと言って小型車では足を伸ばせて眠れない。ミニマムな暮らしは楽しそうだ。オレなら一体どうするだろう、そんなことをずっと考えてしまう。
現実の一面ではあろう
ノマドランド
リアルなアメリカをみる思い
リアルな米国を見る思い。若い奴らが行く先々で事件をしでかし、もしくは、事件を起こして逃げまくるなんてのが記憶にあるロードムービーだが、これは特に大きなドラマがあるわけではなく淡々と時間のコマが進んでいく。
そして、問題にぶち当たると自分で解決しようとする主人公。仲間に助けを求めたり。
でも、最後には1人。1人の人がそこでは、ドラマの主人公であり、ドラマを作っていく。こう言った人たちにとっては、ヴァンそのものが自分の世界。そこで毎日を戦っていく。
アメリカが力一杯だった頃のロッキーのように勝ち上がっていくドラマは、やはりエネルギッシュなアメリカのあの時を象徴していたと思うし、こういうドラマは、いまのアメリカを描き切っているのかなあと思った。
自然の美しさや解放感はあまり感じられなかった 年寄りにはつらい映画
ファーンとデイブと本物の車上生活者が主なキャスト。若い女性の原作者に若い中国人女性の監督。
爽やかな青空のシーンや朝日のシーンはほとんどなかった。お湯を沸かして、コーヒーを作るぐらいで、バーベキューなど旨そうな料理の場面もなし。憧れのアメリカ横断放浪生活といったノリは一切ない。
荒涼とした風景シーンが多く、低い雲が大地を覆う暗めのシーンが多かった。さびしい夕暮れから夜の場面が多い。
彼女の心証風景をわざと表していたのかと思う。立派な大きいキャンピングカーは余裕がある趣味で旅行している人たちの車であろう。
夫とともに慣れ親しんだネバダ州エンパイヤ。レンタル倉庫の中から、夫の遺品と思われるジャンパーと父親が結婚祝いにくれたアンティークの皿を選んで狭いRV車に積んだファーン。61歳の設定(2度もオスカーに輝いた フランシス・マクドーマンドは今年65歳)。
会社の倒産。社宅も失い、夫も病死してしまい、子供もいない。好んで放浪の路上生活を選んだ訳ではないと思う。転々と季節労働をしながら、同じように車上生活をする仲間がいるが、ほとんどが高齢者。ファーンと違って、デイブには帰れる家があった。孫まで出来た。デイブの孫を抱っこするファーンの慣れない感じと不安な表情。デイブの申し出にも、気持ちが揺らぐ様子はなし。親切のつもりだったが、大事な皿を割ってしまったデイブをずっと恨んでいるわけではないと思う。それよりも、彼女には譲れない大切な自分の生き方があるのだ。しかし、相当の意地と覚悟がなければ、やっていけない過酷な生活である。
車の故障。
高い修理代。23,000ドルだった??
姉の家に行き、お金を借してもらう。姉の夫は皮肉なことに不動産業で立派な邸宅。姉の方がうんと若々しい。ファーンは煙草🚬も吸うけど、それにしても。姉妹のあいだには積年のわだかまりがあるのだろう。どちらも、同居は無理といった様子。
一番印象深いシーンは古いスライド写真をコンパクトな携帯プロジェクターで、暗い車の中でひとりで見るシーン。幼い頃の彼女と父親が写っていた。たぶん、これが、一番大切なものなのだろう。印画紙の写真ではなくてスライドなのは、お父さんは写真が趣味で、彼の大切な遺品なのだと思う。暗い狭い車内でひとりでみると切なさが倍増しそう。
また、どこかでと言って、さよならとは言わないのは、言いたくないし、言われたくないのだ。
なぜなら、車中での孤独死の可能性が誰もがあるから。
この杯を受けとくれ どうかなみなみ注がせておくれ 花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生さ なんてカッコつけたこと言ってられない現実。
広大な荒野が広がるアメリカならではのノマド生活。日本ではなかなか難しいだろうけど、凍死するような気候ではないのは有利かもしれないが。
バッファローの場面はほんのちょっぴり。少なくなっていて、絶滅危惧種。
小林旭の昔の映画の主題歌 「流浪の唄」を思い出した。
🎵 流れながれて 落ち行く先は
知らぬ他国よ 見知らぬ土地よ いずこの土地にさすらい行きて いずこの土地にこの身を果てん
最後、レンタル倉庫を解約し、なかのものはすべて破棄処分したファーン。この旅を続ける覚悟を新たにしたのだと思う。強い。ファーンの社宅の裏は砂漠が広がっていたような。1930年の大砂嵐、ホーボー(HOBO)を連想させる。Woody Guthrie の アルバム Dust bowl ballads を出そうかな。どこしまったかな😵
see you later
アマゾン勤務
いつかまたどこかで
たまたま近所でやってたので観賞
アカデミー候補作とは聞いていましたが
先日観た似たような触れ込みの「ミナリ」は
大変期待外れだったのでそれと比べてどうかな
という視点がどうしても加わっていました
リーマンショックのあおりで基幹産業が消滅し
機能しなくなった街を離れるファーンは亡き夫との
思い出とともにAmazon等の期間従業員をしながら
車上生活を送ることになりますが
次第に同じような生活を起こるコミュニティに加わり
他人の人生や出会いに触れ自分の生きざまを
見つめながら選ぶべき道を探っていきます
不動産に貯金をはたき
マイホームを構え定職に就き家族と暮らす
そんな暮らし否定するファーンの生き方は
さながら遊牧民(ノマド)
ですが元来人間の暮らしはそちらが正しいわけで
しかもファーンはかつては定住していた側の人間
姉も古くからの知り合いもファーンに好意的で
いつでも頼って欲しいと言われてますが
なるべく誰の世話にもならず生きていきたい
という気持ちは共感できる部分も多いでしょう
世間的にははみ出し者のように扱われがち
ですが果たしてはみ出しているのはどちらか?
と考えさせられる部分もあります
それだけリーマンやコロナなど基盤がひっくり返る
事態が起こる時代です
この暮らしでであう仲間とのさよならはない
またどこかでめぐり会うからさよならは言わない
そこがいいんだ
本人役で出演したボブ・ウェルズ氏の台詞が印象的でした
先日の今作同様アカデミー候補作との
触れ込みが目立ったミナリは凝ったプロットの割に
橋田壽賀子のドラマの方がもっといいと思えるほど
共感性が低かったですが
今作はアメリカの文化や現実など
触れて味わえるものが多かった気がします
やってたらお薦めです
【邂逅と別れ、そして、再会】
自分の言葉の表現力のなさに嫌気がさすことがある。
この映画はそうだ。
重厚な映像や演技が、軽いタッチの上っ面の評価など受け付けない気がする。
そんな作品だ。
エンディングに向かう場面、深く息をしながら、目頭が熱くなるのを感じた。
大切な人を思い出す。
自分の魂と向き合うことになる。
(以下ネタバレ)
事業閉鎖や、金融危機の話題が出る場面がある。
ギグ・エコノミーに搾取されているように見える場面もある。
しかし、彼等は、決して自分の境遇を呪って彷徨っているわけではないのだ。
いや、彼等は、彷徨ってなどいない。
魂の行き着く場所を探し求めているのかもしれないが、しっかり生きているのだ。
そういう意味で、ホームレスやヒッピーではなく、遊牧民になぞらえたノマドという呼び方は合っているかもしれない。
彼等は、喪失感と向き合い、或いは、向き合える時を待ちながら、しっかりと生きているのだ。
邂逅と、さよなら、そして、再会を繰り返しながら。
「さよならは、最後のさよならではないのだ」との言葉は胸を打つ。
いつか、その魂は、大切な人と再び巡り会うことが出来るかもしれない。
それは、いつになるのか、誰にも分からない。
だが、いつの日か、その時が必ず来るのだと祈りたくなる。
それは、自分自身に向けられた祈りでもある気がする。
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