ノマドランドのレビュー・感想・評価
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思い出は生き続ける(生々流転)
ラスト手前で、ようやく安堵出来た。
「思い出は生き続ける」「私は少し引きずり過ぎたみたい」
この2つの台詞にまで辿り着かないならば、私にとってこの映画は星3に留まるところだった。
数年間の流浪を経て、その域が見えるようになった彼女の漂泊は、これまでとは違う意味をもつものとなるであろう。
高齢者を放り出すような資本主義・末期症状への意見表明は、この映画のメインテーマではない。(でも、もしかしたら原作者はこのテーマ重視かもしれないな)
登場するノマド生活者の大半は「尊厳の為に生き方を選び、かえって自分自身を傷つけている」と感じた。
自分の意思で選んでいるはずなのに悲壮感が漂っているのだ。
おそらく彼らにとっての「恥ずかしくない家・暮らし」のイメージがあるとして、それを実現出来ないから、それくらいならば誇りを守る為にノマドを選ぶ。そのような印象を受けた。
(ただし、ボブとスワンキーは違う!この2人は非常に達観している。)
大多数のノマドは、帰れるものならば家(ホーム)に帰りたいのだ。経済的理由、または、家族とのわだかまりなど何らかの理由があり、仕方なく車をホームにしているのだ。
「困窮し、仕事の為に放浪せざるを得ない」のと、
日本の兎小屋みたいな狭い賃貸で
「保証のない短期バイトで口を糊する」のと、一体どれだけの違いがあるというのだ。
日本の独居老人の心に過(よぎ)る様々な想いも、彼らと大差ないだろうと思う。
だから「車上生活」「定住しない事」もメインテーマから除外する。
私自身は、明日からノマド生活を送れ、と言われたらすぐにも出来る自信がある。(出来るだけ最小限の装備で1〜2週間野営するのは好きだ。仕事が許せばいくらでも続けられるだろう。高規格は大嫌いだ。)
あんな大きなバンなど要らない。
2シーターでも構わないくらいだが、アメリカを想定するならば、1回の給油で500km以上は走れる車が欲しい。
シートが出来るだけフラットに近くなるならそれでいい。ダイアルはいちいち手間だからレバーが望ましい。
スペアタイヤ、ジャッキ、ブースターケーブル、牽引ロープは必需だ。
大体、自分でタイヤ交換やバッテリー交換、オイル交換程度出来ない人間は車自体を運転するな!と、割と本気で思っている。
ボロってのは汚れや凹みの話じゃない。塗装剥げを放っておいたら、そこからどんどん錆びて金属腐食するじゃないか。
食費など月に1万円あれば味、栄養、素材、共に充分まともな料理ができる。
学生時代は仕送り無し、塾講師で稼ぎながら月8万円で暮らしていた。家賃4万、食費1万、その他雑費すべてで3万だ。TVや電話は置かなかった。
同世代がバブルの恩恵で、六本木で踊りまくっていた頃だ。今みたいに100均などないから物価はかえって高かった。
だから550ドルの年金では暮らせないと言われても、あと500ドルも稼げればなんとかなると思ってしまう。
作品に登場するノマドの暮らしが過酷だとは微塵も思えないのだ。
電気は最低限でいい。
排泄?街中の日中なら、大型店などでどうとでもなる。何もない荒野なら、キジ撃ち、お花摘み、これまたどうとでもなるだろうよ。(ただし、適切な知識があれば。その地点における自然分解までの日数予測が出来るくらいであれば問題ないだろう。)
父から貰った皿、思い出の写真。
「思い出の品」は記憶を辿る鍵にはなるが、それをよすがにしていると過去に捉われる。
ヒロインよりも更に厳しい出来事によって「形に残るものすべてを失った」人がどれだけいる事か。
まぁ、これは実際に失ってみなければ、吹っ切れない事かもしれないが。
だから、皿が割れたシーンは本作の大切な要素だ。
多くのノマド生活者が「高齢者」である点は作品の肝だ。
ファーンも膝の痛みを抱えていた。
若い頃とは違う。気をつけていても身体のあちらこちらに故障が出てくる。いざという時に経済的理由で医療を受けられないのは流石に看過出来ない社会システムの大問題だ。
しかし、最も重要なメッセージは
「思い出は生き続ける」ではないだろうか。
喪失の悲しみは深い。
けれど高齢者であれば、誰しもが大きな喪失を経験しているものだ。
生々流転。
すべては移り変わっていく。
サウスダコタの累層に眠る化石たち。
はたまた、数万年前の姿を見せる星々。
この世に留まるものは一つも無い。
悠久に見える地球や宇宙も、星々の時間スケールで「生まれ、育ち、老いて、消えていく」
そして消えた星の残滓から、また新たな星が生まれていく・・・。
その大いなる変化に目を向けたなら。
世界の黄金律を感じ取ったならば。
失った大切な人を嘆く必要はないのだ。
すべては移ろいゆくのだから。
定住と流浪を比較する必要もないのだ。
土地はいったい誰のものだ?
人間が決めたに過ぎない法律で家と土地を所有したところで、拠り所の国そのものが揺らげば、頼りない小舟に乗っているのと大差ない。
その境地に達した時、ようやく旅は漂流ではなく漂泊となるのではないだろうか。
勝手な個人的解釈だが
「漂流・流浪」はいつか落ち着ける先を探しながら、それが見つからずさまようイメージ。
「漂泊」は、この大地すべてが家であり、この大空すべてが天井であり、自分が眠るすべての場所が寝床であると考えるようなイメージだと思っている。
ラスト手前のボブとファーンのやり取りこそが、ジャオ監督の描きたい本当のテーマだと感じた。ラスト20分。それまでのモヤモヤした気分を打ち砕く、素晴らしいホームランを放ってくれた。
夫と暮らした思い出の家と街を失い、漂流するファーンをカメラは追い続けた。新たな出会い、気付き、葛藤を積み重ねる中、ファーンの精神は「大自然の摂理」に晒されて、次第に純度を増していく。余計なものが流れ去り、漂泊(漂白)の境地を垣間見た時から、新たなファーンの旅が始まった。悲壮感や惨めさとはおそらくもう彼女は無縁だ。ノマドとして、笑顔で生き続ける事だろう。
ラストシーンで走り続けるファーンの胸に去来する想いは、きっとそれまでとは違うと、そう信じる。
とても綺麗な映画
somethingを求めて
作品鑑賞中思い出したのは、若い頃少しだけ傾倒した寺山修司的な人生観。辛いことや絶望の淵にあっても、少なくとも前を向いて行こう。振り向かず前進しよう。少なくとも何かがある。それが何かは分からないけど、nothingではないのだと。
特にストーリーは無く、セリフもあまり多くはない。でも飽きることなく間延びすることもなく最後まで鑑賞できた。美しい景色とセリフに頼らない俳優達の演技が素晴らしかった。最後のボブの言葉が不自然ではない答え合わせのようになっていて親切に感じた。
ところでパンフレットが販売されていなかった。鑑賞した作品は必ずパンフレットを購入することにしているのだけど、こんなことは初めてだった。
アメリカを探しに
はい。よく覗きに来て頂きました。枕は無駄に長くて映画の感想は薄い、そんな私の馬鹿レビューでございます。
さて都内の桜は散ってしまいました。悲しいです。
この悲しみをどうすりゃいいの?弘前の人はいいなあ。まだ桜は咲いてませんし、桜は散ってもあの花筏(はないかだ)は絶品ですからね。
と・・・知ったような事を言ってますが雑誌で見かけただけです。すいません。
つい先日の事です。近所の川のほとりの桜が満開の桜時です。向こうから一人の女性が歩いて来ました。腰になんか下げてます。
なんだろう?気になりますね。
ちなみにその女性はインドの方です。とにかく江戸川区はリトル インディアと言われる位インドの方が多いのです。
その機械はスピーカーでした。英語のあとに日本語が流れていました。そうです!桜並木を歩きながら日本語の勉強をしていたんですよ!素晴らしいですね。オージャパネスク!私もねあなたの国に行きますよ。カレーの国へ。
友達は少ないんで 猿 豚 河童を連れて行きますよ。
お前は三蔵法師か‼️
さて相変わらずの枕と言うか与太話が終わりました。が・・・この映画について何を語ろう。ネタバレも何もほぼドキュメンタリーじゃないの?
まず愚痴を許して下さい。
なんでパンフレットを作ってないんだよ?
えーーディズニーさんよ!なるほどコロナ禍の影響かよ。はい。わかりますよ。一作に1億ドル以上掛けて作って、ペイするのは大変。NYとLAでは映画上映はなし。大作はプレミア配信のみ。色々ペイする為に必死。
なんかねー、この世の春を謳歌してそして絶滅していった恐竜だね。まるで。
立って半畳、寝て一畳、天下取っても二合半。
この映画はディズニーじゃなくてブエナビスタだけどさ。まっ同じだしね。ちなみにブエナビスタはスペイン語で素晴らしい風景です。意味深。
閑話休題、ファーン(フランシス・マクドーマンド)は配偶者を亡くし生活の拠点の街は企業城下町が倒産してノマド(放浪者)になります。
ノマドは車上生活者です。なんか憧れるよね。・・・と思っていましたが・・・
違います。アメリカですよアメリカ。甘くは有りません。極寒の地でも月の駐車料金が375ドル。土地代はただ同然じゃねえのかよ!
まず、企業城下町のあやうさを感じました。日本だと愛知県の豊田市。出身の知人に聞いた話だがほぼ全員TOYOTAの関係者らしい。
大丈夫か?親亀こけたら子亀もこけるんだぞ。いやいや世界のTOYOTAなんだからね。確かに。
多分、私が10代の頃にこの映画を観ていたら響かなかったかもしれない。今は響く。色々思った。連想した。
まずビートルズのNowhere Man 邦題は ひとりぼっちのあいつ。
なんの見通しもなくて
どこに行くのかわからない
君も僕も どこか あいつに似てないかい?
もうひとつはサイモンとガーファンクルのアメリカ
ねえ キャシー 僕はまよっちゃったよ
彼女が眠ってるのが わかってて
僕はつぶやく
心に穴が開いていて 痛いんだ
どうしたら、いいんだろう?
ニュージャージーの高速道路で
走る車を数えていたんだ
みんながアメリカを探しにやって来たんだ。
みんながアメリカを探しにやって来たんだ。
多分この映画でフランシス・マクドーマンドは3度目のオスカーを取るのでしょう。
ほぼすっぴん。ノマドの厳しさを表現しています。
食べる事、出す事(排泄) 生きる事、生々しく描かれます。
生まれた時は裸、死ぬ時も裸。
そんな事を感じました。
長文でごめんなさい。
読んで頂きありがとうございました。
「邂逅」という言葉を表すとしたら
きっとこうなるであろう、と思った。
日本では「ノマドワーク」くらいでしか聞いたことのなかった"NOMAD"という語。
根無草のように転々と生活していく生き方を、望んで選んだ者もいれば、そうせざるを得なかった者も居る。
劇中に何度か出てくる「石」がポイントだったのかもしれない。
地面を転がりつつもその地に佇むその様は、転々とするノマドランドの人間たちでもあり、かつて石灰の採掘の街で夫やその記憶と共に留まっていたファーンでもあるように思う。
国立公園では砂の粒が幾重にも重なって見事な岩肌の景色を作っていた。(岩に乗っかった2人の視線が一瞬交錯し、片方は慕う気持ちを滲ませたのも、もう片方はさっと前を向いて降りていくのも、凄く良かった)
積もれば長く残るものと化すこともある。そういえば、昔生きていた恐竜の等身大の像の前で写真を撮るシーンもあった。
例え移ろいながら生きていても心の中に拠り所となる家を持つことはできること、亡くした者も記憶の中に生き続けることの象徴みたいに思える。
ラストで火に石を投げて弔いとするその炎が立ち上がる先を、空に向かって辿っていく画の美しさと、ハッとさせられたような感覚が印象的だった。
このように石と言えども、様々なイメージを重ねることができる。
腰を据えることも、転がりゆくことも、どちらも美しく肯定するかのように。
カメラも地にしっかり据えるように空と地を捉えた引きの画が多かったようにも思った。
ファーンの他人との距離感の取り方も好きだった。ノマドランドの人々は皆そうなのかもしれないけれど、交流を持ちつつも、関わりすぎない。出会っては過ぎ去ってゆくのをただ受け入れる。さよならは言わずに、またどこかでの邂逅を願って別れの挨拶とする。
旅をしながら生きる目的や入口は様々でも、最終的に皆、どこかに定住するにしても旅を続けるにしても、自らの意思を持って人生を決め、進み、生きては死んでゆく。その様が本当にどこか潔かった。
淡々とした表現の中に、圧倒的にこれぞ人生なのだと滲み出る実感で包まれる感覚だった。
実際に旅をしながら生活している人々は高齢者が多いとのことだが、人生の酸いも甘いも知り、後悔も絶望も抱えながら長らく生きている人ほど、響く作品のように思う。
前作『ザ・ライダー』に続く秀作、この監督は期待大。
ファーン(ノマド)の暮らし方は季節労働で車で移動しながらというものだけれど、それは人々の人生そのものなのかもしれない。決して多くないセリフがしみじみと心に響き、俳優たちの無言の演技と目線が胸に迫る。
撮影は監督の前作『ザ・ライダー』と同じくジョシュア・ジェームズ・リチャーズ。荒野を引きで捉え明け方や焚火の光などを美しく生かす。『ゴッズ・オウン・カントリー』でもその力量はかなりのものだったが、見捨てられたような土地にそれでもなんとか生き抜く人間を対比させる映しとる。
それは全裸のあおむけで水に浮かぶマクドーマンド、真冬のフロントガラス、RVキャンプの駐車場などで生かされ、一方で、広大なアマゾンの倉庫や狭いバンの中での機能的/機械的な人工物との対比も良い。
ノマドたちに金銭的な不安はあるだろうが、すでにどん底を味わった強さも感じさせる。 なんらかの事情を抱えてここにたどり着いた人々の顔のシワや古びた持ち物。さりげなく助け合い共感しあい信頼し合う。
しかし(おそらく)キリスト教にのっとった共感や赦しと徹底した個人主義が、「人は皆一人で死んでゆく」という強さでもありはかなさでもあるのだろう。
漂流なのか、自由なのか
主人公は夫を亡くし、家を失くし、多分年金もほぼ無く、子供のいない高齢者だ。短期労働をしながらキャンピングカーで点々と放浪の旅を続けている。驚いたのは、定年後の第二の人生を楽しむ為にではなく、生活をする為に、終の棲家をキャンピングカーとしている高齢者が多いということ。アメリカの美しくも荒涼とした冬の砂漠が、主人公の不安をよりいっそう強く感じさせる。決して孤独ではないので、あんなに寂しさを強調した演出でなくても良いのでは?とも思う。彼女は亡き夫の想い出を失いたくないからと、その土地を追い出されても、尚もそこにいようとする。その呪縛から解かれるときが、真の漂流になるのか、真の自由になるのかよく分からないが、ラストの清々しい表情を観ながら空想に浸っていたら終わってしまってエッとなった。歳を取ったら、何か喪失感と向き合う時があったら、また観てもいいかもしれない。ベネチア金獅子賞も納得で、アカデミー作品賞も取るだろうと思った。
またどこかの旅先で
旅をしながら、土地土地で仕事をする。そのたびに新しい人と出会う。その繰り返し。
観ながら、大前研一の言葉が浮かんできた。人が変わるには3つの方法があって、それは、時間配分を変える、住む場所を変える、付き合う人を変えることだ、という言葉だ。(ついでに言うと"決意を新たにする"は意味がないらしい) ファーンは、そのうち"場所"と"人"の2つの条件は確実に満たしているし、"時間"もそうかもしれない。そうか、ファーンは自分を変えたかったのか、と思った。
じゃあ、何を?
その疑問が付きまとう。だけど、それは不満にはならない。むしろ、どこかいたわってあげたくなる気分になってくる。常識はあるし、人付き合いはできるし、仕事もしっかりとこなす。なのに、何が彼女を"高齢漂流労働者"にしてしまうのか。美しい自然美は、その哀愁を際立たせている。
ノマド提唱者(?)ボブが言う。「この生き方が好きなのは、サヨナラがないから。またいつか会えると思っているから。」と。そこで気付いて想像したのだ、亡くなった夫が彼女にとってどれほど心の拠り所だったのだろうと。すると、彼女の生き方がまるで、亡くした者(失くした物でも)にもう一度出会うために、自らが成仏できない精霊となって彷徨っているように見えてきた。だから、たとえ相手が快く迎えてくれようとも、ひとつの場所に留まることなんてできないのだ。
そしてまた、"またどこかの旅先で"出会えると信じながら旅を続けていく。そうやって新しい年を何度も迎えながら、これからもずっと彼女は生きていくのだろう。
人生の選択肢は無限にあると思える
自由とか、経済とか、色んな事を教えてくれるロードムービー
それでも生きていかなきゃならないから。
何を言いたかったのか、わかりづらい
アメリカの精神が大陸の自然美とともに巧く映し出されている。
夫を亡くし、職も定住地も失った初老(?)女性が、キャンピングカー生活の中で、季節労働をしながら、様々な同じような境遇の人たちと出会うロードムービー。
音楽も大きい展開もないが、彼女の生活や視点から様々な人生観を描いており、そこに何の答えもないが、終わってみれば、『生きる』という事を考えていた。
特にスワンキーという余命7~8か月の女性や、あのキャンプ地のリーダー的なサンタのおじさんの語りが、この映画の秀逸な点だった。
先日観た『ミナリ』にも通じる事だが、大陸の自然美の撮り方が絶妙に巧い。これは、本当アメリカ大陸だからこその美しさ。何もないところから何かを創り出す、また自分らしく生きるというのは、アメリカの開拓精神に通じるものがあるし、そう考えると、この土地には独特の精神が宿っているのかなあ、なんて考えた。
奇しくも『ミナリ』も『ノマドランド』も同時期公開で、アジア系アメリカ人監督作品。
昨今のアジア人ヘイトクライムなどが報じられる中、アジア系アメリカ人がアメリカの精神を映画にしたのは何かの偶然か。
I love マクドーマンド!
彼女を観たい!それが理由で鑑賞。
前作のスリービルボードで大ファンになりこの作品が待ち遠しかった!今作品の彼女も前作以上に最高でした。
ほぼすっぴんと思わせる超ナチュラルメイクにショートヘアーが最高の美しい姿だ。まさにノマドにぴったりの彼女!内から湧き出る大人の女性のたくましい姿、時折見せるお茶目な表情や遠くを見つめる色気のある瞳にただただ彼女に釘付けでした。ドキュメンタリーを見せられてるかの様な自然体の演技が素晴らしいです!
季節労働を転々としながらノマドとして生きていく彼女だか、仕事を変える度に変わるユニホーム姿の彼女がまた素敵過ぎて、、、、
作品としての評価は今回はしません、彼女の魅力を伝えたくての投稿でした!
この社会の片側より
寂寂とした世界観が色濃い、新たなるロードムービー。
劇中にAmazonの季節労働者の話が出てきたり、私が今まで観てきたロードムービーとは少し違う趣きで、現代社会のリアルさを物語に挿入することで、さらに寂寂とした世界観を色濃くしている映画。バギーツアーの観光客とトレーラーハウスのノマドの民とのコントラスト、砂漠と枯れた山並みとピンクに染まる美しい夕焼けの切なさ、企業が死に町が死に、それでもそこで生きる人がいる。昔撮影で二週間ほど滞在したアリゾナの風景はまさにあんな風だった。
「パリ・テキサス」や「バクダッド・カフェ」とはまた違うところで心の奥をツンと針の先で突かれるような映画。「スリービルボード」といい、フランシス・マクドーマンドの演技は強力のひと言。終盤にファーンが雨の岬で空を仰ぐカットは、全身で自然のパルス受け入れようとする、まさに魂の解放そのものだった。私もそのパルスを感じて心にさざ波が立った。
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