「「独りよがり」に見えるノマド生活。」ノマドランド すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
「独りよがり」に見えるノマド生活。
◯作品全体
さまざまな経緯があって家を持たないノマドたちは、短期間雇用の労働者として職を探し、転々と生活場所を変えなければならない。衰えた体とも向き合わなければならず、なかなか見つからない職を探しては日々の生活を乗り越えていく。序盤のドキュメンタリーチックなストーリーとカメラワークは、自由人に見える彼らたちの「つらい現実」の側面を切り取っているように見えた。
だからだろうか…主に後半で語られる主人公・ファーンがノマドでいる理由が、ノマド以外の選択肢がないからでなく、「夫と過ごした地が忘れられないから」、「親族とそりが合わないから」であるということに、「独りよがり」という印象を受けた。別の選択肢が提示されたうえで「自分が選択した現実」であるならば、そこに悲壮感を持たせるのは演出のミスリードだと感じる。孤独を強調するように登場人物と距離があるカメラワークや、車上生活の寒さやつらさを象徴した寒色に覆われた画面は「前を向いて生きるファーン」を映すというよりも、つらさが強調されているような気がしてならない。なぜその空間に居続けるのか、という部分を語られなければ、そのつらさが理不尽に映るだけだ。
ファーンの行動は前向きなものが多いが、車上生活をする上で必要なスキルを習得しようとしなかったり、その結果として周りの人に修理代を無心する姿は「自分が選択した現実」に挑む姿として一貫性がなく、「独りよがり」の印象を強くするだけのエピソードだった。演出意図としては自分ではどうすることもできない状況を作って、理解者である姉と接近し、ファーンの過去や考えを掘り下げたかったのだと思う。しかし、自ら親族と雰囲気を悪くし、姉の希望にも応えようとせずお金をもらって帰っていく姿は「独りよがり」だ。ファーンは夫や安住の地、そしてノマドの仲間たちから取り残され、「独りぼっちになる」という演出が多々ある。仲間が乗ったバンを見送るシーンを何度も見せているのがその証左だ。しかし、姉から「ファーンがいなくなって寂しかった」という告白があり、ファーンも「独りぼっちにさせた」一面があったという構図は膝を打ったが、結局それをないがしろにして姉から去っていく展開は、やはり「独りぼっち」ではなく「独りよがり」の存在に映る。
独りで放浪しつつ夫と過ごした思い出の地を眺め、今までと同じように車を走らせる姿は虚無そのものだ。凝り固まった「独りよがり」をそのままに、どうにもならなければ姉のもとへ行き、再び放浪することを繰り返す。自分を必要とする場所=居たい場所ではないというのはわかるけれど、自立しなければ「定職につかず、貯金もしないが親を頼って生きる子供」とやっているのことはかわらないのではないか。若ければ夢を見れるが、老人がそれをやっているのでは、やはりそれは虚無だ。しかしその虚無も姉に手伝ってもらっての虚無なのだから、偽りの虚無に感じて冷めた目で見てしまう。
救済措置があること前提で高リスクな生活を望んで過ごす様子は、さながらバンジージャンプのようだ。そう感じてしまうと、本作で描かれるノマド生活は「リアリティ」と「フィクション」、どっちつかずに見えてしまう。
◯カメラワークとか
・コントラストが弱い画面は風通しの良いアメリカの景色とよく合うな、と思った。孤独の演出としても使えるし、自由の演出としても使える。歴史も浅いから急造の街に嘘くささがない。
◯その他
・個人的な好みの話として、ノマドとしての生活を描写するのであればドキュメンタリーを撮ればいいと思うし、ノマドを通したドラマを撮りたいのであれば過酷な場所に身を置く主人公の覚悟が見たかった。自ら身を置いた生活の中でもそれを徹底できない中途半端さは人間臭いし、それはそれでちゃんと人間を描写してるとも言える。見たくないものを見せてくれるのもそれはそれで映画の良いところだけど。