「ノマド的ではないノマドは、幸せなのかも・・・(欺瞞に気づく映画!)」ノマドランド critique_0102さんの映画レビュー(感想・評価)
ノマド的ではないノマドは、幸せなのかも・・・(欺瞞に気づく映画!)
いろいろな見方ができる映画だった。
「ホームレス」ではなく、あくまで「ハウスレス」。
でも、それを謳うことは、かえって幸せなのかとも思えてしまう。
ノマドはハウスを持つことはないが、ホームを探し続ける。
それは、彼らにとって、ホームを求める独りでいるこそが、実は幸せそのものなのかもしれないということだ。
孤独と孤立は、決定的に違う。
彼らは、それぞれのシーンで、孤独ではあったと思う。しかし孤立はしていなかった。
だから、それはある意味、アメリカの歴史に通じるものがあるだろうし、そしてまた、現在の人々にも、至る所に心の「レス」をもち続け、であるが故に、Chloe Zhaoは孤独をキーワードにストーリーを展開させていったのだと思う。
Linda MayもSwankieもBob Wellsも
Frances McDormand演じた Fernも、実は、「レス」ではあるし、ある意味、孤独なのかもしれないが、決して孤立はしていない。
だからこそ、見ているものにとっては、彼らノマド「可能な」人々は、もしかしたら、実はスノッブ的な生き方をしていると言えることになるのかもしれない。
「孤独」な生き方は極めて主体的であり、それは肯定的で、おそらくはこの映画評の多くがそうしているように、実に賛同的だ。
そうだろうか?
ノマドを選択している彼らは選択できたし、実際に選択したのだ。
しかし、現実はどうだろう。
映画の中にもあったように、選択できない、選択することを許されない「生」が実際にはある。
他の選択を許されない生き方しかできない人々がいる。
彼らは、スマホも、友人ももち得ていないし、Amazonは夢の世界でしかない。繋がらない・・・・のだ。
Chloe Zhaoが意図したのは、ひょっとすると、この極めて「アメリカ」的な映画から、その欺瞞性を指摘することではなかったのか?
ノマドを「ニュー・ノーマル」などと、ほとほと呑気に評している輩を見ると、どれだけアカデミー中毒になっているのかと心配してしまう。これは新しい生き方の賛歌では毛頭ないのだ。
それを、どこかに置き忘れた映画評は、まさに、あなたこそ「ノマド」的と評したい。
ノマドは、ある意味イデオロギーだし、その範疇内に留まれない「彼ら」がいることを忘れてはならない。
「最後のさよならがない」のは、それをいう必要がないからだ。
ノマドは、孤独ではあるが「安住の地」を「求めること」を約束されている。
しかし、ノマド的存在にもなれない人間をどう扱うことができるのか。
おそらく、この映画の真髄は、それを考えることにある。
くだらない「アカデミー」騒ぎではないところから、この映画を評することが必要だ。
映画の最終部、 Fernが開いた自らのホームの柵、扉は、まさにノマド的生活において自己隷属した自らの解放であり、ノマドとしてすら存在し得ない人々への「開き」ではなかったのか。
おそらくは、自らのノマド性を解放したときに、おそらくは、自らが求めるノマドらしきものが表象されて来るだろう。
もし、この映画が、そこまでを語ろうとしていたならば、「賞」に匹敵でするであろうが、このサイトに見られるような陳腐な評では、せいぜい「アカデミー賞」がいいところだろう。
そんな見方のできる映画であったということだ。