「観たのは数か月前。映画公開と前後してロシアのウクライナ侵攻がはじま...」親愛なる同志たちへ りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
観たのは数か月前。映画公開と前後してロシアのウクライナ侵攻がはじま...
観たのは数か月前。映画公開と前後してロシアのウクライナ侵攻がはじまり、あらすじを書いたあたりでレビューがストップしていました。
さて、コンチャロフスキー監督は、同じく監督のニキータ・ミハルコフの兄で、ソ連時代から監督をし、後、米国でもエンタテインメント系の作品も多く撮っていますが、半数ぐらいは日本では劇場未公開ではないかしらん。
監督作品が劇場公開されるのはいつ以来のことかしらん。
2014年製作の『白夜と配達人』は東京国際映画祭で鑑賞しましたが。
1962年、フルシチョフ政権下のソ連南西部ノボチェルカッスクで党役員として活躍するリューダ(ユリア・ヴィソツカヤ)。
実生活では、コサック兵として闘った経験のある父と、機関車工場で働く18歳の娘スヴェッカとの3人暮らし。
町の党委員としては上級の地位にあるのだが、独り身ゆえに疼く心は押さえきれず、同じく党役員と不倫関係にある。
リューダを悩ましているのは、スターリン政権からフルシチョフ政権に代わっての物価高騰と食糧不足。
しかし、それとても党地方組織委員という立場からすれば、希少な食料はわけなく手に入る。
それよりも、娘スヴェッカの行動だ。
若気の至りといえばそれまでだが、政府に楯突くような素振りが感じられる。
そんな中、スヴェッカが働く機関車工場でストライキが勃発する。
社会主義国家の中でストライキとは俄かに信じがたいリューダだったが、物価高騰と食糧不足に加えて、経営陣からの一方的な賃下げ。
スヴェッカはストライキに参加し、他の労働者たちの熱に浮かされて、過激な行動に出るのではないか・・・
リューダも含めて、党幹部が集まった目の前に、労働者のひとりから石礫が投げ込まれ、それが合図であるかのように、銃声が鳴り響く・・・
といったところからはじまる物語は、数年前のマイク・リー監督『ピータールー マンチェスターの悲劇』を思い出すが、国家が国民に銃を向ける映画といえば『天国の門』もそうですね。
で、市民へ向けての発砲、国からの弾圧は映画の中盤、どちらかといえば前半に近いところに位置している。
この発砲銃撃事件までの演出は、共産党地方都市幹部のリューダの日常を描いていくわけですが、狭い部屋での鏡の多用など、普通に撮れば平板になるところを多層的にみせている演出。
冒頭の不倫シーンはヒッチコック『サイコ』をちらりと思い出しました。
そして、発砲銃撃事件となるのですが、混乱の描写を対立法・体位法という、哀しみ大きシーンとは反対の陽気な音楽。
事件近くの美容室で、無音で飛ぶ銃弾に女店主が被弾するシーンでは、ラジオから陽気な音楽が流れている・・・
おお、久しぶりにこの手の演出を観ましたぞ。
黒澤明や小津安二郎も使っていたので、60年代ぐらいまでは割とよく見た演出方法なのですが、ここ最近はとんと観なくなりました。
この混乱の中、娘スヴェッカは行方不明となり、リューダが探す物語が後半となります。
この後半は、近作では『アイダよ何処へ』を思い出しましたが、古くはフレッド・ジンネマン監督『山河遥かなり』も思い出しました。
後者を思い出したのは、リューダを手助けする党幹部の男性が登場することも影響しているかもしれません。
ただ、この男性が登場することで、ややドラマがメロウな方向に流れてしまったのは残念。
探索当初は娘の生存を信じていたリューダですが、次第に娘の死を確信するに至る。
そして、彼女が着けていたリボン(だかの小物)を手掛かりに、娘が埋葬されたと言われる墓にたどり着く・・・
このあたりはかなりのメロウ描写なのですが、監督の想いは最終盤にありました。
死んだと思われていた娘であったが、実は生きていた。
そして、母娘が並んで呟く「この国は、きっと良くなる」という言葉。
これはコンチャロフスキー監督の祖国ロシアへの郷愁と希望と祈りのようなものが込められています。
過去の暴行に目を背けることなく、そんな歴史も受けとめた上で国を信じたい、という願い。
老境のコンチャロフスキー監督に今回のウクライナ侵攻はどのように映っているのでしょうか。
そのことも含めて、今年いちばん心に感じるものの多い映画でした。