劇場公開日 2020年12月18日

「女性の心情を上手に描いてみせた佳作」私をくいとめて 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5女性の心情を上手に描いてみせた佳作

2020年12月20日
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鑑賞方法:映画館

 とても文学的で、どこか哲学的な作品である。大九明子監督は今年9月に鑑賞した映画「甘いお酒でうがい」に続いて、都会でひとり生きる女性を生き生きと描き出した。「甘いお酒でうがい」の主演は松雪泰子だったから、妙齢に達した女性のある種の達観のようなものと、年齢に関して感じる引け目や消極的な態度があったが、本作品では、それよりも10歳以上若い30代という設定の主人公だから、自分の年齢に対する捉え方が若干異なっている。しかしところどころで現れる乙女の感情は共通している。女性というものは幾つになっても心は乙女のままなのである。
 主人公みつ子は、恋人もいないのに派手でエロティックな下着を持っている。のんがそういう下着を身に着けているシーンがあれば更にリアリティが増したと思うが、流石にのんにはそこまでの覚悟はなかったようだ。27歳ののんは見かけが若すぎて、31歳のみつ子を演じるのは少し無理があるような気もしたが、最近の31歳の女性はかなりの割合で20代に見える人が多いということもあるから、これでよかったのだろう。それに本作品は主人公の内面を描く文学的な作品だから、見た目よりも演技力が問われる。
「甘いお酒でうがい」では松雪泰子演じる主人公佳子がモノローグで自分の日記を語る形式だったが、本作品はみつ子が心のなかに設定して昼夜会話をしているAとの自問自答で行動が決まり、生き方の方向性が決まっていく。Aは自意識そのものだから、Aと会話している限り、恋に落ちることはない。自意識は落ち着いた部分と落ち着かない部分があるから、その落ち着かない部分をのんの台詞が担当し、落ち着いた部分を中村倫也のモノローグが担当した。
 自意識も含めて、意識は脳の働きの数万分の1でしかない。脳の殆どの役割は無意識にある。喜怒哀楽も恋も憎しみも、すべて無意識の働きだ。みつ子は自意識が強すぎて、無意識に自分を任せることができない。喜怒哀楽から遠くにいて平和な日常を送ることができるが、ときに自意識が暴走して失敗することもある。無意識の領域である性欲や食欲の情熱も感じていて、食欲のために自分で料理をしたり、ひとりで焼肉を食べたりするが、内なる乙女が求める恋のロマンスは押さえつけている。
 自意識がみつ子の幸せの邪魔をしていることは間違いなく、自意識が顔を出さなかったローマでは、親友との旧交が温まることに感動する。幸せな涙である。しかし日常に戻ると再び自意識との問答の毎日となる。理性は意識によって自意識をコントロールすることで、それができるようになることを大人になると言うのだが、みつ子は自意識が肥大しすぎて暴走する。
 自意識が暴走してしまうのは思春期に発現する自意識の急激な膨張をうまく乗り切れなかったせいだ。反抗期がなかった人は、大人になっても自意識が肥大したままでいることがある。みつ子はまさにそれだ。幸せは意識でなく無意識の領域だから、自意識の肥大しすぎたみつ子には幸せは来ない。誰かに自意識の暴走を止めてほしい。それには無意識の領域である恋の情熱に身を任せるしかない。多田くんはみつ子の自意識の暴走を食い止めることができるのだろうか。
 みつ子のような30代女性は日本にかなりいると思う。自意識が肥大したおかげで保守的になり、人付き合いも苦手だから、あまりお金を使わず溜め込んでいる。異性にときめきを感じることもあるが、自意識の警戒心が強すぎて基本的に誘いを断るから、恋に落ちることはない。安全で安心で平凡な日常だが、それに満足しているわけではない。本当は冒険をしたり恋に落ちたりしたいのだが、一歩を踏み出せないまま年をとっていく。こんな人生は嫌だと感じているが、どうしても勇気がない。都会に暮らす微妙な年齢の女性の心情を上手に描いてみせた佳作だと思う。

耶馬英彦