「宣伝文句が先走っていた」名も無き世界のエンドロール しょう吉さんの映画レビュー(感想・評価)
宣伝文句が先走っていた
ラスト20分での大どんでん返しを大々的に宣伝したせいで、初めから全てを疑って掛かってしまったかと思う。
それを差し引いても、マコトがリサに惹かれた(ことになっている)初対面の場面で、あまりにもリサに魅力が無く、また、マコトの目も全く恋に溺れた目ではなく、最初から殺し屋がターゲットを見るような表情に見えてしまった。
話の展開が序盤で完全に読めてしまったので、ミステリーやサスペンスというより、人間の心情の機微を観るヒューマンドラマとして観ることにした。
そうすると、キダとマコトとヨッチの揺るぎない関係性の中にも、やや首を傾げたくなる場面が散見された。
マコトは、学生時代にはあたかもキダとヨッチを取り持つように二人きりにしてあげていたように窺えたのに、何故、キダに何も言わずに「突然」ヨッチに告白したのか。
ヨッチは、何故自分の親友である筈のキダに、「殺し屋」が似合うなどと不穏なことを予言したのか。小中学生がアクション映画に影響されて「スナイパー」を格好良く思う気持ちは分からないではないが、高校卒業を目前にし、進路について話している時に「殺し屋」という表現を使うことに違和感を覚えた。「さびしい」と「さみしい」のような小さな語感の差異を気にする彼女であったからこそ、余計にその違和感が大きかった。まるで、自分の遠くない死後にキダが自分のために殺し屋になることを望むかのようだった。
マコトのプロポーズ作戦も不可解で、自殺願望があることは分かるのだが、人に忘れられることを最も恐れるヨッチを思うのならば、リサは道連れにせず生き地獄を味わわせた方が効果的なのではないかと思う。あのシーンを観た世間の人は、轢かれたヨッチのことなど気にもとめず、爆死した人気タレントとその父親の政治家のことを暫く話題にして、そしてすぐに忘れていくだろう。人は赤の他人の人生にそこまで興味を持たない。初めから、忘れられないように縛り付ける対象はキダ一人だったように思える。
キダは、唯一徹頭徹尾マコトとヨッチを思って生きている様子が、学生時代のキダの眼差しからも顕著で、だからこそ切なかった。横断歩道の向こう側とこちら側、三人でいるのに一人だけ傍観者になっている切なさを端々で感じた。
マコトにとってドッキリを仕掛けることが愛情、仕掛けられた相手の反応から愛情を感じているとキダは考えていた。マコトが最期にキダに仕掛けたドッキリは、マコトにとってはキダを巻き込まないための愛情だったのだろうが、それと同時に、キダを一人横断歩道のこちら側に残して、自分とヨッチのことを忘れずに生きていくことを強いるものに思えた。
三人だけの世界に一人で取り残されたキダは、死ぬことさえ許されない。ただ死んだ二人のことを忘れずに生きていかなければならない。とても残酷な話だと思った。
エンドロール直後にdTVの宣伝が入り、やや興醒めであったが、同時に、少なくとも半年後キダは生きていて、立ち直るのかもしれないと、僅かに浮かばれたような複雑な気持ちになった。
大どんでん返しは、予期していないからこそ不意をつかれてその種明かしに感服するものだ。
最初から大どんでん返しを過剰にアピールし、そのまた裏をかくこともなく、単に盛大なネタバレをしていた宣伝部は猛省すべきだと思ったが、主役達の演技は素晴らしかったと思う。
岩田剛典は昔は「アイドルが演技もしている」感覚が抜けなかったが、キダの苦悩、切なさ、覚悟が台詞のない場面でも見事に表現されていた。新田真剣佑は、学生時代の朗らかさ、ヨッチを失った後の死んだ目の対照が圧巻だった。