ラストブラックマン・イン・サンフランシスコのレビュー・感想・評価
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街へのラブレター
サンフランシスコ出身の監督と主演俳優による、街への複雑な想いを込めたラブレターのような作品だ。主人公はかつて住んでいた家を買い戻したいと願っている。祖父が自力でその家を建てたという話を主人公はかたくなに信じている。自分で自分の居場所である家を作ったということが、彼にとっての誇りなのだ。しかし、街は変わりゆく。その家には今、裕福な白人が暮らしている。だが、売りに出されたことで、なんとかその家を手に入れようと奮闘する。
かつては自分の居場所だったその家と地域は、かつては日系人が住んでいた街だと言う。日系人が太平洋戦争の際に強制収容所に入れられたことで、空いたその地域に黒人が移り住むようになったのだ。祖父が建てたという話の真偽はどうなのか、主人公が絶対的な自分の居場所だと思っていたその家は、本当は誰のものなのか。居場所とアイデンティティをめぐる物語を描いた素晴らしい作品。
どこにもカテゴライズできない、街の神話とでも呼びたくなる秀作
なんと大らかで、しなやかな語り口なのだろうか。サンフランシスコという街を一つのモチーフとしながら、そこに建つ尖塔が印象的な一軒家に焦点を当て、さらに「この建物はかつて祖父が一人で築き上げたもの」と主張するアフリカン・アメリカン青年の決意と行動に本作はじっくりと寄り添う。ともすれば、大風呂敷を広げすぎて個々の要素が空回りしてしまいそうな危うさを秘めながらも、決してそうはならない。ここが新鋭ジョー・タルボットの優れた部分。とりわけ冒頭、スケートボードでゆっくりと街を滑走するオープニングがあまりに素晴らしく、印象深く映し出される「街並み」や「人々の顔」が、本作の時に神々しくも感じられるほどのムードを決定付けるのだ。静かにこみ上げる街への愛情。そして仲間、家族、コミュニティ、自分たちの歩んできた歴史へ寄せる思い。そこには街の息遣いとともに、どこにもカテゴライズできない唯一無二の物語が刻まれていた。
オルガン
知らない街の知らない歴史を知る
映画をぼんやり観てると
娘が、なんでこんなの観てるの?と聞いて来たので、
映画で知らない国の知らない出来事を知るためだよ
と答えたのだけど、
本当にそう言う映画だった。
自分達はこう言う暮らしをしてて、
こんな思いでこう言う人生を歩んでます。
と言う映画だった。
押しつけがましくもなく、淡々と日々が過ぎて行く。
変わらない日常と少しずつ変わっていく風景。
テーマがどうとかそう言うものではなく、
こう言う人たちがこんなところで暮らしてるんだな
で良いような気がする。
僕としては、おじいちゃんが建てた家があり、
その家をどうするか?と言う問題は僕の身にも
起こっているので、
なんとなく固執する主人公の気持ちが分かる気も
した。
都市開発によって、ずっとそこに住んでいたのに
取り残された人々は一体どこに向かうのだろうか?
かつての街と、かつての家族
サンフランシスコ御用達
どんどん変貌していく街、サンフランシスコで取り残されていたビクトリア様式の生家が売りに出される。
主人公はお金がないので、友人と不法占拠してしまうのだが・・・。
都会では昔の家並みを見ることはほとんど不可能となっており、主人公の気持ちはわかるが、あまり迫ってこなかった。
予告を観てハードル上がってたんですが、観た方に感想を伺いハードル下...
どこから来た? そして、どこへ行く?
変わりゆくサンフランシスコになす術が無い
変わりゆくサンフランシスコとそこで生まれ育った二人の黒人・ジミーとモントのお話。
ジミーは祖父が建てたと聞かされてきた家に執着する。家族と暮らした記憶があるその家をいつか自分が取り戻すのだと。
ヴィクトリアン様式の歴史的建造物として観光名所にもなったその家は、祖父一人の手で建てるにはあまりにも立派な家だった。
小さいながらも自分の家を持つモントは定職に就き盲目の父と暮らす。彼はジミーを下宿させ何かと支えた。
やがて知る現実。
音楽好きなら知らぬ者はいないビル・グラハムのフィルモア・ウエストがあった地区。自由の象徴だったその地は再開発が進み富裕層が住む高級住宅街と化した。もはやジェファーソン・エアプレインは似合わない。
今作はそこから押し出され行き場所を失っていく人々をデフォルメした。無常感となす術の無さに落ちた。
スケボーで流すサンフランシスコの街の情景に激アツな愛情がにじみ出た。それが微かな救いだった。
ひとつ屋根の下 in サンフランシスコ
作品の持つメッセージや主人公の目的は読み解けれど、なんか薄味だったなぁ、というのが率直な感想だろうか。
自分の祖父が建て、かつて自分が育った家が空き家になったと知った主人公がその家を取り戻し、家族の再生を試みようとする、言うなれば“ひとつ屋根の下 in サンフランシスコ”である。些か取っ付き易いプロットながら、やはり一筋縄でいかないのがこの物語ミソ。歴史が変わり、住む人が変わり、社会の格差が拡がった現代では彼の目論見もうまくいかない。何もない故郷から出て行くタイプの作品であれば、そのコミュニティの抱える問題を課題として物語を進行させていけるのだが、本作はその逆だ。その町に生きづらさを抱えつつも、そのコミュニティに残ろうとする物語であるから、その土地に関するバックグラウンドが多分に必要になってくる。
だからと言って、この作品が不親切な作品だと誤解しないでほしい。サンフランシスコの社会や歴史、あるいはそこに住む人たちの文化や雰囲気を知っている者が観たら、受ける印象が大きく異なるに違いない。薄味と感じた私にはできない、トッピングやスパイスが日常的に整っていれば、これくらいの味付けで十分なのだろう。むしろ、サンフランシスコの現実を出来るだけ、ありのままに物語に取り組んだ結果であると思えるのだ。
サンフランシスコで育ったという監督のジョー・タルボットは本作が長編デビュー作。坂の街として知られるサンフランシスコをスケボーで下るシーンの美しさはその街の魅力を肌で理解している証拠であろう。スパイク・リーがニューヨークの現状を織り交ぜながら映画を撮るように、ジョー・タルボットはサンフランシスコの今を私たちに伝えてくれる監督になることを期待したい。
賛否両論
建築愛!
成長は痛みを伴う。
予習というか、地域的背景や2010年代の時代的な背景を前もって知っておいた方が良いということだったので、日頃はあまり前情報を入れないで映画を観に行くけど、ちょっとだけ予習して行った。
もっと背景について何か分かるかな?と思って、パンフレット買おうと思ったら、作られてないって。
言ってみれば、子供時代との決別、旅立ちの物語、最終的には。
家はきっかけ。
手放すことや成長には痛みが伴う。
嘘だと分かっていても信じたいという人の弱さ、でもそれが人間らしさ。
人はそれを越えていくことができる。
希望はある。
そういうものを優しく見せてもらった気がした。
「黒人が白人富裕層に追い出される話」みたいな感じかと思ったら、最終的には違った。
主人公とその親友、2人ともちょっとエキセントリックでほのぼのとしてて、この関係性がとても微笑ましい。
各々黄色のお花を抱えてバスに乗ってるの、可愛かったなー。
ずっと一緒にいなよー、と思ってしまうけど、そうもいかない。
映像や音楽が軽快で、サンフランシスコってどんな町なのかというのをスピード感を持って見せてくれるオープニングがとても良かった。
いつもいきがって悪い言葉をがなりたてている黒人のお兄さん達、友達の死に、つい泣いちゃうところが可愛らしかった。
釣った魚の目が片側に二つ並んでるの、シュールで怖かった。
全裸の人が出てきたり、所々、ギョッとするような、地味にヤバい人や出来事があって面白い。
再びあの地を訪れたなら…
想い出の地SF。冒頭、私的な内容を並べる様だが、初めて海外の土地を踏み締めた場所はサンフランシスコだった。そして今、祖父母から引継いだ家の解体が迫り… など、思いもよらず個人的な感傷とシンクロさせていた。いや、だからこそ、今のこの地域、GoogleなどIT企業の本社がひしめき、ベイエリア地区を始めベンチャー企業に勤める”お金持ち“の街に豹変してしまったシスコの変貌や、そこで息づき生き抜いてきた人々の心、去来する家族からの守りごとに、思いを馳せる意味合いは強く、私事の様に鑑賞してしまった訳だ。街への思い、土地への愛着、住み着く家に対する固執… 其処には、憎しみをも包括した「愛」がある。今もこの地は手招きする、再び帰るその時まで。その時は見付け出してみたいみたい、この家をー。
"Jello Biafra"
高校生の時に新築建売の家に引っ越して、小さい弟や妹と楽しく過ごした思い出があり、そんな家を出てから二十六歳の頃に親が離婚し家も手放した。
母親が引っ越す手伝いの為に久し振りに家に帰ったが、人が住んでいないと外観も室内も廃墟のようにボロボロだった印象が。
今は新しく幸せな家族が住んでいる筈だし、そこに執着した事はその時も今でも微塵もない自分。
不法侵入、不法占拠、家具まで突っ込んで、図々しさが極まりない主人公の地味に破天荒な行動は、ギリギリを通り越した犯罪行為。
サウナで仲良くしていたのに罵倒されたり、そんなアイツを急に物語の中心にされても、愛着も無いのだから困惑するし、大体にして奴らは外で溜まっているだけで、ギャングなのか?ただのチンピラなんだか、説得力がない存在感。
黒人、最初の、最後の、サンフランシスコでの黒人に対する存在意義が分からず、人種差別が強い印象も感じられない。
主人公の行動含めた相棒が執着している、この二人のコンビ感も理解不能!?
セグウェイ集団と絡む場面、このクセのある声に聴き覚えが?でも、顔の判別が付かない?けれど、この声は彼しかいないと絶対的確信、エンドロールを逃さず注視しながら目で追うと"Jello Biafra"の文字が、やはり間違いでは無く"Dead Kennedys"のジェロ・ビアフラが出演しているサプライズ!!
それしかない映画だったし、デッキを真っ二つにしても手放さないスケートボードが小道具以下の扱いに、何の為のスケートボードか??
何の哲学もない独りよがりの作品
日本では高度成長期の価値観は、結婚して家と自動車を買って二人か三人の子供を立派に育てるというものだった。やがて肥大しすぎた経済は実体のないバブルとなってマネーゲームを誘発し、屋根まで飛んだシャボン玉のように壊れて消えた。あとに残ったのは利益を貪欲に追求する一部の金持ちと文明を享受し、日々の享楽にうつつを抜かす大多数の人々である。家や自動車は一部の金持ちのステータスシンボルでもあり、高級住宅、高級車は今でも売れる。
21世紀の日本は家や自動車などあまり欲しいとも思わない社会になったようだ。それは少子化と密接な関係がある。一人暮らし、または夫婦二人の暮らしなら、一戸建ての家はいらない。生活に見合う広さの賃貸物件で十分だ。家が必要なのは子供がいる夫婦である。子供部屋がいるし、子供と一緒に出かけるのに自動車も必要だ。しかし晩婚化または未婚化、そして少子化の今の日本の社会は、家も自動車も必要としない。賃貸に住んでレンタカーを借りればそれで済む。自分が死んだあとには何も残らなくていい。墓も要らない。骨はそこら辺に撒いてくれればいい。
人生がうたかたのように消えてなくなるものであり、先祖の人生も同じようにうたかたであったのだと考えれば、家に対する執着はない。モノに対する執着もないだろう。生きている内に便利に使えるように実用的であればそれでいい。
そういう今の日本の状況と正反対だからなのか、家にこだわり、先祖の歴史に誇りを持つ本作品の主人公には、とうとう最後まで感情移入が出来なかった。黒人差別、環境汚染は会話の中にでてくるが、目が4つある魚以外は話だけだった。若い主人公の思い込みが優先されて抽象的な描写に終始した印象である。
金融機関に交渉に行くのにジャケットを着たりして社会に迎合するような部分もあり、自信のなさを窺わせる。主人公たちがどうやって生計を立てているのか不明だし、家を手に入れてその後どうするのかの展望もない。時代が変化しているのは分かっているようだが、家も同様に経年劣化してやがて朽ちていくことには想像力が働かないようだ。
個人との思い出もステレオタイプで、安っぽいホームドラマを観ているようだった。あいつはいい奴だったというノリだ。それにいまさら差別と戦おうと言われても、格差がありすぎてどうにもならない。劇中劇の観客以上にこちらが白けてしまう。独創性に欠けるのだ。
黒人同士が互いにニガーと呼びかけて差別を茶化して相対化するのも、もはや時代遅れだ。どのシーンにも何の哲学もないから、独りよがりの作品になってしまった。それでも映像の美しさと歌がよかったのでそれぞれ1点ずつ、2.0とする。
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