劇場公開日 2021年8月27日

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「歪な疑似家族、檻をぶち壊して生き抜くタフな少女の(魔)力 ◆ 3DCG映像としての物足りなさ」劇場版 アーヤと魔女 WGさんの映画レビュー(感想・評価)

2.5歪な疑似家族、檻をぶち壊して生き抜くタフな少女の(魔)力 ◆ 3DCG映像としての物足りなさ

2021年8月29日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

孤児院ではなんでもやりたい放題楽しく過ごしていたアーヤ。ある日どう見ても怪しい夫婦(?)にもらわれることとなり、そこから3人での家族的生活が始まる。

ベラ・ヤーガはいわゆる意地悪な魔女でアーヤにとにかく仕事をさせて彼女が自由に過ごすことを許さない。
マンドレークは口数が少なく2人に干渉しないが、常に不機嫌のように見え「私を煩わせるな」と口癖のように忠告する。
ベラ・ヤーガはマンドレークに対してだけはひどく気を使っているようで、彼を怒らせることを強く恐れている。

寝る前とベラ・ヤーガが家にいない時以外にアーヤが自由になれる時間はない。
また、この家の中でアーヤが好きに入れるのは彼女の自室とバスルームだけであり、窓は開かず庭からは出れず、玄関のドアは消えてしまう。大事な友達に会うことはおろか、家の敷地内から出ることが許されていないのだ。

家庭に関心がなく怒ると手がつけられない父親、子には自由を与えず夫の顔色を異常に気にしている母親、家の外に出られずただ雑用だけをさせられる少女。
これはれっきとした”機能不全家族”だろう。だが、人間でないものたちによる人間としての生活、そしてめげずに突破口を探そうとする頼もしいアーヤの姿、それらの描写により家庭としての重さはあまり感じられないようになっている。

「アーヤと魔女」は、ほぼ家の中だけでストーリーが進む。ミミズを逃がすため壁に無理やり穴を開けたように、閉じ込められた狭い檻をアーヤは自分の力でぶち壊す。毒親を飼いならしタフに生き抜くこの精神こそが、魔女の子アーヤの持つ魔法の力なのかもしれない。

◆気になった点
・「12人の魔女に追われている」「魔女の子ってことは...?」という導入で始まるがそれに関しては全く描かれない。原作が未完であることは知っているが、中途半端な描写は映画を観に来た客を混乱させるだけだ。
・オープニングは手描きっぽい背景にCGのシルエット。背景が一切変わらず観る側を退屈させる。しかも意外と長い。単に映像としてもったいない。
・ベラ・ヤーガとマンドレークにとっては親友の子供。引き取る経緯はどうであれ決して虐めたかったわけではないはず。
マンドレークは昭和の父親のようなキャラではあるが、お菓子を用意してくれたり孤児院のパイを出してくれたりと、「不器用なんだね...」と観る側に思わせてくれる描写があった。ベラが意地悪だった理由(またはアーヤの母親と彼らの再会)を描かないのであれば、少しでいいからベラにもそのような描写があればよかった。

・エンディングは3DCGにすべきだった。
前述のとおり「アーヤと魔女」は家の中に閉じ込められ雑用ばかりさせられるストーリーである。さらに原作に忠実なのか我々が期待するような派手な魔法表現はほぼ出てこない。集めて切って潰して混ぜているだけだ。さらにあの部屋で作られた魔法はベラが依頼者に配りに行ってしまうので我々は魔法が機能するところを見ることができない。
クライマックスでマンドレークがキレてデーモンが現れるところはとても良かったが、全体的に見るとやはり映像表現の物足りなさを感じる。異形のモノ、魔法、デーモン...など楽しめそうな要素は盛りだくさんなのに、3DCGならではと思わせるようなシーンが少なかったように思う。

だからこそ、エンディングは3DCGにすべきだった。
原作未読につき確証はないが、エンディングのイラストは原作に描かれていない彼らのその後の生活の一部なのだろう。ジブリ的なやさしいイラストで、観る側をあたたかい気持ちにしてくれる。
それは結構だが、この作品が背負っているのは"ジブリ初のフル3DCGアニメ"という看板である。であれば、従来のジブリ的なものに頼らず最後まで3DCGで表現しきるべきだったのではないか。
さらに、原作に沿った閉塞的なストーリーと雑用じみた魔法表現を本編でやるのであれば、その少し外にあるエンディングでこそ、魔法という題材や3DCGを生かした映像が作れたのではないか。

そのようなことを思った。
簡単に言うと、せっかくの3DCGなのだからもう少しワクワクする映像が見たかった。

WG