「アーヤはたくましい! 好ましくない人間関係を自分のプラスにする方法(長いです。ご容赦!)」劇場版 アーヤと魔女 Mmm Mrmtさんの映画レビュー(感想・評価)
アーヤはたくましい! 好ましくない人間関係を自分のプラスにする方法(長いです。ご容赦!)
今回は、CGになっていましたが、内容はジブリ! 「あやつる」は、赤ちゃんの時から、周りの人をあやつっているみたい(赤ちゃんのアーヤのあの笑顔は要注意)。 他のアニメとは質の違う作品ですね。
「あの子たちはお人形さんなんかじゃあないわ、生きてるのよ!。眺めて楽しむもんじゃないわ」
子供たちは大人のオモチャや所有物ではありません。生きて意志があり自己主張する、わがままな存在!
このアニメでは、あやつるのは、大人ではなく、子供! 園長先生も園の料理長も、ヤーガもマンドレイクもアーヤは操る。アーヤに象徴される子供は、あやつる魔女そのもの!
「あやつる」その仕方も、相手の意志や願望、欲求を無視して強制するものではなく、言葉や行動を巧みに利用して、相手の望み、才能、欲求を実現させ、自分との関係を良好なものにして、今度は逆に自分の望みを叶えてもらう、というもののようです。
と、このように、アニメの細部や内容について、いくらでも語ることができるすごい作品!
遅れてきましたが、素敵なクリスマスプレゼントでした!
●原作との違い(原作者は、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ)
原作にないシーン
1.出だしのパイクと車の追いかけっこ(アーヤのお母さんの登場)。日本語版の絵には、赤ちゃんをホウキに乗せて飛んでいる魔女が、12人のマジに追われて逃げている挿絵が描かれている。
2.子供の家にアーヤを連れて行くところと、最後に迎えに行くところ(アーヤのお母さんの登場)
3.初めの方で出てきた、幽霊パーティとそれを目撃したおじいさん(ご近所のジェンキンスさん)の話
4.アーヤとカスタードが子供の家で本を読んでいるシーン。アーヤはコナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』、カスタードはR.A.ハインラインの『レッド・プラネット』。
5.EARWIGというロックグループとその音楽(アーヤのお母さんの登場)
6.アーヤがシトロエン内にラジカセを見つけるところとそのラジカセでテープを聞くところ
7. ヤーガが「りっぱな」人たちから電話で注文(自分の孫を主役にするため、他人の子供をバレエの発表会で主役から下ろす呪文)を受け、その人たちについて発言するシーン「まったく、どいつもこいつも」
8. マンドレークがEARWIGという音楽を演奏するシーン
9.マンドレークが作家であり、作品(小説?)を書いていて、アーヤがどうやら手助けしている様子
最後のエンドロールに、マンドレークとヤーガ、カスタードとの海水浴シーンなどの後日談が描かれている。
●考えてみました。
原作にないシーンを見てみると、アーヤのお母さんに関わるところと、EARWIGの音楽に関連するところ、マンドレークの作家の部分が付け加わっています。また、アーヤとカスタードが本を読むシーンも追加されています。それぞれアーヤはコナン・ドイル、カスタードは、R.A.ハインラインを読んでいます。アーヤは、エンドロールでも、コナン・ドイルの『恐怖の谷』を読んでいて、推理小説の話も、アニメ中でしています。カスタードは、初めの方で、施設の棟に上がる時、火星人の話でハインラインの名前を出しています。
音楽と本について、ジブリアニメは原作にないシーンを描き込んでいて、何かの意味を持たせているようです。
子供の家にいたアーヤは、幽霊パーティの夜、塔の屋上に登り、「どこもかしこもピッカピカ。窓も大きくて日当たり抜群。それに、おじさんのシェパーズパイは最高!」と言いますが、その台詞は、アニメでは、アーヤの母のセリフとほとんど同じです。アーヤは実際にその中にいて感じたことを言っているわけですが、母親はまるでその子供の家に以前いたことがあるように同じセリフを、赤ちゃんだったアーヤに話します。アニメでは、母もこの家にいたのでしょうか。
アーヤの才能は魔女のものでしょうか。人の欲しているものやことを巧みに実現させ、自分との関係を良好なものにして、今度は自分の希望を叶えてもらっています。アーヤにとって、ヤーガとマンドレーク、デーモンたちは操る相手としてはやりがいのある相手なのかもしれません。アーヤは、家庭に入るのは退屈で嫌だと、施設の塔の上で言っていました。施設にいるとたくさんの人を操ることができますが(しかし、それは本人が希望することをアーヤが実現させてくれるからでしょう)、家庭ではせいぜい二、三人だからです。しかし、ヤーガたちは、どうやら簡単には操ることができないようです。これはアーヤにとり、やる気をそそる状況のようです。なんとも頼もしい子供です。
ヤーガは、大声を出したり、脅して怖いことを言ってアーヤに言うことを聞かせようとしますが、アーヤは、ことあるごとにヤーガに話しかけ、操るきっかけを探っているようです(情報収集!)。アーヤの行動は、相手の行動を観察したり、周りにあるものを観察して利用できそうなものを探っています。このことから分かることは、「アヤツル」とは、決してその人の意志を無視して強制や命令で実現させることはなく、言葉(「大好き!」)や行動(抱きついたり、笑顔を作ったり)を巧みに操作して、相手の意志や才能、希望を実現させて、自分との関係を良好なものにして、逆に自分の望みを叶えていくことではないでしょうか。アニメ中では、ヤーガはアーヤに、あれをしろ、これをしろ、と命令していましたが、エンドロールの絵では、アーヤの望み(魔法を教え、海に一緒にいくなど)を叶えてくれる存在に変化しています。
ヤーガはアーヤに仕事を命令してやらせますが、アーヤは魔法を教えてもらうために我慢して従います。しかし、教えてもらえないと分かると、今度は反撃に出ます。反撃の印は、EARWIGという音楽に象徴されているようです。この音楽がなると、その後アーヤの反撃が始まるようです。そういえば、このアニメの一番初めに、アーヤの母親が魔女たちからバイクに乗って逃げるシーンでは、EARWIGを歌っていました。魔女の掟から逃れ、自分の好きなように生きる、そのための脱出中に、この音楽が使われています。
魔女のヤーガが作っていた呪文は、いわゆる「ごりっぱな」大人、「地球の友」や「母の会」のお偉方のためのようです。その注文は、自分の愛犬がドッグショーで優勝できるものや、主役の子供を引き摺り下ろし、自分の孫がバレエの発表会で主役になれる、というもの、つまり、ずる、といわれるものでした。原作では、その呪文の内容までは書かれていませんでしたが、このアニメでは、具体的な内容まで表現され、これまでのジブリアニメ(『コクリコ坂』や『ポニョ』など)に見られるロクでもない大人批判がはっきり現れています。