「虚無の大怪獣」大怪獣のあとしまつ 乙ベルさんの映画レビュー(感想・評価)
虚無の大怪獣
2022年2月、新型コロナの感染拡大が未だに続く日本に追い打ちをかけるように、新たな脅威が出現した。その脅威は悪魔的であり「令和のデビルマン」とも呼称された正に怪獣。
「大怪獣のあとしまつ(以下:大怪獣)」の襲来である。
内容としては誰もが一度は考えた「怪獣映画のその後」、死体の処理にスポットを当てた作品であり、その着眼点は非常に評価できる。また主演の山田涼介をはじめ、土屋太鳳、オダギリジョー、濱田岳、西田敏行など豪華俳優陣の演技力は非常に高い。
しかしこれは大怪獣の巧妙な罠、その実態は圧倒的虚無で我々の時間を貪る駄作である。
この映画についてのレビューを始める前に私の考えを表明すると、この映画は「令和のデビルマン」ではない。
デビルマンはあらゆる要素が噛み合い誕生した神憑り的な作品であるのに対し、大怪獣は初めから悪ふざけで作られた駄作である。
最初に述べた通り、役者の演技は決して悪くない。いやむしろ良い。問題はその演技の中身と演出である。
・死体から出るガスの臭いがゲロかウンコかを決める閣僚会議
・元号のノリで死体に名前をつける政府
・ガスマスクもつけずに行われる処理作業
・大声で行われる機密情報のやりとり
・意味もなく突然行われる不倫
・犬神家ポーズで下着を晒す女性閣僚
・男性器を「きのこ」と勘違いする総理大臣
恐ろしいことに、これらはほんの一部分である。これらの悪ふざけとしか思えない白ける演出が2時間近く続く。大怪獣がただ歩くだけで街が壊されるように、話が進むだけで我々の心と時間は虚無感により破壊されていく。
そして大怪獣の最も恐ろしいところは「倒し方がわからない」という点、どのスタンスで観ればいいのかがわからないという点だ。
まずコメディ映画として観ようとすると、絶望的に下品かつチープなネタの数々が我々に襲いかかる。コメディは言葉のキャッチボールを楽しむものだが、本作はピッチングマシーンを眺めるようなものである。無意味なネタというボールが捕手も打者もいない虚空に投げ込まれる。その様子をただ眺める時間はひたすらに虚しい。
ではヒューマン・恋愛ドラマとしてはどうか。何の伏線にもならない意味のない不倫、大した繋がりもなく深堀りもされない上辺だけの人間関係が繰り広げられ、そこに感情移入の余地はない。見所は皆無である。
ならば政治風刺やドキュメンタリーとしてはどうか。論外である。本作ではあらゆる場面で茶番が繰り広げられリアリティや切迫感は一切ない。政治風刺と呼ぶにはあまりに稚拙と言わざるを得ない。
アクション要素やSF要素もまるでなく、迫力の映像を楽しむような作品でもない。
ならばいっそ開き直って役者を見る為の映画として観るのはどうか。残念ながらそれも難しい。いくら役者が良くてもやらされている内容が三文芝居。観ていても同情と哀れみしか感じられず、むしろ目を背けたくなる。
わかった、もう単なる駄作だと諦めて、せめて怪獣がどう処理されるのかという結末だけでも見届けよう。そういったある種の悟りを開いた視聴者すら大怪獣は逃さない。本作では結局大怪獣のあとしまつは失敗に終わり、突如現れたウルトr…光の巨人がすべてを解決し唐突に映画を終わらせる。因みにそれで本当に解決したかどうかは不明である。
実はこの映画では冒頭から「デウス・エクス・マキナ」という言葉が使われており、困難をすべて解決する神という説明がなされている。まさか映画の終わらせ方に困った監督が、デウス・エクス・マキナに頼ることへの伏線だと一体誰が予想できたであろうか。
大怪獣にどう立ち向かおうとも我々の行き着く未来は「つまらない」という結末である。貴重な時間は奪われ、心には怒りも悲しみも湧かず、虚無が広がるばかりである。
よほど観たい特別な理由がないのであれば、観る価値はない。金を無駄に使いたいのであれば川に捨てた方が早い。時間を無駄にしたいのであれば散歩にでも出かけたほうが良い。クソ映画を観たいのであればより質の高い作品はいくらでもある。というか「シン・ゴジラ」のような純粋に面白い作品を観たほうが遥かに有意義である。
本当にただただつまらない、見る価値のない作品、それが大怪獣の正体だ。このレビューも奪われた時間を取り戻そうとする自分への慰めに過ぎない。
現実にデウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)はいない以上、この「大怪獣」に遭遇したら最後、あとしまつは誰にもできない。皆様は決して興味本位で近付かず、速やかに避難してほしい。そして大怪獣の被害に合われた関係者、視聴された皆様に少しでも安らぎが訪れるよう心よりお祈りし、本レビューの結びとさせていただく。