「力作だが、映画としてはステレオタイプ」望み りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
力作だが、映画としてはステレオタイプ
原作は雫井脩介の同名小説(未読)。
堤監督作品には独特のあざとさを感じることも多いのだけれど・・・
埼玉県で設計事務所を営む一級建築士の石川(堤真一)。
事務所に併設された自宅は自ら設計したスタイリッシュな建物で、顧客に内見させたりもしている。
石川には、自宅で校正を行う妻・貴代美(石田ゆり子)と高校生の息子・規士(岡田健史)と高校受験を控えた娘・雅(清原果耶)がいる。
ある日、規士の友人が脱輪事故を起こした自動車のトランクからビニールシートで包まれた死体となって発見される。
当日、事故現場では、十代の若者ふたりが逃げ去るのが目撃されている。
そして、規士は事故当日から帰宅せず、行方不明になっている・・・
といったところから始まる物語で、規士が犯人なのかどうか、犯人でなければなぜ姿を隠しているのか、というサスペンスを基軸にしているが、描かれるのは、事件関係者の家族と彼らを取り巻く周囲の人々の姿。
事件のあと、姿がみえない若者は三人おり、もしかしたら、うちひとりは殺されているのかもしれないという噂が広がっていくが、それと当時に、自宅前に集まった報道陣に対して「事件の詳細がわからないのだから、退散してほしい」と懇願しに出た石川がテレビに映されたことで、規士が犯人であるという決めつけも周囲に拡散する。
犯人か、被害者か、という狭間で家族の心は揺らいでいくわけだが、ややステレオタイプな描き方かもしれない。
つまり、犯人か、そうでなければ、もうひとりの被害者・・・という二分式で、一般的には、事件には直接無関係で、別の事情があって姿をくらましているだけだという、もう天気かもしれないが楽観的に心情はない。
まぁ、それだけ、世間の偏見、バイアスがすさまじいのだけれども、そのすさまじさ(というか、世間の単純さ)も、どうもステレオタイプにみえてしまう。
正攻法の物語を、正攻法に描こうとして、どこか類型的にはまったような。
観客も、関係者家族と同様の立場に追い込もうという意図からか、警察側の捜査はほとんど描かれないのだけれど、それがある種の狭苦しさ(物語の、ではなく、映画としての狭苦しさ)になってしまっている。
映画としての肝は、事件の真相を石川夫妻に告げる刑事役・加藤雅也のセリフだろう。
「少年事件で最も痛ましいのは、かれらの心情を、真の気持ちを親御さんが知るときでしょう」
堤真一も石田ゆり子も熱演であるが、偏見の世間の代表のような工務店社長役の竜雷太と、「彼が犯人であったほうがボクとしてはよかったのですが」と告げるデモーニッシュな雑誌記者役の松田翔太のふたりのほうが印象に残りました。