劇場公開日 2023年12月22日

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「これぞ『真・オレゴンから愛』(笑)。『真夜中のカウボーイ』テイストのグルメチート西部劇。」ファースト・カウ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0これぞ『真・オレゴンから愛』(笑)。『真夜中のカウボーイ』テイストのグルメチート西部劇。

2024年1月9日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

「なろう」系でも、異世界で「現代の知識で料理つくってチートする」話ってのは山ほどある。この映画の場合は、ボストンの文明世界の知識でつくった料理で、辺境で無双するってわけですね。

良い映画なんだろうけど、出だしはとにかくもう、退屈で退屈で(笑)。
両横に座ってる兄ちゃん二人も、不肖わたくしめも、交互に舟をこぎまくってました。
パンフによれば、こういう長回しと物語性の希薄さを特徴とする映画を「スローシネマ」と呼んで、00年代以降は批評的な評価が高まっているらしいってことですが。
僕には、単にじりじりするだけって感じで。すいません、せっかちなもんで。

それが不思議なことに、ふたりがドーナツ屋を開業してからは、ウソのようにスリルとサスペンスが増して、がぜん面白く観られるようになった。
物語のペースがあがったわけでは必ずしもないのだが、体感的に「飽き」が感じられなくなった。
やっぱり「犯罪」ってのは、映画を面白くする最高のスパイスなんだな、
ということを否が応でも痛感させられる。
逆にいえば、天災とか怪物でも出てこないかぎり、「犯罪」とか「浮気」とか「裏切り」とか、とにかく何でもいいから「後ろめたいこと」がないと、なかなか「サスペンス」ってのは生まれないものなんだなと。

行われていることは、猛烈にのんびりとしたドメスティックな犯罪(乳泥棒)であり、正直トム・ソーヤや『大草原の小さな家』のローラだってやりかねないようなショボいネタなのだが、ここに「お金」が絡んで、「プライド」が絡んで、さらにはフロンティアならではの「私刑」の概念が絡んでくるので、十二分にサスペンスは醸成される。

バレたら、おそらく殺される。
そのネタが、ドーナツづくり。
事の軽重の釣り合わない感覚が、独特の歪みを産む。
最底辺の流れ者には充分な知恵があって、
もっとも偉そうにしてる仲買人は薄のろ。
ここのバランスの悪さも、サスペンスに奇妙な味わいを付加する。

官憲をあざ笑っている魅惑の怪盗も、ときには捕まって処刑される。
悪を成敗してまわる華麗な必殺仕事人も、往々にして最期は犬死する。
たとえやっていることが乳泥棒に過ぎず、つくっているものはただのドーナツで、得ている対価がたかだか銀貨10枚ぽっきりだとしても、彼らの行為はやはり危ない綱渡りだ。
まして、ふたりはしょせんしがない流れ者。最下層の放浪民だ。
彼らの命など、牛や犬よりも軽い。

ラストがどうなるかにはここでは言及しないけど、
これだけうまく冒頭に貼ったあからさまな伏線を、
きれいに活用して締めてみせた映画は、久しぶりに観た。
僕などはすれっからしだからか「どうせ裏をかいてくる」とばかり思って観ていたので、「ああ、そういう使い方をするつもりで、あんな出だしのシーン用意してたのか!!」と、思いがけないくらいに鮮やかな幕切れを迎えたことに、とにかく感心しきりでした。

― ― ―

この映画のジャンルは何かと訊かれれば、一応は「西部劇」ということになるのだろうが、そこには荒くれ者どうしの私闘も出てこなければ、銃を撃ち合っての決闘も出てこない。
出てくるのは、物々交換で成立する原始的な経済と、あらゆる民族のるつぼと化したなんでもありの「辺境(フロンティア)」のごった煮感(中国人や黒人、ハワイアンに加えて原住民とも共存している)、そして、才ある者だけが相手を出し抜けるような生き馬の目を抜く世界観。そこでわらしべ長者のように成り上がろうとするふたりの無謀な闘い。
ノリとしては、たとえばラノベでいえば『狼と香辛料』や『本好きの下剋上』のような、「西部劇の皮をかぶった経済/経営サスペンス」ともいえるだろう。
あるいは、冒頭で述べたとおり、『異世界食堂』や『とんでもスキルで異世界放浪メシ』や『老後に備えて異世界で8万枚の金貨を貯めます』のような、「西部劇の皮をかぶったグルメチートもの」とも位置付けられる。お菓子に特化したラノベアニメだと『おかしな転生』ってのもあったな。
まあふつうに考えると、ケーキに「牛乳」が必須だというのが「誰にも知られていない」というのは、ちょっと信じがたい部分もあるし、「卵」や「バター」がなくともおいしいドーナツは果たしてつくれるものなのかなど、いろいろ疑問もあるのだが、「最初の牛(ファースト・カウ)」と「いままでにない料理で一攫千金」と「それをつくるために犯罪行為が必須」の三つを組み合わせてみせたアイディア自体は秀逸だと思う。

とくにアメリカ人にとっては、単純に「白人が銃をもって先住民を駆逐しながら、西へ西へと領土を拡大した」という歴史観を超えて、そういう時期より「少し前」のコロンビア川流域を舞台に、人種の異なる移民たちがぎりぎりのところで共存し、「ソフトゴールド(=ビーバーの毛皮)」をベースに交易の共同体を築き上げていたという舞台設定そのものが、ひどく新鮮かつ重大に映るのだろう。
とりわけ、ハワイアンまでがオレゴンに移民してきていたことや、インデアンともそれなりに友好的に商売上のやり取りしていることは、僕にとっても非常に新鮮に感じられた。銀貨や金貨と同等の「貨幣」として「貝殻」が一般的に流通しているシーンとか、これまでの西部劇だとあんまり見たことなかったからね(小生、『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』は未見です)。

それと、もうひとつ本作には重要なポイントがある。
本作は絵に描いたような「バディもの」――いわゆる「ブロマンス」でもある。
主人公のふたりは、ボストンから来たパン屋のクッキーと、中国系移民のキング・ルー。
片方が実直で少しのろまな気の良い男で、もう片方は目端のきいた犯罪者気質の上昇志向の強い男という取り合わせも、片方がアメリカ人で、もう片方が中国人という取り合わせも、いかにもブロマンスらしい。
出逢ったときのキング・ルーが「裸」とか、大の大人が二人で深夜にドーナツの種をいちゃいちゃつくってるとか、樹上からキング・ルーに見守られながらクッキーは突起物をギュウギュウ搾って白濁を噴出させているとか、考えれば考えるほど、いろいろと意図的に「そんな感じのシーン」が挿入されていることに気付く。
「あの夜」のシーンにしたって、「白濁搾り」に夢中になりすぎてクッキーは仲間の警告になかなか気づけないわけだから、あれはふたりの擬似的な関係性に深入りしすぎて、部屋に踏み込まれるのに気づかない間男のアナロジーのようなものともいえる。
と書きながら今気づいたけど、そもそもの設定として、二人の男が他人の飼っている乳牛のところに毎晩通い詰めて乳を搾るというのは、完全に「間男」の所業なんだよね。
本作における「乳牛」というのは、女っ気のほとんどない未開のフロンティアにおける「女性性」の象徴であり、その女性(牝牛)と一緒に浮気する二人組は、その実、お互いどうしをよほど意識しあっているというホモソーシャルな構図。で、ホモソーシャルな構図というのは、ふとしたきっかけでホモセクシャルな構図へとスライドすることだって、往々にしてありうるわけだ。

『ブロークバック・マウンテン』のようなマジものの同性愛映画ではないが、『真夜中のカーボーイ』や『傷だらけの天使』に近い程度の「隠し味としてのホモセクシャリズム」は(ドーナツにかけるはちみつとシナモンのように)そこはかとなく「甘く」漂ってくる。
そういや、この映画ではキング・ルーがしきりにカルフォルニアでホテルを手に入れる夢を語るのだが、『真夜中のカーボーイ』で二人が目指していたのはフロリダ州のマイアミだった。一攫千金を求めて最もピーキーな街で犯罪まがいの方法で金を手に入れようとするも、結局は……という流れにおいて、二つの映画は本当によく似ている。
だいたい、あの「運命の夜」の後にしたところで、なんでお前たちそのまんま南に逃げないんだよっていう(笑)。お互いを思いやる気持ちってやつが優先された? まさに、これぞ真の「オレゴンから愛」、だよね(そういえばあれも「東洋系移民」の物語だった)。
で、しかも、あのラストだから。あの並びだから。
そりゃ、どうしても「ウホッ」感はあるよなあ。

日本でリメイクするなら、濱田岳と青木崇高あたりでやれそうな、そんな雰囲気でした(笑)。

― ― ―

総じて、異様なまでにスローテンポの映画であることはさておき、お話はきちんと組み立てられていたようには思う。
ただ、話の展開として気になるところもある。
とくに、なんでキング・ルーは、もともとずいぶんと強い警戒心の持ち主だったのに、途中からむしろ敵を甘く見るような増長した考えを持つようになっちゃったんだろう?
そこには少し、作り手のご都合主義の部分もあるような気がして、しっくりこないものがあった。ああいうタイプの人間は、簡単に敵を軽んじたりするようなへまはしないと思うんだけどね。あと「あの夜」にやらかすのが、クッキーではなくキング・ルーのほうだというのも、なんとなく「頭で考えた」展開のような気がする。

その後の展開においても、二人のとる行動は僕からするとかなり意外だったし、ちょっとバカなんじゃないかと思ってしまった。あと、こうしないと終われないみたいな作り手サイドの「作為」もある気がして。そもそもクッキーの側がいきなりああなるのは、昔のメロドラマか韓流ドラマみたいで若干引いた……。キング・ルーの移動経路にも、よくわからないところがある。ずいぶんとあのあと河口方面に南下しているような気がしたのだが、なんで急に振り出しまで戻ってこられてるんだろう。

序盤のゆったりした展開が僕の感覚に合わなかったのと、終盤の展開が不自然に感じてしまったのがあって、★評価は低めにつけてしまったが、良い映画は良い映画だと思う。

あと、映画のパンフで牛の眼のところが通しで「型抜き」になっていて、冊子に「孔」が空いているのには驚いた。もしかしてドーナツともかけてる?(映画のドーナツは孔空いてないけどw)いろいろと面白いことを思いつくもんだねえ。

(追記)
★なんとなく「乳牛は乳を出すもの」と思って観ていたけど、後からよく考えてみると、乳牛とはいえ、仔牛を産んだ母牛しか乳は出さないので、この牛はどこか都会で出産した後、オレゴンまで連れてこられたということになる。それと、乳牛は出産後300日くらいしか乳は出さないので、継続的に乳を出させるためには、人工授精がないこの時代では、どちらにせよ種付け用の雄牛が早晩必要になる。
(ちなみに、産ませた仔牛も、乳の出なくなった母牛もすべて、結局は食肉へと回されるわけで、乳牛の一生はある意味、食肉牛以上に搾取され使い潰される悲惨で尊厳を欠くものである。)

★終盤に出てくる例の青年は、たしかに「ドーナツを食べられなかった青年」ではあるのだが、最初に牛のひもを引いているのがこの青年であり、牛の見えるところに住んでいる小屋がある以上、彼こそがこの牛の世話係だったと考えるべきだろう。
なので、夜な夜な乳を奪われていたことで、仲買人から猛烈な叱責を受けただろうことは容易に想像がつくし、ラストシーン近くで小屋が荒れ果てていることを考えると、もしかしたらそのあと首にされてしまったのかもしれない。
なので、終盤に彼が見せる行動は、まさに当然といえば当然、ということになる。

★本作のもう一つの主役は、オレゴンの美しい秋の森の風景描写だといえるだろうが、奥行きの感じられない閉塞感のある森の様子に「なんとなくギュスターヴ・クールベの狩猟画みたいだな」と思っていたら、パンフで監督がクールベ絵画に影響を受けたことについて言及しており、おおやっぱりか、と。牛とうっそうとした森の取り合わせは、パウルス・ポッテルやカミーユ・コローの絵画をも思わせる。

じゃい
humさんのコメント
2024年4月30日

共感をいただきありがとうございます。唸る作品の唸るレビュー、興味深く拝読しより面白く感じました。
「私刑」の概念、呼ばれた2人が到着し窓から見える頃の会話の恐ろしさを思い出します。
美しく怖く切ないおとぎ話のようない物語が大人を違う世界に連れて行く作品でした。

hum