はちどり(2018)のレビュー・感想・評価
全136件中、41~60件目を表示
1990年代の韓国の時代背景と思春期の葛藤が分からないと楽しめない作品。
冗長で説明不足な感じで何をこの作品で伝えたいのかって思う内容だという印象。ラストも「主人公は何を思ってるんだろう?」っていう疑問を浮かべながらエンドロールを眺めていた。
個人的に微妙だったけど、おそらく説明不足な所はこの作品の良さと捉えるべきなのかなって思った。逆に良かった点として個人的に感じたのは、一貫して主人公の主観的な視点で物語が語られること。だからこそ、この人は今何を考えてるの?って場面が多発する。邦画は時に説明し過ぎる節があると感じるのでこのぐらいが案外良いのかも。あと、一貫して閉塞感がある映像はとても良かった。進学校、集合住宅、ギクシャクした家族関係、とても主人公の窮屈さや鬱屈してしまう感じが伝わった。でも、流石に長いかも。このぐらい長尺だと展開を期待してしまうよ。音楽はマイナスかも。
タイトルはここのレビュー読んで、思った感想。
観終わると不思議な清々しさがある
観ていて決して愉快な映画ではない。男尊女卑、学歴偏重、画一的な価値観、封建主義といった韓国の理不尽な面をこれでもかとばかり見せつけられるシーンの連続である。精神的に不自由な人々ばかりの中で、唯一自由な精神性を持っているのが塾の漢文教師ヨンジである。主人公の中学二年生ウニが惹かれるのは当然だ。
ウニは9階の他人の家のドアチャイムを10階の自分の家と間違えて何度も押すような頭のよくない子供だ。学校では英文がうまく読めないことから、成績が悪くてクラスメイトから蔑まれている。わりかし可愛い方の部類だから不良になる条件は揃っているが、ウニがグレずに済んでいるのは漫画が好きで、描くのに時間を割いているからだ。
ウニは思春期らしく異性と仲よくしてみたり同性のひとりを親友として付き合うが、結局は恋人である自分、親友である自分という自意識を満たしているに過ぎない。そして誰に対しても優位であろうとする。嫌な感じなのだ。特にキスのあとで唾を吐くシーンは最低だった。思いやりの欠如だが、現実を受け止めきれない弱さも露呈している。
自分が間違えたことは黙ってやり過ごすが、他人が間違えたせいで機会を損なうと、赤の他人でも面と向かって非難する。ひとつの情報だけで行動を決めてしまう中学生らしい浅薄さと、自分を正当化したい自己愛性パーソナリティ障害の現れである。日本の前首相と同じ病気だ。なんのことはない、理不尽な状況を作り出すのにウニ自身も加担していたのだ。
救いがない訳ではない。状況が理不尽であることや自分も理不尽のひとつなのだということをウニ自身が自覚しつつあるフシがあるのだ。どんな状況でも自由な精神性を持つことができることはヨンジから学んだ。ヨンジと出逢う前と後では、ウニの表情が違っている。あとは断捨離だ。親友という名の悪友を捨て、彼氏という名のクズ男を捨てる。
ラストシーンではウニはすでに自意識の束縛から自由になりつつあることがわかる。そしてウニが変わることで家族も変わる。本作品はひとりの中学二年生の女の子の成長物語であると同時に、家族の成長物語であり家族関係の変化の物語でもある。だから英題が「HOUSE OF HUMMINGBIRD」なのだ。一切の美化を排除したシーンづくりは、19世紀の自然主義文学に通じるようなところがあると思う。観ている最中は不愉快で苦しいのに、観終わると不思議な清々しさがある。この作品が高い評価を得ている理由が少し解ったような気がした。
世界中のキム・ボラのための物語
人は、他者からのまなざしで
自分を意味づける。
だから、だれともつながれないウニは
自分の事が好きになれない。
自分の中に、ただむやみに広がる空洞をかかえる。
ようやくつながれたヨンジ先生をも失うことは
永遠に消えない喪失感を刻み付ける。
先生との関係は突然断たれ、この映画は唐突に終わる。
ある意味、救いのない物語でもある。
だけれど、ウニにかけられる言葉が優しい。
「自分を好きになるには、時間がかかると思う」
ヨンジ先生のこの言葉は
キム・ボラ監督が、12歳だった時の自分に向けた言葉に違いない。
そして、その言葉を発したヨンジ先生は
自分のことを好きになっていく過程でもがく監督自身である
と受け止めることもできる。
監督がウニに向けるまなざしは、
すなわち、12歳の自身に向けるまなざし、でもある。
そのまなざしによって、12歳のキム・ボラは意味づけられ
そして、現在のキム・ボラ自身が意味づけられる。
そのまなざしは、限りなく優しい。
ゆっくり、ゆっくり自分を好きになればいいんだよ。
自分自身を大切にしなきゃダメじゃない、 と。
そのまなざしが、この物語を救いのあるものにしている。
キム・ボラ自身のために、この映画は必要だったのだ。
そして、世界中のキム・ボラたちのために
この映画は、存在しなければならないのだ。
ゆったりとた映画、ちょっと違和感を感じるのは何だろう
子どもと大人の間を描く
両親と兄・姉の5人家族のウニは自営業でしつけが厳しい父親のせいで礼儀はきちんとしているが、学校では居眠りをしたりして、クラスメートからは不良っぽいと思われている。別の女子中学の親友と通っている漢文塾に来た新しいソウル大学休学中の女の先生が、これまで出会った大人とは少し違うタイプで、心を開いていく。親友と遊び半分に文具店で万引きをしたら見つかってしまい、親友に裏切られるという経験をした時も話を聞いてくれた。そんな中、耳の裏のしこりの切除で数日間入院することになり、先生もお見舞いに来てくれ、立場の違いを超えて分かり合える気がするのだった。しかし退院後、塾に行くと先生は退職してしまっていた。
主人公の女の子のとびきりの透明感とは反対に、周囲の友達たちはとことん普通で少し露骨。塾の同級生が付けているマスクがユニクロみたいなデザインで20年以上のものとは思われず、監督がなぜ1994年を舞台にしたのかが最後の事故でやっとわかったが、逆にその事故でなければならない必然性はわからなかった。「中二という微妙な年頃を、1994年の韓国社会を背景に描いた作品」というのが作為的に感じられ、小学生を描いた同じ韓国映画「わたしたち」の方がずっと良かった。
中2
お母さん役の人、魅力的だなぁ...。
中2病って言葉があるけど、やっぱ、中2って良いなぁ...。
中1の新しい環境のドキドキが落ち着いてきて、
中3の高校入試の焦りもなく、
いちばん自由なはずなのに、なんかトガってみたりして...。
ポエムとか書いちゃったりして…
と自分の思い出に耽っております。
隣のお姉さんとか憧れたなー。
「たくさんの知り合いの中で心がわかる人」
そうねぇ、年を重ねて、ありがたいことに仕事でもプライベートでも
たくさんの顔見知りができたけど、
今、心の知れた人との交流がいちばん落ち着くなぁ…と思う今日この頃で、
徐々に良い意味での交流範囲を絞っていっている自分がいる。
この作品は、こうやって自分のことを考えたり、振り返ったり出来る作品ですな。
あと、なんか跳び跳ねますよね、若い人って。
トランポリンのシーン観てて、
ピョンピョン跳ねる = キラキラしてるなぁ…と心の中でひとりごちてました。
【UNITED COLORS 】
ウニのバックパックは、ベネトンのやつだ。
懐かしい。
有名だったコピーが、
「UNITED COLORS OF BENETON」
でも、物語が進むうち、これは映画の重要なメッセージではないかと思った。
評論家の人のなかには、何か韓国社会の男尊女卑の暗さとか、こうした格差に似た差別や鬱屈した状況は世界のあちこちにあって…と強調してるものもあるが、僕はそうは思わなかった。
このストーリーは、ウニの一年を見つめ、少女が抱く異性だけでなく同性への甘酸っぱい恋愛感情や、ちょっとしたスリル、友情と裏切り、垣間見る大人の世界、尊敬ともつかない先生への気持ち、事故と死、
そして、これからも、生きていくのだということなどが散りばめられていると思うのだ。
ウニのこの一年は、ある意味、カラフルだ。
多くの色に彩られている。
そう、UNITED COLORS なのだ。
そして、これはウニに限ったことではないはずだ。
皆もカラフルのはずだ。
そして、もう一つ重要なこと。
殴られっぱなしじゃダメ。
ここに別にこめられた、こんな男尊女卑と暴力を絡めた状況は、韓国だけの問題ではないのではないか。
殴られっぱなしじゃダメ。
自分から何か本当にやりたい事を見つけて、頑張りなさいという多くの若者に向けた力強いメッセージのよえうに聞こえる。
やりたい事をやり通すにために抗うことは必要になるのは、多くの人に共通だ。
ウニ、頑張れ。
カラフルな人生は、君自身のものだ。
そして、どんな色で彩るかは、君が考えなくてはならないはずだ。
そして、みんなも僕も頑張れ。
女子校あるある、病院あるある
美しい映像
掃き溜めにパク・ジフ
みんな楽しく生きようよ
これが長編デビュー作って凄い
「あり得た自分」
南海キャンディーズの山里亮太氏が奥さんの蒼井優さんと観に行ったらハマれなかった映画「はちどり」。ようやく鑑賞。
1994年のソウルが舞台。監督のキム・ボラは私と同年であり、監督の分身たる主人公ウニも当然の如く、過去の私と同年代である。
キム・ウニの疎外感と鬱屈に共感できるかどうかで評価が変わるのかもしれない。私はウニを「あり得た自分」としてずっと観ていた。
日本と韓国ではやはり社会事情も少し違う。さり気なくも明らかな家父長制と男尊女卑、超学歴社会。期待へのストレスから妹を殴る兄。毎夜出かける姉。「82年生まれ、キム・ジヨン」を思い出した。ウニはキム・ジヨンと同年代である。
恐らく94年当時の私よりウニは抑圧されていて、その分行動も派手だ。でも彼女の鬱屈が手に取るように分かる。ただただままならないのだ。家族も、恋人も、友達も、おまけに自分の身体さえも。そしてそれをどうにかする方法も知らない。なんとなく反抗して。
彼女がヨンジ先生に惹かれるのは、先生が教え導く存在だからではなくて、同じ「ままならなさ」を感じ取ったからだと思う。
1994年の実際の出来事も巧みに取り込まれている。北朝鮮の金日成国家主席が亡くなり、そして聖水(ソンス)大橋崩落事故が起こる。前者はウニにとってどこか他人事だが、後者は大きく深い衝撃を与える。
母の表情、父と兄の号泣、大喧嘩の後の小康状態。唐突に見えてリアル。家族全員どこかで抑圧されている、という生々しさ。
そして映画として、どのカットも美しかった。あの繊細なカットの積み重ねが映画の力だと思えた。全ての画に意味がある。
大きな物語の起伏がない上にやや長尺なので、確かに退屈と思われる側面もありそうだけれど、どのシーンも目が離せない映画だった。
自分の居場所を探し求める少女の姿
普通の少女が社会の病巣と静かに戦う様を見つめる力強いドラマ
舞台は1994年のソウル。14歳のウニは餅屋を経営する父母、兄姉と5人で団地に暮らすごく普通の中学生。ちょっとした悪戯に興じたり、授業中に居眠りしたり、放課後に彼氏とデートしたりとごく普通の生活を送っているが、兄に過大な期待を寄せる父、妹に対して常に高圧的な兄、そんな二人に献身的な母、そんな家庭に絶望し夜遊びに興じる姉との関係に疲弊し孤独感を募らせていた。そんな折ウニが嫌々ながら通っていた漢文塾に新しい先生ヨンジが現れる。正面からウニに向き合い話を聞いてくれるヨンジにウニは少しずつ心を開いていくが、ある日突然ヨンジが姿を消してしまう。
ナラティブな説明もなく淡々と物語が進む中でウニが抱える悩みが少しずつ浮き彫りになっていくドラマ。その描写に押し付けがましいところが一切ないが故に、ウニの悩みの根源が父や教師、彼氏の母、友人らがこぼす言葉が暗に示している閉塞的な社会の病巣に繋がっていて、どうしようもない絶望感が鮮明になっています。ウニの体に起こる小さな異変が家族が向き合うきっかけになるもののそれも運命的なものに遮られ引き裂かれ、「こんな私の人生もいつか輝きますか?」と静かに問うウニが居間で思わず取る行動にこの映画のタイトルの意味を見ました。
本作が長編デビューとなるキム・ボラ監督自身の体験が元になっているそうで、非常にリアルな質感を持った作品。ヒリヒリするような思春期の日々と格闘するウニを力強く演じたパク・ジフの透明感のある美しさも印象的でした。
容姿が及ぼす影響力
爽やかな青春映画だと思って見に行ったら、けっこう重い映画だった。
主人公の女子中学生はかなりの美少女なのだがストレスフルな環境に心を折られて無気力症に陥りかけている。
そんな闇をまとった危うい感じがまた魅力的に見えて、容姿が及ぼす影響力の強さを考えさせられてしまった。
これで主人公が不細工だったら、もっと陰鬱とした映画になっていたと思う。
男尊女卑が昭和レベルで見ていて辛いが、礼儀正しい感じはいいなあと思った。
思春期なんて毎日嫌なことばっかりで、だからこそ、たまにある娯楽が感動的に楽しかったわけである。
この主人公の場合マンガにハマってるわけだが、絵も下手だし多分漫画家になる確率は低いだろう。
今の時代だったら顔出し配信者としてネット界で稼げそうだ。
そういう可能性が少なく閉塞的な90年代だが、その分現代にある汚さもない。
お母さんが娘に肩を揉んで貰ってるシーンが気持ち良さそうだった。湿布の上から揉んだり揉まれりした経験はない。真似してみたい。
未だ青い少女達への応援歌・・・監督の優しい眼差しに溢れた作品
いざこざが起きても揃って食卓を囲み、喧嘩をしても
(DVは論外ですが。。)本気で心配をする、そんな
彼等の姿に、家族に対する監督の思いを感じました。
作品全体を通して、柔らかな光や色調に包まれており、女性監督らしい優しい眼差しに溢れていました。
「ウニ」、韓国ではどういう意味が込められた名前なのでしょうか。
主演の少女の素直な演技に好感が持てました。
映画館での鑑賞
全136件中、41~60件目を表示