「遺したものと遺ったもの」泣く子はいねぇが masakingさんの映画レビュー(感想・評価)
遺したものと遺ったもの
先日、東京で出版社を営むある秋田県出身者と語らう時間をいただいた。
その方曰く、「秋田には何にもないけれど、表現者を惹きつける何か磁力のようなものがあるんだよ」とのこと。
その話を聞いた部屋の外に、何かを言わんばかり「泣く子はいねぇが」の宣伝ポスターが貼られていた。
秋田県出身の佐藤監督も、その磁力に抗うことのできない表現者の一人なのだろう。
見慣れた男鹿半島の風景が、主人公のたすくと琴音を縛り付けて離さない映画であった。
仕事もない、世界的な文化遺産であるなまはげも、継承者の不足から下火になりつつある。登場人物たちが練り歩き、徘徊する街並みは、ゴーストタウンかとみまごうほどだ。
それでも、この地にしがみつき、何かを遺そうと奮闘する人々の姿が切なかった。
たすくは何かを遺すどころか、琴音との間にうっかり子どもを遺してしまい、その現実に戸惑い、薄ら笑いを浮かべてなすすべなく生きている。
父が心血注いで遺したなまはげの面をかぶっての愚行は、もはや言い訳のしようがない大失態であり、故郷に汚名だけを遺した。
遺したものと遺ったものの間で、たすくがあがく姿は、結局最後まで何の結論もないまま、宙ぶらりんの状態で本編はぷつっと途切れて終わる。
佐藤監督は、観るものに問いを遺したかったのだと思った。それでもこの何もない土地で生きようとする理由はなんですか、と。
終盤、たすくとたすくの愚行の一因をつくった亮介(佐藤浩市の御子息だと観賞後に知った!)が起こした行動に、柳葉敏郎演じる地域のなまはげ保存会長が叫ぶ「おめがだ、何してぇんだが、わがんねんだよぉ!」(お前たちが何をしたいんだかわからないんだよ)という言葉には、世代間の隔たりも感じられて、最後の最後まで切なさと虚しさしか残らなかった。
早朝の空気の凛とした感じや、陽光と靄が重なって神々しさの感じられる海や山、草や藁の微かに匂う風の心地よさなど、隣市に暮らす自分にとっても、男鹿はとても魅力的な土地だ。どこかドライブに出かけようと思うと、自然と車を男鹿に向かわせてしまう。
彼の地には、確かに何か磁力が感じられる。先般、サンセバスチャン国際映画祭で最優秀撮影賞を受賞したカメラワークは、男鹿のヒリヒリとする空気感まで切り取っていた。「運動会」というタグがついた父の遺品のビデオテープを兄弟が見て爆笑する場面では、窓外の少し高い場所から、まるで父が「おい、観るな、やめろ」と言いたそうなアングルだったのが、この場面のペーソスを一層高めていた。こういう恥ずかしい遺産も、男鹿だなあとしみじみさせてもらえる。
吉岡里帆は、場面ごとにその目つきや顔つきが大きく変わる女を演じて見事だった。パチンコ屋で元義理の母である余貴美子と偶然出会う瞬間の座った目付きは、生活に疲れ果ててすっかりやさぐれてしまった男鹿の女だった。(実生活で何度も見かけたことがあるから間違いない!)しかし、その直後の別れ際の目つきや表情が一変する演技は、驚嘆の一言に尽きる。
ありとあらゆる悲しみを背負って、それでもなぜかサッカー日本代表のテーマソングを軽快に口ずさみながらババヘラアイスを売る母役の余貴美子が、本作の唯一の光明だった。男鹿で生きる女はああでなくちゃ、と常日頃感じていたことを体現していて、これまた見事だった。
確たる希望はない。けれど、そこで暮らしていきたいと感じる理由は何か、ということを、先人たちの遺したものや、自分たちが遺してきたものを受け止めながら考え続けたいと思わされる映画だった。