三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のレビュー・感想・評価
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セレモニーとしての物足りなさも⁉️
これ以前ドキュメント等で知ってたのでこんなもんと分かってたがやはり観る側としては一触即発的なものの方が面白い 双方ともバカじゃ無いのでその点は事前にある程度は打ち合わせてたのか?ただ終始ジョークも交え和やかな雰囲気 議論としては理想論を述べるたけでテレビタックルや朝まで生テレビ 国会答弁の様な現実的な激しいやり取りも見たかったが❗
潔く圧倒する姿勢。
素直にただ圧倒された。三島由紀夫のカリスマ性に。
ユーモアを交えた発言と学生との対話を愉しむ姿勢に。
観ておいて良かった、知っておいて良かった、こんなご時世にこそ観ておいて
篤になるドキュメンタリー映画だった。私は三島由紀夫が生きた世代ではない
ので、彼のことは作品と自決したこと以外はほとんど知らなかった。とにかく
その発言の言葉遣いの美しさが心に残った。自分を論破しようと息巻く学生を
相手に、きちんと礼節を以て話を聞き、応える。時に笑いが起こり、まさかの
和んだ風景が幾度も映し出される。内容はかなり難解な言葉の応酬で、なんで
そこまで事物に拘る必要があるんだ?と思うくらい、しつこく繰り返されるの
だが、全共闘の論客・芥正彦氏とのやりとりが筆舌もの。ご存命の三人が当時
を振り返り解説をしてくれるが、この芥氏だけは今でも目力が強くかなり怖い。
議論の内容よりも、討論とはこういうもの。こう来たらこう返す。相手の顔を
見て、真直ぐに、自分の言葉で。という姿勢が潔く心地よい。三島を論破する
ことが目的の学生たちは時に侮蔑を交えた発言もするが、三島は平静にかわす。
この繰り返し。どんな高度な知性もやはり彼には叶わないよと思わせてくれる。
遺されたフィルムによるドキュメンタリーを、元東大全共闘、元楯の会、現場
にいた人、親交のあった人、そして三人の文化人が解説していく構成が非常に
観やすく纏まっているので、観た人それぞれに想いを張り巡らすことができる。
私はこの三島由紀夫の言葉をもっと聞いていたかった。今彼が生きていたなら、
顔を見せない誹謗中傷や罵詈雑言に、どんなユーモアで返してくれただろうか。
三島由紀夫は知らない
28本目
著書を1冊も読んでない状態で鑑賞
結論から言えば、三島由紀夫という存在は、この映画だけでは恐らく語り尽くせないくらいの人外なんだろうな、ということ
劇中でもあったけど、天才でもありスーパースターという表現が、あながち間違いではないというのが、討論のスタイルから滲み出てた
言い負かすわけでも、話の腰を折るわけでも、ましてや揚げ足を取る訳でもなく、相手の言い分を全て飲み込んだ上で最後は三島由紀夫の世界になる
そんな映画というかドキュメンタリー
ただ、当時のエネルギーかもしれないが、思想がガチガチな印象を受けた
(東大にも三島にも)
それに比べると今の世の中は平和だね
言葉の重み
なんで三島も全共闘の学生も、こんなに分かりにくく面倒くさい言い回しするんだか。
哲学思想にかぶれた、難解な言葉が頭がいいことだと思ってるのか?
逆に人に理解される気があるのか?
馬鹿じゃないのか?
みたいな「?」が多く浮かびつつも、真剣さ、熱量は伝わってきました。
右と左の主義が異なる三島と全共闘ではあるが、しょせん手法や信奉対象(三島は天皇や国体・日本人文化、全共闘の学生は個人や学生の立場に未来、という差があった気はします)の違いでしかない。
ナショナリズム(反米愛国心、というより子どもの「攘夷」ごっこ)が底通しているというところで、互いに認め合う姿は、どこか滑稽さを伴いつつ、暑苦しいが清々しかったです。
テレビや雑誌カメラを意識した、(いい意味で)プロレス的な見世物だったのかもしれません。
また、このころは、まだ政治に関して、政治家も作家も学生も「言葉」を大事にしていたように感じました。
言葉を伝えようとし、言葉が通じるかを試し、言葉の力を信じようとしていて、言葉は重く価値があった。
(だからといって分かりにくい言い回しは困りますが)
翻って、今の令和の時代、国民は政治に興味がなく、政治家もマスコミも、発する言葉が軽い。
すぐに発言を訂正し、無かったことにし、文書は改竄して、約束を破る。
三島のように自決しろとは言わない。
ただ、大人として、一人の人間として、発した言葉に責任をもって欲しいと思うのでありました。
ところで、三島の自決後の左翼は、あさま山荘・日本赤軍など、過激な活動で社会から敵視され、敗北し、自壊していったわけだが…
今も生き延びているかつての全共闘の人々は、学生運動とは何だったのか、そして革命とは何がしたかったのか、ちゃんと人生で「総括」してるのかな?
かつてのことを思い出しながら熱く語る70代の方が、作中で数人映っていましたが、この話題になると目が宙を舞い、「それなりに意義はあった」的に語っていました。
革命を目指してたくせに、教員や公務員になって家庭を作り、老後を迎えたその姿に、今や自己正当化の卑怯さが垣間見えるなぁ…
結局、今、言葉を軽くした責任の一端は、学生運動をしてた連中が責任を取らなかったことにもあるんじゃないかな。
などと思ってしまったのは、私がこの時代を直接は知らない、若い世代だからなんでしょうかねぇ。
言葉の意味はよく分からんがとにかくすごい自信だ
「高次元」という言葉がピッタリと言っていいほど彼らから飛び出す言語の理解は困難だ。しかしながら、その言葉と一緒に運ばれてくる熱量を我々は確信的に感じることが出来、結果この作品は時代を超えた普遍的なものになっているのでは無いだろうか。
観客はこの「vs」の結果をどう受け取っただろう?表面的には互角、いや芥のカリスマ的存在感により、むしろ全共闘が優勢に感じる者も少なく無いだろう。
しかし、解説陣複数による「全共闘は自身の人生の中の<あの季節>をどう総括しているのだろう?」という共通の疑問に対する現在の彼らの答えっぷり。そこにヒントがあると思う。三島と対峙していたあの時の熱に溢れていた面影を感じることは出来なかったのだ。
一方で三島が説く「美学」。日本人であるという運命に身を任せるしかないことを肯定し、その中心にいる「天皇」は概念でしかない。自信が戦争に行けなかったことへのコンプレックスのようなものから由来してると推察する者も少なくないこの「美学」は、何かに運命を支配されることへの渇望と、運命を導く者を待望してるわけだが、ここでこの作品を観たものが、絶対的に抱くであろう「今のこの状況、三島はどう思うだろう。いや、この時点で今の日本の状況、三島はわかってたかも…」という感情の先に、憂いてしまう自身が悲しい。。
ドキュメンタリーであるが三島を始め出演者達はその時代を代表するこの上無い演者だ。彼らの熱量を確認できたことに心から感謝したい。
改正健康増進法により全ての施設内でタバコが吸えなくなった2020/4/1に記す!笑
三島由紀夫は最高のプロレスラー
昭和プロレスファンとしては最高の興行
興行タイトル「三島由紀夫VS東大全共闘」からしてダフ屋から購入レベル❗
例えるなら全盛期(←ここ大事)のアントニオ猪木が出戻りした頃の旧UWF勢とハンディキャップマッチをやるようなものか(当時の猪木は落ち目だったから・・ 言わなくてもいいけどけっして国際軍団との1対3の方ではない)
試合そのものより、三島由紀夫の存在を観る映画
専門用語の連発で半分以上理解不能
解説や字幕でなんとか知ったふり
東大側の芥青年も自分の娘を抱きながら応戦するというギミックを使っているが、三島の存在は圧倒的
個人的には、抱っこされてた赤ちゃんが現在存命なら五十代だという事実が感慨深い
もっと早く公開しなかったわけを知りたい 亡くなったのはほんとうに残念 朝まで生テレビで、野坂昭如や大島渚と討論してほしかった。
私は全共闘世代とは一回りちょっと齢下です。1969年は小学校低学年。三島由紀夫が自決したとき、両親が豊饒の海シリーズを慌てて買っていた記憶がある。子供ながらそうゆう両親の行動が嫌いだったのでなぜか覚えている。そして、三島のセクシャリティについて話しているのも聴いてしまった(誤解だったらしい)。軍服姿はとにかく嫌だった。マッチョも生理的に嫌いだった。学校生活も今思えば付け焼き刃的な民主主義の匂いにあふれていた。当時小学生の私はその後も三島について何の知識をもたないまま、ずっと生理的に嫌っていた。だから大人たちがその死を悼む気持ちも理解しようともしなかった。それが、このドキュメンタリー映画をみて、人間三島由紀夫に対してものすごく親愛の念を感じた。瀬戸内寂聴97歳(わー、エッチな人って長生きだわ)が言う、「優しいひと、ユーモアにあふれた人」。そうそのとお~り(財津一郎のあれで)。まっすぐな人。オレより頭がいいのは、まぁ、しょうがない。学習院高校主席。天皇陛下から銀時計。東大から大蔵省へ。その後、作家活動。1925年生まれ。終戦時、弱冠二十歳。当時、三島の世代(同じかそれよりもっと若い人たち)には特攻隊に志願して散っていった人が沢山いたはずだ。映画でいうと、市川雷蔵の「ある殺し屋」に代表されるトラウマがダブる。
全共闘を含めてあのころの学生運動のことはよくわからない。真実は定まらず、理解するのは無理だと思っている。その世代のひとたちの言うことを聞くとますますわからなくなる。我々の世代はつかこうへいの「初級革命講座飛龍伝」とか、「戦争で死ねなかったお父さんのために」とか、おちょくった芝居や小説を通してしかその雰囲気を感じられなかったためもあろう。頭のいい人たちが当時の学生たちをアジテーションしただけなのか?ほかの国の民主化革命と比較されるが、僕らの世代は当事者でないので、本当によくわからない。
盾の会と全共闘のひとの供述も同じ割合で上手に話をつないでいて、非常にわかりやすかった。1000人対一人の決闘。討論を楽しむ余裕があるのが素敵だと思った。撃たない西部劇みたい。しかし、たばこの量が半端ない。やっぱ、緊張しているのだろう。でも、声も上ずらず、マイクを持つ手も震えず、みんなサムライだった。赤子を抱えた芥正彦という人はほんとうに個性的ですごいと思った。作戦か?子供はずるいが、子供が泣きもしないのはさすが。血筋を感じた。そのアナーキーな信念を70まで突き通しているのがすごくかっこよかった。寺山修二との演劇雑誌を読みたいと思った。ショートピースをあの短時間で二人で計6箱あけたと言っていたが、ほんとにみんなモクモクふかしてたな。
木村修さんの後日談で三島が木村さんに「盾の会」に入らないかと電話で言われて、話を遠回しに答えたが、三島がそれを察知し、周りに誰かいるかと聞いて、木村さんが、「実は彼女のアパートにいるんです。」といったら、変わってくれといいい、木村さんの彼女(現・奥さん)と三島がはなし、木村さんを愛しているかと訊き、奥さんが「愛していると答えた」という話は、単なるおのろけではなく、三島が木村さんを好んだからで、でも愛する人がいるなら、自決する自分と一緒ににはできないと三島が確かめたのではないかな~と思った。三島、優しいもん。
亡くなったのはほんとうに残念。朝まで生テレビで、野坂昭如や大島渚と討論してほしかった。
日本の学生運動が反動で終わったとしたら、政権が佐藤内閣で敵としては柔らかかったのではないか?田中角栄の政権だったらもっと火が付いたかもしれない。日本の政権が幕末から明治維新の系譜から脱却できないのはいい面もあると思うが、首相はすくなくとも学習院よりも上の大学出がいいな。ナレーションが 東出昌大 だった。 まさに東大にはさまれた名前で、やな感じだった。東出昌大は落語ディーバーだけでいい。
楽しい討論空間
記録映像を見ながら、三島由紀夫が実に楽しそうだと思っていたら、関係者もそのように証言していた。
興味の方向性が似ているのに同調は出来ない相手で、しかも知識量が同等で討論好きな人間との討論は、有意義であり充実感がある。興味の方向性が違えば話ははずまない。同調できる相手とは議論になりにくい。知識量が違うと議論が続かない。討論好きな人間でなければ何時間も付き合ってくれない。
つまり、有意義であり充実感がある討論、すなわち「楽しい」討論が出来る相手は稀有と言えるのだが、それが何人も居たあの場は、三島にとって幸せな空間であったに違いない。
と、書いていて気付いたけど、あれを見た後だと文章が硬めになっちゃうね。
あの季節を通り抜けたのはいいけれど、で、どうなったんだ。
それぞれの思惑通りにこの場所が設定され討論が始まってそして今この国はあの頃と比べて良くなったんだろうか?観念が先行する中でゲバルトが幅を利かせて暴力を肯定し言葉を弄んでいたあの頃。あやふやで猥褻な国「日本」。両者の共通の敵はこの国そのものだったし、この
討論で見出せたのはそんな戯言だけだったのだろうか?右も左もなく三島は1000人の学生を説得しようとしたが、自らの命を絶つ為の言い訳に少しだけ役立てたに過ぎなかった。全共闘の猛者たちはタテカンを燃やしあやふやで猥褻な日本の歯車に組み込まれることに抵抗せず、世界人にもならず三島ほどの優れたパフォーマに嫉妬するだけの人間にしかなれなかったことを悔いているかのようだ。しかし、言葉の大切さを痛感せずにはいられない。他者・天皇・熱情これを理解するためには言葉が必要なのだ。真剣に悩む人たちが観る映画だし、ひょろりと世の中を渡って行けると信じている人たちは見ない方が良い。いずれにしてもブレぬ方が身のためだからだ。
言葉の重み
私は三島由紀夫を知らない世代です。
小説家?というくらい。
正直この映画を見に行くと思いませんでしたが、連れの希望で見に行きました。
全く彼の存在を知りませんでしたが、見て良かったです。
今の世の中に欠けている「言葉」の重み
ニュアンスなんかじゃない。まず行動。そして最も大切なのは言葉。改めて言葉の大切さを痛感します。
彼のいる時代はどれほど刺激的だっただろう。
三島氏のことをもっともっと知りたくなりました。
東大全共闘の学生達もかっこよかった!
言葉に力がある
三島由紀夫の文学作品を数多く読んだことはなく、肉声を聞くことも初めてで、この時代を生きたことのない自分にとっては映画を見る前からワクワクしていたが、期待どおり作品。
900番教室にいる雰囲気を味わいながら、その時代に関する解説/コメントも程よい感じに仕上がっており、鑑賞している間、退屈することなく、両者の意見/主張に聞き入っている自分がいた様に思う。
もし令和の時代に三島由紀夫氏が生きていたら、どんな事を訴えるだろうかと想像してしまう映画でもあった。
自決までもが府に落ちる貴重な記録だった
1969年5月、東京大学駒場キャンパス。三島由紀夫と東大全共闘との討論会の超貴重なドキュメンタリー。
まさに百聞は一見に如かず、三島を知るためのピースが一つ、いや、けっこう埋まった気がした。彼の考えを彼自身の言葉で語った。翌年11月の三島事件/自決が府に落ちた。
武闘派といわれた東大全共闘と三島・楯の会の接点をも模索した。そう、彼らは対極にあるわけではなかった。はなから三島を見下した全共闘側は幼なく、まともな『討論』にならなかったのが残念ではある。
三島のオーラは凄かった。あの時代にあってスーパスターだった。ユーモアたっぷりの語り口で駒場の900番教室全体を魅了した。
個人的に気になったのは、このあと泡のように消えていった全共闘の面々のことだ。どのように熱を覚まして社会復帰したのだろうか?
“戦後ニッポン”とプロレスをした男。
2020年1月5日、僕はかつて応援していた獣神サンダー・ライガーの引退をきっかけに、およそ20年ぶりで新日本プロレスを見るようになった。時代はずいぶん便利になって「新日本プロレスワールド」というサブスクによって、20年前の懐かしい試合も、直近最新の大会なんかも、いつでもたくさん観ることができる。
僕がツイッタにつぶやくこともプロレスの話題が多くなったけど、それは映画に対するモチベーションが下がったということではなくて、むしろ「映画を観ること・映画の話をすること」を面白くできるようになりたくて“プロレス的な感性”を鍛えようと考えてるところがある。
「映画見」を続けていると、映画の観方や語り方が“格闘技的”になっていく。
知識の豊富さや批評の正確さが競われて、映画作品は勝ち(良作)か負け(駄作)かで評価をされる。
映画見の強者による映画批評が「答え合わせ」のように見聞きされるのも、
鑑賞本数や知識の少ない映画見が過剰に「下から目線」で映画語りをするのも、
好きな映画が批判されると自分の人格を否定されたように思えてしまうのも、
それらは映画の捉え方が“格闘技的”だからなんだと僕は思う。
少し窮屈だ。
しかし「映画の観方感じ方は人それぞれ」という約束の下にされる映画語りには、議論というコミュニケーションの喜びが生まれない。
かといって議論を“格闘技的”にやれば、勝者と敗者と強者と弱者を分けるだけの仕合になってしまう。
一人で完結する趣味として映画を楽しむことはできるけど、他者とのコミュニケーションとして映画を楽しむのは案外難しいんだなと思っていたのが2019年。そこに“プロレス的な感性”が効くのでは?と思い立ったのが2020年ということだ。
“プロレス的”とはどういうことか?
例えば『テラスハウス』が真実のドキュメンタリか?ヤラセのバラエティか?その判断を決めることなく楽しむことができる姿勢のことであり、
例えば自衛隊が軍隊か?合憲か?その判断を決めることなく、災害出動などには感謝できる感性のことであり、
例えば女性が男性に話すネガティブな話題に対して、アドバイスや説教をして問題解決するのではなく、共感をもって傾聴する配慮のことである。
・・・と、僕は思っている。
さて、そんな“プロレス的”な姿勢や感性を配慮しながら、本作『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観てみた。
三島由紀夫はプロレスラーだったし、東大全共闘もプロレス団体だったし、だから『1969.5.13@東大駒場キャンパス 伝説の討論会』も、大盛りあがりのプロレス興行だった。
【右翼のカリスマヒーロー三島由紀夫が単身で、極左武闘派である東大全共闘の本拠地に乗り込んで、1vs1000のトークバトル】
である。「面白そう」でないはずがない。
例えるならUインターを率いる高田延彦が単身で、FMWに乗り込んで大仁田厚やミスターポーゴと電流爆破デスマッチをやるようなものだ。
そして確かに面白かった。
芥正彦というむっちゃキャラの立つ悪役レスラーもいたし、討論の終盤には「思想は違えど闘うべき敵は同じではないか?共闘できるのではないか?」というドラマチックなクライマックスもあった。
そこには熱があり、時代の一大事を目撃したというセンセーションがあった。
三島由紀夫は東大全共闘を論破しに行ったのではなく、彼らの主張を全て聴いた上で説得を試みようとしたという、いかにもプロレスらしいヒーロードラマもあった。
果たして勝利したのは、三島か?東大全共闘か?
討論で語る話が正しかったのは、三島由紀夫か?芥正彦か?
そういう“格闘技的”な観方のみでは、楽しみきれない事件だったようにも思う。
討論で語られる思想論のような哲学論のような「インテリ問答」。
暮らしに根付いていない言葉たちには、つまり生活感がなく、だから意味不明だけど、それでもなんとなくカッコ良い。
コブラツイストやフライングボディアタックのように、本当に効く技としてやっているのかどうか?観ててイマイチわからないし、それはおそらく大事な要素ではない。
じゃあ彼らの話す話は妄言やインチキか?といったらそうではない。彼らの熱と本気は真実だからだ。
そういう“プロレス的”な面白がり方が、あの討論を俯瞰で観ることを可能にすると思う。
三島由紀夫はその後、自分の思想に殉じて、事件を起こして腹を切った。
暮らしに根付いていない生活感のない彼の死は、伝説になった。
一人の人間として暮らし、老いるリアルより、三島由紀夫という人生を“物語”として残すドラマを選んだ。
あの事件は「セメントマッチ」ではなく、「三島由紀夫vs戦後ニッポンのプロレス的なパフォーマンス」だったのではないかと、僕は思う。
勝てると思って起こした事件ではないし、負けて無念の自刃ということでもなかったんじゃないか。
しかし強烈なひとつの物語として、後世の人々の心に残した。そういうものだったんじゃないかなと、僕は思うのだ。
その後のニッポンが良きに変わったかといえば、そんな感じは全然しない。ズルやり放題の政治にうんざりさせられるばかりでなく、か弱き庶民の暮らしに先が見えなくなってきた。そんな今、三島由紀夫の唱えた論に、ちょっとクラクラっとしなくもない。そんな危うい面白さもある映画だったと思う。
今、私は諸君の熱量を信じます。これは何があっても信じます。
学生運動華やかかりし60年代。東大全共闘側は体制側の象徴である三島をやり玉にあげようと討論の場に呼んだ。特別陳列品”近代ゴリラ”のポスター、飼育費100円のカンパを募り、三島を虚仮にする学生側の思惑を分かった上で乗り込む三島の度胸たるや。挑発的スピーチで始まるが、けして言葉はぞんざいではない。態度はとても誠実で手を抜かず、学生と言えども相手をリスペクトしていることがうかがえる。千人の学生を圧倒する存在感。敵視していたはずなのに、つい「先生」と口走る学生。三島の笑顔は侮蔑ではなかったし、タバコをすう仕草はポーズではなくゆとりだった。もう、この時点で三島の勝ちだった。三島の言葉は、学生に届く。思想は違っていても、自分たちと同じ熱量を持った男だと知って。
議論の間に挿し込まれる、当事者や現代識者のインタビューがまた絶妙な解説となる。ナレーション役の東出の語りも邪魔にはならなかった。
全共闘屈指の論客・芥が形勢逆転に奮闘するが、彼の言葉は難解で会場のどれだけの人間がその真意を理解したであろうか。僕には、若さゆえの虚栄、自己陶酔、難語による攪乱のように映った。聞く者に届いてこそ「言葉」だと思う。それに比べ三島は、彼の言葉を受け止めながら学生に伝わる言葉を選びながら対峙する。だからと言って三島は学生相手にマウントをとったりしない。颯爽と会場を去る三島の凛々しさったらなく、やはり時代の寵児たるオーラを纏っていた。
そして、一年後の自決。演説でもその予言めいたものはあった。彼を失ったことは時代の失態であろうが、あの才能があのまま朽ちていく老いは想像できないので、彼は彼で自らの完結を命の代償をもって演じてみせたのだろう。
僕はエンドロールを見届けながら、おおきく息を吐いた。
伝説の人物を感じられる貴重かつ凄い作品です。
三島由紀夫と言う人物は自分の中では歴史的な伝説の人物で寡黙で豪傑な容姿に武士としての覚悟と比類なき知性を纏った文学人と言う感じで、遠い昔に存在した人物と言うイメージ。
自分が生まれてから、ほんの少しだけ時代を共有してたと言うのも最近知ったぐらいの知識しか無かったのですが、それくらい何か縁遠く、遠い世界の人物にしか思ってませんでした。
そんな三島由紀夫のドキュメント映画が公開されると言う事でちょっと楽しみにしていたので鑑賞しました。
で、感想はと言うと、とても観応えがあり、凄いなぁと感じました。
ずっしりとどっしりとした質感で淡々と熱量が渦巻く作品。
面白い・面白くないを簡単には語れない程で観応えは十分。
どちらかと言うと、ドキュメンタリー作品を映画館で観るのはちょっと意義が感じられないと思う方なんですが、これは確かに映画館でしか観られない内容かと。
故人ではありますが、三島由紀夫「さん」とつけるのが憚るくらいに歴史的かつ凄い人物なので、敢えて三島由紀夫と書きますが全共闘との討論会の映像は当時の貴重な映像に加えて、半端無い緊迫感がビシビシと伝わってきます。
テレビ局ではTBSが唯一撮影していた映像はめちゃくちゃ貴重。
テレビでは放送出来ない内容ではありますが、本来はテレビで放送し、多くの人に見てもらう事に意味があると思うのですが、…まぁ流せないなぁw
なので、それを映画作品として上映されてるのはやっぱり貴重。
観てよかったと思います。
また、非常に緊迫感があってもリベラルな空気で、敵対心が渦巻いていたと言う訳ではなく、互いにそれぞれの主張を議論していた。
そこには探り探りではあっても根底に共通して互いをリスペクトする気持ちがあった様に感じられたのが、非常に印象的。
もっとギスギスした重々しい空気かなと思ってました。
また、東大全共闘の当事者たちも印象的で特に芥正彦さんが印象に残ります。
赤ん坊を連れて来た事で場が和んだ空気になってましたが、挑戦的な態度と言葉。それに自身のペースに持ち込もうとする計算高さも伺えながらも、弁の立つ闘士としての気高さを感じます。
でも、それに答える三島由紀夫の対応が素晴らしい。
正直討論はかなり高度な内容でちょっと付いていけない部分も多々ありましたが、それにきちんと答えつつ、自分の主張を盛り込んでいく。
何よりも三島由紀夫と言う人物がとてもチャーミングな人と分かったのは自分の中での新たな発見。
こんなに魅力的な人物だったとは思わなかったのですが、三島由紀夫に心酔した「盾の会」の会員の気持ちもなんとなくではありますが、分かる気がします。
討論会自体が決着がついた訳ではないが互いが互いに分かった部分もあって、討論会としては多分大成功かと。
どちらにも言えるのは今の情勢をそれぞれの立場で憂いていたと言う事。
あの時代はこんなにもエネルギッシュだったのかと言う事と大学紛争の当事者達の熱量の高さには驚きです。
最後に「諸君の熱情は信じます。他のものは一切信じないとしても、これだけは信じる」と告げ、壇上を後にした三島由紀夫の言葉はグッと来る物があります。
右や左と言った思想はさておき、その熱量は日本を良くしようとする行動から来る物で、その熱量が様々な紛争や事件を起こした事は答えだけを見ると良くないかと思いますが、今の時代には無い物を体験した様な感覚になります。
残念なのは、非常に意義の在る作品ですが、東出昌大さんのスキャンダルの件で些か作品の外でケチが付いた感じがする事。
東出さんのナレーションは全然問題なく、むしろ良く出来てたと思うのですが、違う事で変な注目をされた様な感じがするのはちょっと残念な気がします。
観終わった後に思ったのは“今の日本を三島由紀夫が見たらどう思うか?”と言う事。
歴史的な人物達が求めた日本になっているとは到底思えないけど、多分落胆をし、日本を憂いているとは思いますが、何処かユーモアかつ真剣に、いろんな道の1つを導いてくれて、弛んだ時には活を入れてくれる感じがします。
この作品は沢山の方が観る事で賛否はともかくとしていろんな事を感じ、いろんな事を思う事の大切さを教えてくれるかと思います。
悩み、考え、行動し、全力で生き、全うした三島由紀夫はやはり凄い人物であったかと。
好みは必ずあるかと思いますが、個人的にはホント観応えがある一級品のドキュメンタリー作品かと思います。
お薦めです!
互いの相互理解が暴いた共通点
私は20代の若人ですが、大学受験の際通っていた学習塾の先生が三島のことをよく話していたのと、自衛隊駐屯地での自決の際に叫んだ言葉をYoutubeで拝見し興味を持ったので映画を鑑賞しました。
まずこの全共闘時代が一種の流行りだった、ただの観念論のお遊びだったという見方があるように見受けられます。しかし何にしろこの会話ができるだけの共通前提の知識や考えの深さを熱量を持って今の時代に再現できるかと考えると、残念で仕方がありません。芥氏が「言葉が人間を媒介する(し得る?)最後の時代だったとは思う」と仰いましたが、SNSの登場でそれを手軽にする手段の面では便利になったにも関わらず、この言葉が出てくるのを聞くと悲しくなります。(一方個人の趣向は多様化し共同体は島宇宙化しているので当然の帰結かもしれませんが。)
本編については、三島は短刀を携え本人曰く相当な気概を持って壇上に上がったようですが、その事実と最後に拍手で三島を見送るシーンの対比がとても面白かったです。
劇中でもメディアでもこの討論は左翼対右翼という対比構造で語られます。しかしここからは私の勝手な推察ですが、両者根底にあったものは空っぽの日本という国に対する憤り、もしくは「不安」だったのではないでしょうか。それを表現するための手段が違っただけで。これは戦前の天皇主義から民主主義への人々の変わり身の早さを見て、日本を支えていた~ismの空虚さを感じたからこその様に思えます。
暗い世相の今、安易な国粋主義的考えや海外至上主義的考えに走るのではなく、その解を求めた時代の記録を見るべきだと思います。よって星5つにしました。
熱量がすごい。タバコも…
時は1969年、私が生まれる前の話。
いきなり始まる東大全共闘との討論会。
その内容が哲学的すぎて私の脳みそではついて行けそうにない!ヤヴァイ!(焦)
・・・と、その時、ビニールおばさんのビニール音。ガシャガシャ、ガシャガシャ。気が散り映画が頭に入ってこない!
たまらず、5〜6列目前だったけど歩いて行って「ビニールうるさいんですけど💢」と文句言いに行ったら、おばさんではなくおじさんでした。
そしてようやく止んだビニール音。
でもやっぱり討論内容はよくわからなかった。
ごめんなさい。もっと勉強します。
三島由紀夫さんがいかに度量が深くストイックでダンディかだけは分かりました。
三島さんは、とにかく相手の話をちゃんと聞く。
なるほど、そうか、うむ、と相槌を打ちながら、ちゃんと聞く。
その上で自分の意見もしっかりと述べる。時にはユーモアを交えて。
べらぼうに頭が切れるし、教養深い。
顔写真も出さずネット上だけでネチネチと陰湿にやり合うよりは、面と向かって意見を述べ合う方がずっと健全。断然そちらが良いとも思いました。
ただ、やはり自決はして欲しくなかった。
まだまだ生きて欲しかったです。
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