三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のレビュー・感想・評価
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熱と敬意と言葉と。 その頃のことを全く知らない世代で、自分達が何か...
熱と敬意と言葉と。
その頃のことを全く知らない世代で、自分達が何か行動を起こしたとして世間や政治や何かを変えることなんて出来やしないと思っているし、そもそもそんな真剣に世界のことも自分のことも考えていないと思っている。そんな私からするとこうも変革に向かって突き進んでいこうとする情熱は羨ましいとすら思う。
三島の本もほぼ読んだことないし、断片的にしか知らなかったけど、なんか一気に実在したんだ、という存在感をリアルに感じられた。
ちょっと前までは本当にこんな一人間が何かを思っていたとしても変化は起こせないと思っていたけど、最近はSNSがきっかけで少しずつでも声が届いたりするシーンも見たりする。案外まだこの時代も捨てたものじゃないのかも、まだ真剣に世の中を変えようと考えてくれる人がいて力もあるのかも。そしてその動きの根底には熱と敬意と言葉があって、それってこの全く知らない時代と共通しているんだと知った。
分かり合えなくても、頭ごなしに否定するんじゃなくてまずは熱と敬意と言葉でもって対話して知ろうとする。知ってもらおうとする。そばにいる人との関係においても、大切なことを学んだ。
右と左の二元論で語れるほどに、人の思想は単純なものではないのだ
私は、本作に描かれているような学生運動については聞きかじった程度の知識しかない平成生まれの若造であり、三島由紀夫という男については自衛隊施設を占拠したのちに切腹してこの世を去った文豪であるという程度の知識しかない人間であります。
そんなほとんど無知な私が本作を観た感想としては、「興味深かった」です。
内容が内容だけに「面白かったか?」と問われれば微妙なところですが、少なくとも「興味深く」最後まで飽きずに観ることができました。
冒頭の過激な左派学生運動の描写の後に、右派の三島由紀夫が東京大学にて討論を行う流れになったことで「大丈夫か?殺されるんじゃないか?」と心配になります。しかしながら実際に討論が開始されてみれば意外や意外、三島の発言に会場から笑いが起こったり学生の発言で三島が笑ったり、三島のタバコに学生が火をつけてあげるようなシーンもあって、当初感じていた危機感は次第に薄れていきました。
難しい単語は字幕で注釈が入ったり、当時実際に現場に居合わせた人たちへのインタビュー映像を途中で挟み込むことで、当時の学生運動について知識が乏しい私のような人間にもある程度は理解できる構成にしてくれたのも、本当にありがたかったですね。
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1969年5月に東京大学駒場キャンパス900番教室で行われた作家三島由紀夫と東大全共闘との討論会を当時の実際の映像や参加者へのインタビューを通じて映し出し、三島由紀夫という男の生きざまを描いたドキュメンタリー。「伝説の討論会」とも呼ばれる討論を現在に蘇らせる。
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個人的に本作で感動したのは「学生運動に参加した学生のその後」を描いているところですね。
当時の学生運動について色々調べたことはありますが、例えば連合赤軍のあさま山荘事件とか2002年に逮捕された重信房子みたいな「一線を越えてしまった過激派のその後」みたいなのは結構見掛けるんですけど「学生運動の一般参加者」に関してはその後の情報があまり見掛けない気がします。もちろんしっかり探せばあるんでしょうけど、センセーショナルに描かれるような話題ではない印象です。しかし本作では三島由紀夫との討論を主催した東大全共闘のメンバーがインタビューに参加しています。全共闘が「敗北」した後にどう考え、どう生きたかをしっかり描いているんですよね。三島由紀夫が主役として扱われている映画でこう言うのも変ですけど、全共闘のメンバーたちも、本作においては紛れもなく主役であったように感じます。
また、本編で描かれている討論の様子にも感動しました。
「右と左」というと対極的な存在で対立していると思われがちですが、冒頭の三島由紀夫の「諸君の熱情は信じます」という言葉で、お互いに認めるところは認めているのだと感じられますし、討論しているうちにお互いに共通認識があることもわかってきたりして、ただただ「論破してやろう」「打ち負かしてやろう」という攻撃的な討論ではなく、実に建設的で愛に溢れた討論であったと感じます。
また、三島の発言の端々から「文学の人間」って感じの美しい表現が飛び出してくるのも感動しました。相手の言葉を受けて意見を返すのが討論ですので、あの場の発言はほとんどが即興で出てきた言葉だと思うんですけど、まるで小説を読んでいるかのような詩的な表現が三島の口から出てくるんですよ。思わず「うわぁすげぇ」と声を出すほどに感心させられました。言葉を使って人の心を動かし続けてきた三島由紀夫という人物の凄さを見せつけられるような場面でした。
平成生まれの自分から見るとまるで異世界のようですが、これが日本に実際に起こった出来事であり、当時の若者たちが自らの青春を投げうって行った「革命」なんですよね。本当に興味深い映画でした。オススメです!!
三島由紀夫こと、平岡公威は、面白い奴だ‼️❓
三島は目立ちたがりで同性愛者で、ええかつこしいだ、そんな先入観がありました。
この映画を観て、気づいたこと、再認識したこと。
全共闘や民青の東大版はクイズ王とあまり変わらないこと、東大のブランドを利用してるけど、さほど大したことない、こと。
みんな、人生を舞台のように感じて、演じて、生きがいを求めて、いること。
三島由紀夫の死は、心中の小細工である、それは再認識した。
でも、活き活きとした、表情は、素晴らしい人生なんだろう、とも思う。
全共闘の人たちも、楽しそうでした、今も昔も。
お祭りみたいなもんです、それが人生、それだけわかりました。
三島由紀夫のカリスマ性に脱帽
敵をも話だけで惹き付け、笑わせるユーモアがある。
討論の内容は必死で考えるのだけれど理解が追いつかなくて汗たぶんほぼ理解できてない(><)頭が本当にいい者同士の会話だったな…
それでも彼の話し方は本当に魅力的だ。分からなくても聞きたくなる。
「諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。」
いい。
思想は違えど日本を思う心の強さが同じだと認め合う。素晴らしい討論会だった。
「言葉は言葉を呼んで言葉は翼を持ってこの部屋を飛びわまわった。」
彼は小説家であり、言葉を言葉の力を本当に大切にしていたと分かる一言でもある。
もう一度、三島作品を読み直したくなった。
三島かっこいい
観念的で美意識高すぎて文章も見た目も三島は苦手でしたが、なんとなんとものすごくユーモアがあるのに理論的理知的でいかした男じゃないですか。熱くなりがちな東大生を笑いで抑えながら、ごまかしたり逃げたりせずに受け止める。いやカッコいい!けど高尚すぎて話してる内容はさっぱり分かりませんでした。あと東大全共闘の人たち現代はそこそこ良さそうな暮らしなさってますね。やっぱ腐っても東大ですね。
熱量と敬意と言葉と…
凄まじい熱量、言葉の応酬、そして三島は学生にきちんと一言一言、敬意を払っている。敵対する千人を前に、向き合い、決して馬鹿にせず、ユーモアを交えながら、認めるものは認めながらも、意見を戦わせる。はっきり言って哲学的、レベルが高過ぎてついていけないが。現代を見たら、三島は何を語るだろう。
本作では三島を一人の等身大として描いているのに好感が持てた。政治的...
本作では三島を一人の等身大として描いているのに好感が持てた。政治的な主張は感じられず、三島を批判するわけでも、過度な肯定感で味付けするわけでもなく、共に生きた人たちから見てどのように映ったのかをいろんなライトで照らし合わせていく。
俺が好意を抱いたところは三島は一人の人間として1000人以上の学生と対峙したところにある。決してねじ伏せるわけでも、説教にし来たわけでもなく、学生と話したいからきたのが男らしいと思った。と同時に意外だったのが、あの安田講堂内では哲学を題材にした三島と学生の討論が行われていたというところにある。
これは憶測にすぎないけれど、もしかしたら学生側は東大の先生とこういう難題の話をしたかったのかもしれない。しかし東大の先生の頭脳より学生側が上回ったからこそ話を聞いてもらえなかったのかもしれない。まともに話ができないからこそ、こういう議題に飢えていたのかな、と鑑賞しながら思った。
学生側の鋭い質問にも三島はたじろぎもせず答える所がこの人のすごいところなんだな。
三島はテレーズ・デスケルウ の小説を引用し、亭主を毒殺した妻は夫の目の中に不安を見たかったからと説く。それを反体制側の人間が大衆の目の中に不安を見たかったからに違いないと語っていたところが好きだし、全共闘は知性主義の東大を壊したという点で評価してたのも興味深い。
後半では三島の天皇論にも言及しており、三島は天皇を日本社会の救済概念・日本の文化伝統が集約されるもの、すなわち無意識的エネルギーの源泉として捉えている。天皇というものを現実を積極的に批判する根拠として読み返して天皇を代表とする日本文化が戦後社会の堕落に対して批判としての力を持つ。もし現実を批判するなら君たちは天皇の名においてやらなければならない、という考えは学生側が意表を突かれて笑ってしまったというエピソードも好きだった。
もしかしたら三島は初代ゴジラのように戦後の日本に喝を入れたかったのだろうと思う。
理解不能な言葉の応酬にただ引き込まれていく
三島由紀夫という人物に興味があったこと
東大全共闘とはなんぞや?ということで
観てみた。
昔の学生さんは熱かった
でも何が言いたいのかさっぱりわからない。
その学生を三島由紀夫は怒りもせず
タバコをふかし
笑いながら眺めてる
でも決して学生とは目を合わせようとしない
何か憐んでいるのか?
それとも三島由紀夫の演出なのか?
最後まで引き込まれて観てしまったが
決して映画として面白いものではなかった。
すばらしい記録
大変勉強になった。昔聞いた話の忘れてたことやわからなかったことが少し埋まった感じ。レスペクトということをなにより感じた。学生側はみんな目が輝き、まじめに何か吸収しようという意気込み感じる、三島由紀夫は非常に真摯誠実自分より若い学生自分とは違う思想、前提の若者たちを尊重し楽しみユーモアたっぷりに巧みに話す。三島のユーモアにどっとウケる会場、同じ場を共有し敵味方なく好きなことを言い批判され批判し笑い殴る殴れと挑発あっでも殴らないよ。民青に牛耳らレテいた駒場キャンパスここの建物、教室でのこの時間は、物資的にも精神的にもまさに解放区であったかのよう。解放区において、カメラもあり、東大全共闘の特に壇上の面々はそれなりにおしゃれしてカッコよく写ろうとしていたのかな。学生の時から前歯かけていた小阪修平氏の天皇というキーワード切り出し取り込みよかった。小阪氏もう他界されていたとは(四方田犬彦氏のFacebook記事で知る、、ちなみにこの記事がとてもよい、映画の理解を助ける)平野啓一郎氏の冷静な三島分析も世代の狭間の自分にとってわかりやすく助毛になる洞察。三島文学は訳もわからず中学生のとき魅了された、このような存在は右も左もない。今、世界に、日本に、広い地平を見える事象はあまりに利己的であまりに狭量だ。
親切設計
アマプラで鑑賞。
69年に行われた東大全共闘と三島由紀夫の討論を撮影したテレビ映像に、現在の関係者のインタビュー映像を交えて構成したドキュメンタリー。
何せ東大生と三島由紀夫というインテリ同士の討論なので、油断するとすぐに会話から振り落とされそうになるんだけど、丁度いいところでインタビューに切り替わってそこまでの討論内容を“解説”してくれる非常に観やすい親切設計だった。
三島を論破しようと狙う若き論客たちを、時には真正面から受け止め、時にはいなしながら自分のペースに引き込み相手する三島の話術はさすがだし、人間的にも魅力的な人物だと思った。
暴力権
序盤は良かったが芥氏の討論の所で混乱する。彼は全共闘と一致していたようには見えなかった。そのため全共闘が結局何を目指したのか理解に及ばなかった。双方とも国家観が滲み出ている。戦後の意識なのだろう。今は右傾化などと言っても、その実、個と国をそこまで重ねることは難しい。
不器用な天才
原作の本が実家にあったので、本は20数年前に読んだことがあります。本を読んでもその熱気が伝わってきましたが、映像で観た方がその当時の空気感が良く伝わってきました。
日本の作家の中で私が一番好きでハマったのが、三島由紀夫です。まずは、文体の美しさ。文体から目に浮かぶ情景。私は、太宰でも川端でもなく、三島です。
本作を鑑賞して一番感じた事は、三島は1945年8月15日で、生きる意味を見失っていたのではないかということです。第二次世界大戦中は、身体共にまともな男であれば戦争に行き、まともでなければ戦争に行けません。三島は後者であり、非日本男子という烙印を国から押された訳です。この『美しくお国の為に死ねなかった』という虚無感が、後の三島文学、例えば金閣寺に投影されていると思います。身体を鍛え上げたのも、若い肉体のまま美しく死ぬ為だったのかもしれません。三島の最期を知っているからかもしれませんが、画面に映し出された三島から現世に蹴りをつけた様な清々しさを感じてしまいました。
三島を観ていて私は「ゆきゆきて神軍」の奥崎を思い出してしまいました。三島と奥崎は、全く異なる主義主張、思想ですが、戦争によって狂わされてしまった人間という意味では同じなのではないかと。いや、ほとんどの日本人が戦争によって実は戦後も狂っていたのではないか?という恐ろしいことを想像してしまいました。
意外にも討論は和気藹々としていて、三島も余裕綽々な感じがしました。討論というよりもリラックスした語り合いに近い感じです。最近のレベルの低い国会で自民党議員や官僚を見ていたからか、レベルの違いに二度びっくり。三島も東大全共闘も思想の違いはあれど、お互いにお互いを敬っているのでは?と思えたほどです。いや、本当、今の親米の自民党連中や竹中平蔵氏を見たら、三島は何て言うのでしょうか。
『政治の時代』と言われるほどに、世界中で価値観の転換が起きた時代だからこそ、自由に能動的に生きた人も多かったのでしょうね。若者も生意気で血気盛んで勢いがありますしね。日本が、大きな経済成長を遂げたのが分かった気がします。
三島の『永すぎた春』の中に『幸せというのは、どうしてこんなに不安なのだろう』という台詞がありますが、私はこんな不安定な三島、狂気な三島が好きなのだろうと思います。
本年最後のレビューは、劇場で観たのになかなか纏まらずレビューがまだ...
本年最後のレビューは、劇場で観たのになかなか纏まらずレビューがまだだったこの作品。
特別、三島由紀夫さんに思い入れがあるわけでもないですし、僕みたいな無知な人間に理解出来るか不安に思いながら観に行ってきました。
結果…滅茶苦茶良かったです。
三島由紀夫さんと芥さんの対話など100%理解出来たとはとても言えませんが、その熱量、彼等の主義主張がその一部でも知れたのは自分にとって大変為になったと思います。
僕も学生運動を直に知っているわけではありませんし、予備知識もあまり無い状態での鑑賞でしたが、解説が入るので分かり易く、半世紀前の日本の姿、日本での左派もその発生した動機も反アメリカ=愛国が根底にあった事に今更ながら気付けたのは大きな収穫でしたし、当時学生運動に励まれていた方々のその後がほんの少しではありますが知る事が出来、長年の疑問が氷解した感じです。
三島由紀夫さんの“天皇”という考え方には大いに賛同出来ますし、三島由紀夫さんのカリスマ性、器の大きさ…きっと僕も身近にいたら、感化されていた事は間違いないくらい魅力的な方ですね。これは是非、自分よりももっと若い世代、10代や20代の方に観て欲しい作品です。
三島由紀夫さんが現在も存命でしたら、今の日本を見てどう思ったでしょうね?
三島由紀夫さんが全共闘を説得しようとしていたのは、右や左といった一見正反する主義ですが、そこには共通の敵がいる事が分かっていたからだと思います。
そして実はその敵は今も存在していて、その闘いはまだ終わっておらず、未だ続いているんですね。
(過激派の事ではないですよ)
三島由紀夫さんもとても魅力的でしたが、芥正彦さんも興味深い方ですね。
20歳を幾つか過ぎたくらいで三島由紀夫さんと渡り合える辺りからも頭の良さは分かりますが、70歳を過ぎた今でもギラついた刃のような感じの方ですよね。
学生運動について(敗北に終わったのでは?)のインタビューでは“自分がまだ存在している”との主旨の答えをなされていましたが、主義主張は違いますが、パンクの“Punks Not Dead”に通ずるものがあるように思いました。
まだ終わったわけじゃないという芥さんの気概、凄いですよね。
また、三島由紀夫さんが自決なされた事についてのインタビューでは“良かったじゃないか、彼も本望だろう”というような答えをされていて、一瞬、カチンときたのですが、よくよく考えてみたら、決して三島由紀夫さんの死を嘲笑ったりしているわけではなく、真実を語っていただけなのではないかと思います。
三島由紀夫さんは第二次世界大戦を生き残ってしまった事に負い目を感じているような節があったみたいですし、いつか日本のために命を捧げたかったのではないかと、そして自分の中にある美学に則ったのではないかと、そんなふうに僕には思えました。
ですから、芥さんは“本望ではないか”という意味で、あのように答えらっしゃったのではないでしょうか?
三島由紀夫さんと芥さんの決定的な違いは、三島由紀夫さんが本気で全共闘を説得しようとしており、きちんと意見を聞き、相手を尊重したいたのに対し、芥さんは最初から相手に分かってもらうつもりがなかった事、そして言葉で捻じ伏せようとしていた点のような気がします。
議論を途中で投げ出してしまった点も印象として悪く、あれでは逃げたのと変わらないように見えてしまいますよね。
まだ、書き足りないような気がしますが、これ以上書いても纏まらなさそうなので、このくらいにしておきます。
取り留めのないレビューになってしまい、すみません。
最後にご挨拶を。
皆様、今年一年大変お世話になりました。
皆様のお蔭で、今年もまた素敵な映画に出会える事が出来ました。
自分も含め、多くの方がコロナに振り回された一年だったかと思います。
新作映画の公開が延期されたり、映画に携わる方々には厳しい一年になってしまわれたかと思いますが、そのお蔭で多くの方が映画を愛している事を改めて実感出来たような気がします。
個人的な事ですが、元々本業の仕事が減っているところに加えて、このコロナの影響で仕事が更に激減。
加えて、自分のバイト先のお店に、市街地から通じる道路が1年五ヶ月に渡って終日通行止めになるため、バイト先のお店が閉店の危機に瀕していますし(どう考えても踏切工事で接する道路が1年5ヶ月も終日通行止めっておかしくないですか?)全く先行きが見えない状態に陥っています。
来年、どうなるのか全く分かりませんが、また皆様のレビューを拝読させて頂き、より多くの映画を鑑賞出来る一年になれば良いなと思っています。
今年は暗いニュースが多かったような気がしますが、来年は皆が笑顔で過ごせる年になる事を願っております。
それでは皆様、良いお年をお迎え下さい。
言葉の力
1969年、東大安田講堂事件と同年、革命への期待と騒乱に満ちた「政治の季節」、三島由紀夫は東大全共闘に招かれ公開討論会をおこなった。
その記録映像が、なんとTBSに残されていた。
本作は、討論会のようすと、当時、その場にいた人を中心に証言を集めて編集したドキュメンタリー映画である。
この映画は、こんなナレーションで幕を閉じる。
「あの日、この900番教室に満ちていたのは、三島由紀夫と千人の東大全共闘の『熱と敬意と言葉』だった」
意外にも討論は、言葉の応酬は激しいものの、全体に落ち着いていて、ときに笑いもあった。この雰囲気を作った三島の包容力とユーモアに、ちょっと驚いた。
三島は決して学生を見下すことはなく、真摯に耳を傾け、そして言葉を紡いだ。
三島は最後、東大生たちにこう言って会場を去る。
「言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び回ったんです。この言霊がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます」
「そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい」
この日、三島に討論を挑んだ学生、「東大全共闘きっての論客」と言われる芥氏は、この討論を振り返って、こう語る。
「言葉が力があった時代の最後だと思う」
梨木香歩の近著「ほんとうのリーダーのみつけかた」にこんな一文があったのを思い出した。
「今の政権の大きな罪の一つは、こうやって、日本語の言葉の力を繰り返し、繰り返し、削いできたことだと思っています。それが知らないうちに、国全体の『大地の力のようなもの』まで削いできた。母語の力が急速に失われてきた。この『大地の力のようなもの』こそ、ほんとうのその国固有の『底力』だと思うのです」
三島と全共闘、単純には「ザ・右翼」と「ザ・左翼」という構図に見えるが、実際には通じる部分が多い。
前述の芥氏は、双方にとっての共通の、そして本当の敵は、「あいまいで猥褻な日本国だ」と言い切った。立場は違えど、どちらも日本を社会を、よりよくしたいと願っていたのだ。
三島の事実上の遺書と言われる小文「果たし得ていない約束」にある、彼の予言めいた言葉。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」
三島と全共闘の、この討論会が開かれたのは50年以上も前のこと。
しかし、いま、僕たちが生きるこの国、この社会のことを考えさせられた。
漂うサム・ペキンパー臭! 「分断」の時代に「対話」の可能性を探る好ドキュメンタリー
奇しくも、2020年に鑑賞した映画のなかで、特に僕の印象に残った3本は、いずれも「分断」と「対話」をめぐる物語だったように思う。
『鬼滅の刃』、『ミセス・ノイズィ』、そして本作である。
これら3作はいずれも、いまの時代が欲した作品だったのかもしれない。
そんな気がしてくる。
『鬼滅の刃』は、不可逆的な敵(鬼)になったはずの妹を、こちら側に引き戻すために戦う少年の話だ。彼は鬼の首は容赦なく刎ねながらも、相手の境遇や悲しみには理解を示し、それを引き受けて涙する。一方で、煉獄vs猗窩座もまた、分断された者どうしの「対話」の一形態として興味深い。
『ミセス・ノイズィ』は一見ご近所トラブルを題材としたキワモノのコメディ映画と見せつつ、その実、分断がいかにして生まれ、闘争状態にまで発展したときに、人はどう対処できるのかを描きだした傑作だった。
『三島由紀夫vs東大全共闘』は、政治思想としては両極に位置する二者が、たまさか対話を夢想してそれを実現させた、幸せな時間の稀有な映像記録である。現実に起きた出来事であるだけに、われわれにとって示唆的な要素も多かろう。
ただ本作で最も見逃せない点は、おそらく「いかに両極の二者が対話したか」(How)ではなく、「なぜ両極の二者は対話し得たか」(Why)のほうではないかと思う。
ここでポイントとなるのは、両者が1969年の段階で「すでに」時代に取り残されていたということだ。東大全共闘は前年に安田講堂闘争に敗れ、民青との主導権争いにも敗れていた。三島にとってもこの時期は、自刃まであと1年半の猶予しかない、思想的に切羽詰まっていた時期だ。
すなわち両者は、あのとき真の意味で両極にいたわけではない。
「右回り」と「左回り」で進んでいるうちに、極点近くでこんにちはしたようなものだ。
彼らにとっての真の敵とは、高度経済成長の波にのまれて物質的快楽を享受し、反米主義を非現実的と断じ、過激主義を嫌悪する大衆社会だったのであり、一方で一般大衆から見れば、両者はいずれも、もはやペルソナ・ノングラータとして白眼視される存在だった。
「政治」の時代は退潮し、両者は時代遅れのドン・キホーテのように滑稽な道化的存在と化した。
あるいは、彼らの境遇は実にサム・ペキンパー的だったといえるかもしれない。
ペキンパーが描くような、保安官と無法者。
車が走り、警察が登場し、市民社会が成立した時代に行き場を無くし、それでも誇りをもってオールドファッションな生き方を貫く男たち。
それが、彼らだ。
どちらにせよ、彼らの時代は終わった。
それでも、彼らは互いに戦わねばならない。
それこそが彼らのレゾン・デートルだからだ。
近づく滅びのなかで、なお彼らは決闘場に赴く。
そこは、奇跡的に成立した無風地帯。
900番教室だ。
ここで行われた討論会は、真の意味でのガチンコの真剣勝負ではない。
夢に破れて、それでもなお夢を追う者どうしが、内なる声で呼び合って成立したプロレス。
真剣を用いてはいるが、きちんと相手に花をもたせ、相手の技は受け止める、巌流島の戦いなのだ。
映画を観ていて誰しもが感服するのは、三島の大人の対応だろう。
冒頭の演説からして、彼は全共闘の若者に対して大変融和的だ。彼らの暴力を肯定し、彼らの熱情を肯定し、共通の地盤を強調する。たくみなユーモアと愛すべき笑顔で若者の心をあっという間につかんでみせる。そして相手の話をよく聴き、若者特有の拙い形而上的な議論を引き取って、わかりやすくいったん整理したうえで、ちゃんと受けられるように投げ返してやっている。言動の端々から、彼が「こういう血気盛んで頭でっかちの怒れる若者」自体はどうやら「大好き」なのだということがひしひしと伝わってくる。挙句、多分にリップサーヴィス的だとはいえ、両者は共闘できるのではないか、とのオルグまで投げかけてみせるのだ(実際、討論会のあと司会の青年に電話をかけ、楯の会にさそっている)。とにかくあの笑顔。三島は、心から楽しそうだ。
一方の学生側も、必死で三島を挑発してみせてはいるものの、そこには、たとえば現代の国会の野党質問のような「相手をつぶす」ことが第一義のディスコミュニケイションは感じられない。つい「先生」とつけて慌てて弁明する愉快なくだりからもわかる通り、少なくとも彼らは、世間に対する怒りと行動主義という共通の地盤においては三島を認め、あるいはある種の尊敬の念を抱いていることがうかがえる。
時代に取り残され、追い詰められた反逆者。
その対抗勢力として名乗りをあげながら、空回りを続ける右翼の急先鋒。
両者は、「決闘」の夢を見る。
かたや私兵として立ち上がった天皇主義者。かたや武闘派の新左翼。
敵としてはもうしぶんない。
本当は、1969年の日本には、彼らの戦うべき場所も、戦うべき理由も、もはや残されていなかった。
でも、彼らは奇跡的に「決闘」を実現させたのだ。
幸せな邂逅。
これはその、どこまでもロマンティックで、どこまでもセンチメンタルな、幸福な時間の記録である。
滅びの美学――。
この討論から2年も経ずして、全共闘は崩壊し、三島は自刃する。
死の直前に光芒を放つ、ダンディズムと若い情熱のぶつかりあいの火花。
好敵手どうし、死を悟った男と男の、最期の決闘。
これをペキンパー的と呼ばずして、なんと呼ぼうか。
―――――
ドキュメンタリー映画としても、本作は優れた作品だと思う。
どちらかに肩入れして見る筋の人や、彼らの在り方にシンパシーを抱くタイプの人から見れば、物足りない部分もあるかもしれないが、僕のようにこの手の手合いに興味はあっても、思想的共感はゼロの人間からすると、よくバランスのとれたまっとうなつくりで、安心して観ることができた。
むしろ、傑作『ゲッべルスと私』を観ればわかる通り、歴史的/政治的問題を映像が扱うときは、すみずみに至るまでの細心の注意が必要であり、それをしくじれば『主戦場』のような、たんに不幸な映画に堕するだけだ。
おそらく、思想的に偏向のなさそうなドラマ畑の豊島圭介を、あえて「東大出」というだけで監督に起用し、東出くんを「東出昌大」という名前の洒落だけで起用した(と考えると楽しい)プロデューサーの慧眼の勝利だろう。冗談ではなく、これこそが、分断の時代の正しい対話の在り方だと思う。
実際、最近Twitter界隈で痛々しい下卑たコメントを投下しては、私のような旧来のファンをがっかりさせている内田樹や平野啓一郎も、この作品にかぎっては中立的な立場から、きちんとコメントを出していて大変好感がもてる。識者のコメントが必要かどうかといわれれば、なくてもいいのかもしれないが、サルトルやトロツキーの著作が当たり前の共通言語だった三島や全共闘の世代と、われわれはもはや遠いところにいるので、一定の解説をああやってはさんでくれるのは大変ありがたかった。
全共闘や楯の会の生存者が出演して、当時を振り返るのも、じつに興味ぶかかった。
彼らが自らの無残な敗北をどう総括し、どのように世間にまぎれて生き恥をかいてきたかほどに面白いテーマはないだろう。
学生運動出身者はまともな就職ができず、「地方公務員になるか、大学に残るか、予備校講師になるか、マスコミに行くか」に相場が決まっていたと側聞していたが、本当にそういう感じでちらばっていて、そこからしてもう面白い。敗北についてインタビューを受けて、それぞれのスタンスで差異はありつつも、芥正彦も木村修も橋爪大三郎も頑なに敗北を認めないのは、NHKのドキュメンタリーで観たあさま山荘事件の犯人たちの今を思い出させる。彼らもまた、必ずしも自分たちは敗北したわけではないと盛んにうそぶいていた。
一方、楯の会のメンバーも、決起自体は失敗に終わったものの、現代にいたるまでの過程で、反共という理念自体は相応に満たされたということもあるのか、苦味の残る元全共闘の老人たちに比べると、歳の取り方がどこか鷹揚な感じがする。今も三島との楽しかった追憶のなかで生きている、そんな雰囲気である。
とにかく、顔だ。
顔に、その人の人生は刻印される。
どこかふやっとした若者時代の顔が、その人独自のなにかを宿した老齢者の顔に変化する。
それをこうやって、いくつも並べて見比べられるというのは、なかなかにない体験だ。
とくに芥正彦の顔は、彼自身が不屈の呪いによってつくりあげた奇相であり、やはり衝撃を受ける。
いやあ、やっぱり「人は見た目が9割」って、本当じゃないか。
ちなみに、ラストでうつった今の900番教室にも驚かされた。
きれいな机と機能的な椅子のならぶ、近代的な内装に様変わりしていたからだ。
私が在学していた30年前の900番教室は、まだ映画で出てくるままの古ぼけた講堂だった。教会建築のようなウッディな空間で、授業中以外はタバコも吸えた。すでに全共闘の気配などみじんもなく、そこは社会学者である見田宗介(真木悠介)のマスプロ授業の場として機能していた。この映画は「あれから50年」を謳っているが、20年しか経っていないあのころすでに、学生は大半がノンポリで、活動家はオウムや原理の連中とほぼ同一視されていた。
この映画に惹かれるのは、たった一世代前の同じ学生たちが、賢しげな言論で武装し、国家を相手取って血まみれで闘っていたという事態をとても信じられず、飲み込めないまま大人になった自分に、なにがしかの答え合わせを示してくれるからかもしれない。
あのとき、すでに全共闘の時代から、東大は変質し、学生気質もおおいに変わっていた。
それから30年。さらに大学は変わり、学生も変わったはずだ。
私の後ろで映画を観ていたのは、大半が20代とおぼしき若者たちだった。
彼らはいったい、この映画の三島と若者たちに、何を見出したのだろうか?
これが伝説?ぬるい。
これが伝説?ぬるい。
燦然と輝くスターと東大でも哲学に長けた子達のテレビ映えするジャレ合い。
結果残るのは難解な哲学論もリードし粋にいなす三島のカッコよさだけ。
これが流行った時代があったと知れば良く、
今をノンポリ腑抜けと卑下するなかれ。
問いには答えが必須
今年の第1トピックでした
皆さんのレビューが面白くて!
この「レビュー欄」は、三島が帰ったあとの興奮冷めやらぬ会場での “参加者たちのディスカッション”のようです。
映画館でぜひ観たいと念じつつも、折り悪く世の中はそのままコロナ閉館の時代に突入。
諦めていたら、なんと再開したシネコンで三島のドキュメンタリーは復活したのです。
この どマイナーな映画が(笑)コロナのおかげて足掛け4ヶ月のロングランとかあり得ないおまけでした。
今年の映画鑑賞の1st.トピックでした。
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900号教室に自分も座っている錯覚。そんな鑑賞でした。
討論会の軍配は、完全に三島に持っていかれてましたね。
あの頃、現役の売れっ子作家にしてファッションモデルでもあった三島は、学生たちの絶叫的アジテーションや文法無視・礼儀無用の粗野な質問に、微笑みを浮かべて温かく、そしてダンディーに答える。
質問下手の若造たちの問いをば、その言葉足らずを補い、瞬時にして連中のプライドを尊重しつつ真意を汲み取ってくれる。
おまけに彼らの緊張をやわらげてやろうとジョークを取り混ぜてもくれようというのだから。
セイガクよ、君たちは何を得意げになっているのだ?
三島の眼前で完敗の立場を悟っていたのはたった一人詰め襟くんだけではないか。
しかしそれにもかかわらず入れ替わり立ち替わり三島に突っかかってみせる若者たちの、三島の目を見ない質問。ああいう喧嘩腰の審問をやっていて若造たちは恥ずかしくならなかったのだろうか?
あの目は闘う前から怖じけ付く負け犬の目だ。
叩き台の本人三島由紀夫がここまで来てくれているのだから、三島に正対して話しかけるべきなのに。
その晩の電話で
「楯の会に入らないか」とまさかの本人に問われたときの詰め襟くんのうろたえが、このドキュメンタリーのクライマックスであったと思う。
自身の政治的姿勢への確証の無さを暴露してまでも、また天皇への信奉を文学者として言葉化出来ない力不足を告白してまでも、一人の人間三島由紀夫が裸になってくれた=咬ませ犬になってくれたあの場、あの真摯さに、うろたえたのは詰め襟くんだけか。
今回のロングラン上映を、彼らもどこかの映画館の薄暗がりできっと観ていたことだろう。
反抗期は終わったかい?
君たちは、“兄”が、“父”が欲しかったのだろう。
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映画の仕上げ方としては
惜しむらくは、900号教室の“アンチ三島の若造”たちだけでなく、楯の会の元メンバーたちが過去を振り返って、今現在あの時をどう総括しているのか、そこも是非、インタビューが見たかったな。
(あと、あの日加藤登紀子はどこに?⇒三島集会の前年にお登紀さんは卒業でした)。
法政大?の写真のみ、女子学生が二人写っていたが、参加者は男子学生ばかりだ。
見事に男だけの世界でした。
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「対話」はソクラテス以来学問の基本だ。
僕は進学先を最終的に決定するとき、対話を放棄して機動隊に学生を売った学校を選らばなかった。対話こそが核であったはずのその学校に失望して、大量の退学者が出た大学だ。
三島は、毒杯をあおったソクラテスに重なってしまって辛いけれど、逃げずに単身、若者たちの招きに応えた。
「もはや立ち去るべき時である。私は死ぬために、あなたたちは生きるために。だが、われわれのどちらがよりよいほうへと向かっているのかは神よりほかに誰にもわからない。」
(『ソクラテスの弁明』42A)
問いには答えが必須だ。
答える相手を失ったいま、
900号教室の残党がいまもこの社会で、あの日の体験を負ってきっと良い働きをしているのだろうと信じたい。
ゆとり世代の感想
三島作品は3作しか読んだことがなく、単純に興味本位で鑑賞。
いち作家という枠には収まりきらないその存在感と影響力を、映像としての三島由紀夫を通じて初めて目の当たりにできた気がする。
いわゆるインテリ達の紡ぎ出す言葉に、鑑賞中は理解が追い付かないことが多々あったが、
論破や打ち負かすことを目的としない三島の姿勢は、懐の深さというか、男としての器の大きさを感じたし、観ていて心地よかった。
そもそも当時の時代背景に対して理解が乏しい中での鑑賞だったが、
このご時世、矛先が曖昧な日本国に対する憂いである必要はないが、熱と敬意と言葉 を大切にしながら生きていきたいと思った。
69年の「熱と敬意と言葉」に思う
二度目の鑑賞、やはり言葉の力は満ちていた。
昔と今、そこを比べ悲観することに慣れては駄目だろう。しかし、あの年代特有な語りの熱量、言葉の緊張感、タバコの煙で曇る講堂… 確かに“この時代が最後だった”と自覚するに足りる、尖った思考の渦で発せられる主張と同調に、やはり憧れを禁じ得ない自分がいた。TBSが保存する、この貴重な映像資料を観たことは何度もあった。しかし、改めて「新しきを知る」真相に満ちた本作は、当事者達の証言が単なる回想に非ず、眼の奥に鋭さも保った声の主が、未だ「三島の思想と言葉」に対し「反論・尊敬・格闘」を繰り返していただろう事を感じさせた。多感な時期に「国運と自身の運命は同様」な死生観を抱いた若者が、あの8.15を境に分離した感覚を、取り戻さんとする思想の納得も禁じ得ない。そして、あの場において高圧的な態度や、語気を荒げる事なく、“まぁ先ずよく聞いてやろう”な理解への心構えが、双方にあった点が見過ごせない。やはり、何処かで“共通の敵”を見出していた、それ故教壇での一服も微笑ましく映っていたのかもしれない。正に愉快な一時を観た。
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