劇場公開日 2020年3月20日

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三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のレビュー・感想・評価

全207件中、41~60件目を表示

4.0右と左の二元論で語れるほどに、人の思想は単純なものではないのだ

2021年8月2日
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といぼ:レビューが長い人

3.0三島由紀夫こと、平岡公威は、面白い奴だ‼️❓

2021年8月1日
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三島は目立ちたがりで同性愛者で、ええかつこしいだ、そんな先入観がありました。
この映画を観て、気づいたこと、再認識したこと。
全共闘や民青の東大版はクイズ王とあまり変わらないこと、東大のブランドを利用してるけど、さほど大したことない、こと。
みんな、人生を舞台のように感じて、演じて、生きがいを求めて、いること。
三島由紀夫の死は、心中の小細工である、それは再認識した。
でも、活き活きとした、表情は、素晴らしい人生なんだろう、とも思う。
全共闘の人たちも、楽しそうでした、今も昔も。
お祭りみたいなもんです、それが人生、それだけわかりました。

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アサシン5

4.0三島由紀夫のカリスマ性に脱帽

2021年7月8日
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敵をも話だけで惹き付け、笑わせるユーモアがある。

討論の内容は必死で考えるのだけれど理解が追いつかなくて汗たぶんほぼ理解できてない(><)頭が本当にいい者同士の会話だったな…

それでも彼の話し方は本当に魅力的だ。分からなくても聞きたくなる。

「諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。」
いい。
思想は違えど日本を思う心の強さが同じだと認め合う。素晴らしい討論会だった。

「言葉は言葉を呼んで言葉は翼を持ってこの部屋を飛びわまわった。」
彼は小説家であり、言葉を言葉の力を本当に大切にしていたと分かる一言でもある。
もう一度、三島作品を読み直したくなった。

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つぶちょこ

4.5三島かっこいい

2021年6月29日
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観念的で美意識高すぎて文章も見た目も三島は苦手でしたが、なんとなんとものすごくユーモアがあるのに理論的理知的でいかした男じゃないですか。熱くなりがちな東大生を笑いで抑えながら、ごまかしたり逃げたりせずに受け止める。いやカッコいい!けど高尚すぎて話してる内容はさっぱり分かりませんでした。あと東大全共闘の人たち現代はそこそこ良さそうな暮らしなさってますね。やっぱ腐っても東大ですね。

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三毛猫泣太郎

3.0熱量と敬意と言葉と…

2021年6月27日
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KEI

4.0本作では三島を一人の等身大として描いているのに好感が持てた。政治的...

2021年6月21日
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興奮

知的

難しい

本作では三島を一人の等身大として描いているのに好感が持てた。政治的な主張は感じられず、三島を批判するわけでも、過度な肯定感で味付けするわけでもなく、共に生きた人たちから見てどのように映ったのかをいろんなライトで照らし合わせていく。

俺が好意を抱いたところは三島は一人の人間として1000人以上の学生と対峙したところにある。決してねじ伏せるわけでも、説教にし来たわけでもなく、学生と話したいからきたのが男らしいと思った。と同時に意外だったのが、あの安田講堂内では哲学を題材にした三島と学生の討論が行われていたというところにある。

これは憶測にすぎないけれど、もしかしたら学生側は東大の先生とこういう難題の話をしたかったのかもしれない。しかし東大の先生の頭脳より学生側が上回ったからこそ話を聞いてもらえなかったのかもしれない。まともに話ができないからこそ、こういう議題に飢えていたのかな、と鑑賞しながら思った。

学生側の鋭い質問にも三島はたじろぎもせず答える所がこの人のすごいところなんだな。

三島はテレーズ・デスケルウ の小説を引用し、亭主を毒殺した妻は夫の目の中に不安を見たかったからと説く。それを反体制側の人間が大衆の目の中に不安を見たかったからに違いないと語っていたところが好きだし、全共闘は知性主義の東大を壊したという点で評価してたのも興味深い。

後半では三島の天皇論にも言及しており、三島は天皇を日本社会の救済概念・日本の文化伝統が集約されるもの、すなわち無意識的エネルギーの源泉として捉えている。天皇というものを現実を積極的に批判する根拠として読み返して天皇を代表とする日本文化が戦後社会の堕落に対して批判としての力を持つ。もし現実を批判するなら君たちは天皇の名においてやらなければならない、という考えは学生側が意表を突かれて笑ってしまったというエピソードも好きだった。

もしかしたら三島は初代ゴジラのように戦後の日本に喝を入れたかったのだろうと思う。

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マルホランド

3.0理解不能な言葉の応酬にただ引き込まれていく

2021年6月20日
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三島由紀夫という人物に興味があったこと
東大全共闘とはなんぞや?ということで
観てみた。
昔の学生さんは熱かった
でも何が言いたいのかさっぱりわからない。

その学生を三島由紀夫は怒りもせず
タバコをふかし
笑いながら眺めてる
でも決して学生とは目を合わせようとしない

何か憐んでいるのか?
それとも三島由紀夫の演出なのか?

最後まで引き込まれて観てしまったが
決して映画として面白いものではなかった。

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つかちん

5.0すばらしい記録

2021年6月6日
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redir

4.0親切設計

2021年6月2日
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アマプラで鑑賞。
69年に行われた東大全共闘と三島由紀夫の討論を撮影したテレビ映像に、現在の関係者のインタビュー映像を交えて構成したドキュメンタリー。
何せ東大生と三島由紀夫というインテリ同士の討論なので、油断するとすぐに会話から振り落とされそうになるんだけど、丁度いいところでインタビューに切り替わってそこまでの討論内容を“解説”してくれる非常に観やすい親切設計だった。
三島を論破しようと狙う若き論客たちを、時には真正面から受け止め、時にはいなしながら自分のペースに引き込み相手する三島の話術はさすがだし、人間的にも魅力的な人物だと思った。

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青空ぷらす

3.0暴力権

2021年5月30日
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序盤は良かったが芥氏の討論の所で混乱する。彼は全共闘と一致していたようには見えなかった。そのため全共闘が結局何を目指したのか理解に及ばなかった。双方とも国家観が滲み出ている。戦後の意識なのだろう。今は右傾化などと言っても、その実、個と国をそこまで重ねることは難しい。

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Kj

5.0駒場にて

2021年5月10日
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1969年に駒場で行われた、三島由紀夫と東大全共闘の討論集会の模様を中心に描いているが、天才ミシマの壮絶な生き方に見入ってしまう。
私は当時、大学生で東京に居たので、この空気感はよく覚えていて、市ヶ谷事件もリアルに思い出された。
連続した時の流れには勝てない。

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いやよセブン

4.5不器用な天才

2021年3月21日
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楽しい

興奮

原作の本が実家にあったので、本は20数年前に読んだことがあります。本を読んでもその熱気が伝わってきましたが、映像で観た方がその当時の空気感が良く伝わってきました。

日本の作家の中で私が一番好きでハマったのが、三島由紀夫です。まずは、文体の美しさ。文体から目に浮かぶ情景。私は、太宰でも川端でもなく、三島です。

本作を鑑賞して一番感じた事は、三島は1945年8月15日で、生きる意味を見失っていたのではないかということです。第二次世界大戦中は、身体共にまともな男であれば戦争に行き、まともでなければ戦争に行けません。三島は後者であり、非日本男子という烙印を国から押された訳です。この『美しくお国の為に死ねなかった』という虚無感が、後の三島文学、例えば金閣寺に投影されていると思います。身体を鍛え上げたのも、若い肉体のまま美しく死ぬ為だったのかもしれません。三島の最期を知っているからかもしれませんが、画面に映し出された三島から現世に蹴りをつけた様な清々しさを感じてしまいました。

三島を観ていて私は「ゆきゆきて神軍」の奥崎を思い出してしまいました。三島と奥崎は、全く異なる主義主張、思想ですが、戦争によって狂わされてしまった人間という意味では同じなのではないかと。いや、ほとんどの日本人が戦争によって実は戦後も狂っていたのではないか?という恐ろしいことを想像してしまいました。

意外にも討論は和気藹々としていて、三島も余裕綽々な感じがしました。討論というよりもリラックスした語り合いに近い感じです。最近のレベルの低い国会で自民党議員や官僚を見ていたからか、レベルの違いに二度びっくり。三島も東大全共闘も思想の違いはあれど、お互いにお互いを敬っているのでは?と思えたほどです。いや、本当、今の親米の自民党連中や竹中平蔵氏を見たら、三島は何て言うのでしょうか。

『政治の時代』と言われるほどに、世界中で価値観の転換が起きた時代だからこそ、自由に能動的に生きた人も多かったのでしょうね。若者も生意気で血気盛んで勢いがありますしね。日本が、大きな経済成長を遂げたのが分かった気がします。

三島の『永すぎた春』の中に『幸せというのは、どうしてこんなに不安なのだろう』という台詞がありますが、私はこんな不安定な三島、狂気な三島が好きなのだろうと思います。

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ミカ

5.0本年最後のレビューは、劇場で観たのになかなか纏まらずレビューがまだ...

2020年12月31日
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刺繍屋

3.5言葉の力

2020年12月31日
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しろくま

4.5漂うサム・ペキンパー臭! 「分断」の時代に「対話」の可能性を探る好ドキュメンタリー

2020年12月27日
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鑑賞方法:映画館

奇しくも、2020年に鑑賞した映画のなかで、特に僕の印象に残った3本は、いずれも「分断」と「対話」をめぐる物語だったように思う。
『鬼滅の刃』、『ミセス・ノイズィ』、そして本作である。
これら3作はいずれも、いまの時代が欲した作品だったのかもしれない。
そんな気がしてくる。

『鬼滅の刃』は、不可逆的な敵(鬼)になったはずの妹を、こちら側に引き戻すために戦う少年の話だ。彼は鬼の首は容赦なく刎ねながらも、相手の境遇や悲しみには理解を示し、それを引き受けて涙する。一方で、煉獄vs猗窩座もまた、分断された者どうしの「対話」の一形態として興味深い。

『ミセス・ノイズィ』は一見ご近所トラブルを題材としたキワモノのコメディ映画と見せつつ、その実、分断がいかにして生まれ、闘争状態にまで発展したときに、人はどう対処できるのかを描きだした傑作だった。

『三島由紀夫vs東大全共闘』は、政治思想としては両極に位置する二者が、たまさか対話を夢想してそれを実現させた、幸せな時間の稀有な映像記録である。現実に起きた出来事であるだけに、われわれにとって示唆的な要素も多かろう。

ただ本作で最も見逃せない点は、おそらく「いかに両極の二者が対話したか」(How)ではなく、「なぜ両極の二者は対話し得たか」(Why)のほうではないかと思う。

ここでポイントとなるのは、両者が1969年の段階で「すでに」時代に取り残されていたということだ。東大全共闘は前年に安田講堂闘争に敗れ、民青との主導権争いにも敗れていた。三島にとってもこの時期は、自刃まであと1年半の猶予しかない、思想的に切羽詰まっていた時期だ。

すなわち両者は、あのとき真の意味で両極にいたわけではない。
「右回り」と「左回り」で進んでいるうちに、極点近くでこんにちはしたようなものだ。
彼らにとっての真の敵とは、高度経済成長の波にのまれて物質的快楽を享受し、反米主義を非現実的と断じ、過激主義を嫌悪する大衆社会だったのであり、一方で一般大衆から見れば、両者はいずれも、もはやペルソナ・ノングラータとして白眼視される存在だった。

「政治」の時代は退潮し、両者は時代遅れのドン・キホーテのように滑稽な道化的存在と化した。
あるいは、彼らの境遇は実にサム・ペキンパー的だったといえるかもしれない。
ペキンパーが描くような、保安官と無法者。
車が走り、警察が登場し、市民社会が成立した時代に行き場を無くし、それでも誇りをもってオールドファッションな生き方を貫く男たち。
それが、彼らだ。
どちらにせよ、彼らの時代は終わった。
それでも、彼らは互いに戦わねばならない。
それこそが彼らのレゾン・デートルだからだ。
近づく滅びのなかで、なお彼らは決闘場に赴く。
そこは、奇跡的に成立した無風地帯。
900番教室だ。

ここで行われた討論会は、真の意味でのガチンコの真剣勝負ではない。
夢に破れて、それでもなお夢を追う者どうしが、内なる声で呼び合って成立したプロレス。
真剣を用いてはいるが、きちんと相手に花をもたせ、相手の技は受け止める、巌流島の戦いなのだ。

映画を観ていて誰しもが感服するのは、三島の大人の対応だろう。
冒頭の演説からして、彼は全共闘の若者に対して大変融和的だ。彼らの暴力を肯定し、彼らの熱情を肯定し、共通の地盤を強調する。たくみなユーモアと愛すべき笑顔で若者の心をあっという間につかんでみせる。そして相手の話をよく聴き、若者特有の拙い形而上的な議論を引き取って、わかりやすくいったん整理したうえで、ちゃんと受けられるように投げ返してやっている。言動の端々から、彼が「こういう血気盛んで頭でっかちの怒れる若者」自体はどうやら「大好き」なのだということがひしひしと伝わってくる。挙句、多分にリップサーヴィス的だとはいえ、両者は共闘できるのではないか、とのオルグまで投げかけてみせるのだ(実際、討論会のあと司会の青年に電話をかけ、楯の会にさそっている)。とにかくあの笑顔。三島は、心から楽しそうだ。

一方の学生側も、必死で三島を挑発してみせてはいるものの、そこには、たとえば現代の国会の野党質問のような「相手をつぶす」ことが第一義のディスコミュニケイションは感じられない。つい「先生」とつけて慌てて弁明する愉快なくだりからもわかる通り、少なくとも彼らは、世間に対する怒りと行動主義という共通の地盤においては三島を認め、あるいはある種の尊敬の念を抱いていることがうかがえる。

時代に取り残され、追い詰められた反逆者。
その対抗勢力として名乗りをあげながら、空回りを続ける右翼の急先鋒。

両者は、「決闘」の夢を見る。
かたや私兵として立ち上がった天皇主義者。かたや武闘派の新左翼。
敵としてはもうしぶんない。
本当は、1969年の日本には、彼らの戦うべき場所も、戦うべき理由も、もはや残されていなかった。
でも、彼らは奇跡的に「決闘」を実現させたのだ。
幸せな邂逅。
これはその、どこまでもロマンティックで、どこまでもセンチメンタルな、幸福な時間の記録である。
滅びの美学――。
この討論から2年も経ずして、全共闘は崩壊し、三島は自刃する。
死の直前に光芒を放つ、ダンディズムと若い情熱のぶつかりあいの火花。
好敵手どうし、死を悟った男と男の、最期の決闘。
これをペキンパー的と呼ばずして、なんと呼ぼうか。

―――――

ドキュメンタリー映画としても、本作は優れた作品だと思う。
どちらかに肩入れして見る筋の人や、彼らの在り方にシンパシーを抱くタイプの人から見れば、物足りない部分もあるかもしれないが、僕のようにこの手の手合いに興味はあっても、思想的共感はゼロの人間からすると、よくバランスのとれたまっとうなつくりで、安心して観ることができた。
むしろ、傑作『ゲッべルスと私』を観ればわかる通り、歴史的/政治的問題を映像が扱うときは、すみずみに至るまでの細心の注意が必要であり、それをしくじれば『主戦場』のような、たんに不幸な映画に堕するだけだ。
おそらく、思想的に偏向のなさそうなドラマ畑の豊島圭介を、あえて「東大出」というだけで監督に起用し、東出くんを「東出昌大」という名前の洒落だけで起用した(と考えると楽しい)プロデューサーの慧眼の勝利だろう。冗談ではなく、これこそが、分断の時代の正しい対話の在り方だと思う。

実際、最近Twitter界隈で痛々しい下卑たコメントを投下しては、私のような旧来のファンをがっかりさせている内田樹や平野啓一郎も、この作品にかぎっては中立的な立場から、きちんとコメントを出していて大変好感がもてる。識者のコメントが必要かどうかといわれれば、なくてもいいのかもしれないが、サルトルやトロツキーの著作が当たり前の共通言語だった三島や全共闘の世代と、われわれはもはや遠いところにいるので、一定の解説をああやってはさんでくれるのは大変ありがたかった。

全共闘や楯の会の生存者が出演して、当時を振り返るのも、じつに興味ぶかかった。
彼らが自らの無残な敗北をどう総括し、どのように世間にまぎれて生き恥をかいてきたかほどに面白いテーマはないだろう。
学生運動出身者はまともな就職ができず、「地方公務員になるか、大学に残るか、予備校講師になるか、マスコミに行くか」に相場が決まっていたと側聞していたが、本当にそういう感じでちらばっていて、そこからしてもう面白い。敗北についてインタビューを受けて、それぞれのスタンスで差異はありつつも、芥正彦も木村修も橋爪大三郎も頑なに敗北を認めないのは、NHKのドキュメンタリーで観たあさま山荘事件の犯人たちの今を思い出させる。彼らもまた、必ずしも自分たちは敗北したわけではないと盛んにうそぶいていた。
一方、楯の会のメンバーも、決起自体は失敗に終わったものの、現代にいたるまでの過程で、反共という理念自体は相応に満たされたということもあるのか、苦味の残る元全共闘の老人たちに比べると、歳の取り方がどこか鷹揚な感じがする。今も三島との楽しかった追憶のなかで生きている、そんな雰囲気である。

とにかく、顔だ。
顔に、その人の人生は刻印される。
どこかふやっとした若者時代の顔が、その人独自のなにかを宿した老齢者の顔に変化する。
それをこうやって、いくつも並べて見比べられるというのは、なかなかにない体験だ。
とくに芥正彦の顔は、彼自身が不屈の呪いによってつくりあげた奇相であり、やはり衝撃を受ける。
いやあ、やっぱり「人は見た目が9割」って、本当じゃないか。

ちなみに、ラストでうつった今の900番教室にも驚かされた。
きれいな机と機能的な椅子のならぶ、近代的な内装に様変わりしていたからだ。
私が在学していた30年前の900番教室は、まだ映画で出てくるままの古ぼけた講堂だった。教会建築のようなウッディな空間で、授業中以外はタバコも吸えた。すでに全共闘の気配などみじんもなく、そこは社会学者である見田宗介(真木悠介)のマスプロ授業の場として機能していた。この映画は「あれから50年」を謳っているが、20年しか経っていないあのころすでに、学生は大半がノンポリで、活動家はオウムや原理の連中とほぼ同一視されていた。

この映画に惹かれるのは、たった一世代前の同じ学生たちが、賢しげな言論で武装し、国家を相手取って血まみれで闘っていたという事態をとても信じられず、飲み込めないまま大人になった自分に、なにがしかの答え合わせを示してくれるからかもしれない。

あのとき、すでに全共闘の時代から、東大は変質し、学生気質もおおいに変わっていた。
それから30年。さらに大学は変わり、学生も変わったはずだ。
私の後ろで映画を観ていたのは、大半が20代とおぼしき若者たちだった。
彼らはいったい、この映画の三島と若者たちに、何を見出したのだろうか?

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じゃい

2.0これが伝説?ぬるい。

2020年12月24日
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これが伝説?ぬるい。

燦然と輝くスターと東大でも哲学に長けた子達のテレビ映えするジャレ合い。

結果残るのは難解な哲学論もリードし粋にいなす三島のカッコよさだけ。

これが流行った時代があったと知れば良く、
今をノンポリ腑抜けと卑下するなかれ。

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きねまっきい

5.0問いには答えが必須

2020年12月11日
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鑑賞方法:映画館

今年の第1トピックでした

皆さんのレビューが面白くて!
この「レビュー欄」は、三島が帰ったあとの興奮冷めやらぬ会場での “参加者たちのディスカッション”のようです。

映画館でぜひ観たいと念じつつも、折り悪く世の中はそのままコロナ閉館の時代に突入。
諦めていたら、なんと再開したシネコンで三島のドキュメンタリーは復活したのです。
この どマイナーな映画が(笑)コロナのおかげて足掛け4ヶ月のロングランとかあり得ないおまけでした。

今年の映画鑑賞の1st.トピックでした。

・・・・・・・・・・・・

900号教室に自分も座っている錯覚。そんな鑑賞でした。

討論会の軍配は、完全に三島に持っていかれてましたね。
あの頃、現役の売れっ子作家にしてファッションモデルでもあった三島は、学生たちの絶叫的アジテーションや文法無視・礼儀無用の粗野な質問に、微笑みを浮かべて温かく、そしてダンディーに答える。

質問下手の若造たちの問いをば、その言葉足らずを補い、瞬時にして連中のプライドを尊重しつつ真意を汲み取ってくれる。
おまけに彼らの緊張をやわらげてやろうとジョークを取り混ぜてもくれようというのだから。

セイガクよ、君たちは何を得意げになっているのだ?
三島の眼前で完敗の立場を悟っていたのはたった一人詰め襟くんだけではないか。

しかしそれにもかかわらず入れ替わり立ち替わり三島に突っかかってみせる若者たちの、三島の目を見ない質問。ああいう喧嘩腰の審問をやっていて若造たちは恥ずかしくならなかったのだろうか?

あの目は闘う前から怖じけ付く負け犬の目だ。
叩き台の本人三島由紀夫がここまで来てくれているのだから、三島に正対して話しかけるべきなのに。

その晩の電話で
「楯の会に入らないか」とまさかの本人に問われたときの詰め襟くんのうろたえが、このドキュメンタリーのクライマックスであったと思う。

自身の政治的姿勢への確証の無さを暴露してまでも、また天皇への信奉を文学者として言葉化出来ない力不足を告白してまでも、一人の人間三島由紀夫が裸になってくれた=咬ませ犬になってくれたあの場、あの真摯さに、うろたえたのは詰め襟くんだけか。

今回のロングラン上映を、彼らもどこかの映画館の薄暗がりできっと観ていたことだろう。
反抗期は終わったかい?
君たちは、“兄”が、“父”が欲しかったのだろう。

・・・・・・・・・・・・

映画の仕上げ方としては
惜しむらくは、900号教室の“アンチ三島の若造”たちだけでなく、楯の会の元メンバーたちが過去を振り返って、今現在あの時をどう総括しているのか、そこも是非、インタビューが見たかったな。

(あと、あの日加藤登紀子はどこに?⇒三島集会の前年にお登紀さんは卒業でした)。

法政大?の写真のみ、女子学生が二人写っていたが、参加者は男子学生ばかりだ。
見事に男だけの世界でした。

・・・・・・・・・・・・

「対話」はソクラテス以来学問の基本だ。
僕は進学先を最終的に決定するとき、対話を放棄して機動隊に学生を売った学校を選らばなかった。対話こそが核であったはずのその学校に失望して、大量の退学者が出た大学だ。

三島は、毒杯をあおったソクラテスに重なってしまって辛いけれど、逃げずに単身、若者たちの招きに応えた。

「もはや立ち去るべき時である。私は死ぬために、あなたたちは生きるために。だが、われわれのどちらがよりよいほうへと向かっているのかは神よりほかに誰にもわからない。」
(『ソクラテスの弁明』42A)

問いには答えが必須だ。
答える相手を失ったいま、
900号教室の残党がいまもこの社会で、あの日の体験を負ってきっと良い働きをしているのだろうと信じたい。

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きりん

3.5ゆとり世代の感想

2020年12月6日
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知的

難しい

三島作品は3作しか読んだことがなく、単純に興味本位で鑑賞。
いち作家という枠には収まりきらないその存在感と影響力を、映像としての三島由紀夫を通じて初めて目の当たりにできた気がする。

いわゆるインテリ達の紡ぎ出す言葉に、鑑賞中は理解が追い付かないことが多々あったが、
論破や打ち負かすことを目的としない三島の姿勢は、懐の深さというか、男としての器の大きさを感じたし、観ていて心地よかった。

そもそも当時の時代背景に対して理解が乏しい中での鑑賞だったが、
このご時世、矛先が曖昧な日本国に対する憂いである必要はないが、熱と敬意と言葉 を大切にしながら生きていきたいと思った。

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やんぬ

5.069年の「熱と敬意と言葉」に思う

2020年10月15日
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知的

難しい

二度目の鑑賞、やはり言葉の力は満ちていた。

昔と今、そこを比べ悲観することに慣れては駄目だろう。しかし、あの年代特有な語りの熱量、言葉の緊張感、タバコの煙で曇る講堂… 確かに“この時代が最後だった”と自覚するに足りる、尖った思考の渦で発せられる主張と同調に、やはり憧れを禁じ得ない自分がいた。TBSが保存する、この貴重な映像資料を観たことは何度もあった。しかし、改めて「新しきを知る」真相に満ちた本作は、当事者達の証言が単なる回想に非ず、眼の奥に鋭さも保った声の主が、未だ「三島の思想と言葉」に対し「反論・尊敬・格闘」を繰り返していただろう事を感じさせた。多感な時期に「国運と自身の運命は同様」な死生観を抱いた若者が、あの8.15を境に分離した感覚を、取り戻さんとする思想の納得も禁じ得ない。そして、あの場において高圧的な態度や、語気を荒げる事なく、“まぁ先ずよく聞いてやろう”な理解への心構えが、双方にあった点が見過ごせない。やはり、何処かで“共通の敵”を見出していた、それ故教壇での一服も微笑ましく映っていたのかもしれない。正に愉快な一時を観た。

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yutamuroki

4.5笑いあり、涙あり。

2020年9月17日
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色んな意味で、久しぶりにときめきました。

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Sato