三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のレビュー・感想・評価
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三島由紀夫本人が登場しているから迫力満点。 抽象的な議論に終始し、...
三島由紀夫本人が登場しているから迫力満点。
抽象的な議論に終始し、何を言っているのか理解できないことも多かったが、それでも当人間では議論が成立しているのがすごい。
三島がこれほどの武闘派だとは知らなかった。
三島由紀夫の全共闘との真摯なやりとりが感動的
三島は決して学生を馬鹿にしたような発言はしないし、学生から馬鹿にされたような発言があってもユーモアを交えて真面目に対応している。1970年の自決も真面目過ぎたのが原因だと思う。
芥氏は『全共闘は失敗しましたか?』と言う問いに『全共闘は自殺しなかった。』と嫌味を込めて言う。
『豊饒の海』と『金閣寺』を読んで、感動したので、この映画を見た。色々な三島研究はされているが、大体は『天才』とか『ナルシスト』とかと語られる。それを否定するつもりはないが、『ペシミストな性格』が第一義だと主張したい。また、理論武装しているが、難解な表現に換えているだけで、自分の考え(イデオロギー)に自信がなかったのではと感じる。それは、豊饒の海(遺作)が大長編な事と、それを書き上げた日に自決した事で強く感じる。映画の中でも、芥氏に完全にやり込められている。そして、肝心な事は、やり込められている自分に酔いしれているように見えた。だから、三島は、どうなるか分かって、この場に乗り込んだのだ。『豊饒の海』の最後もそんな感じを匂わせている。
『一つしかない時間を持ってくる者が一番危険。歴史だけでなく、権力という時間。』芥さんの言葉だけが、イデオロギー的には共感できる。
そして、芥氏は『全共闘は失敗しましたか?』と言う問いに『全共闘は自殺しなかった。』と嫌味を込めて言う。自分達が生きている限り、全共闘は死んでいないと言っているのだろう。
さて、『PLAN75』はこの世代を、『社会にとって邪魔だから消せ』と言っている。つまり、こう言った『歴史』を葬れ!と言うのと同じだと理解されたし。
既成概念に囚われずに、新しい物を作り出す事には賛成だが、方法論として、暴力は排除すべきだと思う。だから、金閣寺を燃やしてしまった事はやはり犯罪に当たると思う。それを題材にして書いた『金閣寺』の主題は美を破壊する事だと思う。それでは、三島由紀夫は何を破壊するつもりだったのか?彼は『新しく建てられた金閣寺』を破壊しようとしたのではと、僕は思った。その金閣の優美なきらめきを彼は醜く感じて、それをこの世から葬りたいと思った。そして、その金閣寺を炎上させて、一緒に自決するつもりだった。しかしはたと考え直し、そんな事しなくとも、自分が自決すれば、『日本の美しい宝』が消えてなくなると考えたのではないか。つまり、自決しても犯罪者にはなりたくなかった。
さて、
文学賞が取れなかった事に対してのヒガミはあったと思う。その復讐を、自分の身を炎上させて、とげることが出来た。芥氏の言うように『大願成就』だったのだろう。三島由紀夫は高みから『俺の本当の良さが分からないから、消えてなくなってやる、文学賞は俺以外取れまい』って言っている。小さい事だが、ナルシストの三島なら考えそうな事である。以上 全く僕の考えである。
三島由紀夫・・・生まれてくるのが早かったのか?遅かったのか?
今から52年前にこんな巨人(近代ゴリラ?)が生きていた。
天才小説家and天皇崇拝and右翼思想家
この映画はそんな三島由紀夫の素顔がありありと見える貴重な映画です。
2020年(日本)監督・豊島圭介・108分
1969年5月13日に東京大学駒場キャンパスの900番教室で行われた
作家・三島由紀夫と東大全共闘1000人との2時間半の伝説の討論会のドキュメンタリー。
三島由紀夫の1年半後の市ヶ谷クーデターにも触れ、
当時の全共闘の闘志の現在や、現代の識者(平野啓一郎他)の解説、フィルムを撮影して保管したTBCなどの証言も聞ける貴重な映画です。
だいたいに学生運動とはなんぞや。
ともかく若者たちが元気活発だった。
何千人ものデモ。
警察に火炎瓶や角材を持って立ち向かう。
その勇敢だったこと。
(就職に不利・・・とか、せっかく東大まで受かった息子の、この姿・・・親が泣く・・・)
そんな忖度は若者に無かった。
世を正すこと!!
官憲に立ち向かうこと!!
秩序を乱すこと!!
今の大人しい若者が見たら聞いたら、あまりの違いに腰を抜かすに違いない。
当時既に三島由紀夫はノーベル賞も狙える大作家で、プライベートで民兵組織「楯の会」を
主催する武闘派でもあった。
そんな三島由紀夫が単身、東大駒場キャンパスで1000人の東大生と堂々と渡り合う
大討論会だ。
会のポスターには三島の似顔絵の下に「近代ゴリラ」の文字。
そして飼育料100円と会費のことを書いている。
三島は終始冷静にしてにこやか。
相手の話を決してさえぎらずに最後まで聞く態度は素晴らしい。
東大の論客は芥という名の闘志が、女の赤ん坊を背負って登壇していた。
小難しい話をする男で、私には殆ど意味不明だった。
彼の抽象論に業を煮やした学生の一人が、
「今日は三島由紀夫をぶん殴る会だと聞きて来たんだ」と登壇するが、
これもことなきを終え、三島由紀夫が論破され顔色を失うシーンは、
残念ながらなかった。
「君らが一言、天皇と言えば、喜んで手を繋ぐのに・・」
と、ラブコールをしたり、ポロリと、
「革命で人を殺して、お巡りさんに追いかけられたら、その時は自害する」
などの意味深発言もあった。
1969年前後は「世界革命の年」だった。
ベトナム戦争
フランスの5月革命
プラハの春の終焉
歴史との距離感が今とは違うのだ。
他人事ではなくて、自分ごと。
世界の歴史を肌で感じるそんな時代だった
ガチで討論する三島由紀夫と東大全共闘。
そんな熱かった時代が懐かしい。
「学生運動」で日本は変わったか?
少なくとも学生運動活動家の意思は様々な業種に浸透して変容して根付いている。
そんな圧倒的な熱量だった。
過去鑑賞
天皇も東大も
まやかしで作り上げられ練り上げられた言葉の呪詛のようなものである。という事を長時間に渡り表した作品。
三島の嘘をつけない魂の清々しさと、こねくり回し独りよがりな思想を展開する全共闘の対話が
後に三島の自決で本質としての違いを露呈した。と言うのが事実だと僕は思う。
なぜ、全共闘の自決はなく、三島の自決で終わったのか?本当に問い詰めるべき事柄ここに集約されているよ。
と見た感想として残したい◎
言葉というものの重みを感じる作品
面白い。観てよかった。
話を聞いていて、本当に頭がいい人だと感じる人はごくわずかだけれど、三島由紀夫はその稀有な人物。
地頭がいいと言った方が適当だろうか。
学歴がある、勉強ができるといわれる人の中には知識ばかりで物事を表層的にしか理解できない人も多いが、三島は本質を理解し昇華できる人だと思う。
だから言葉のひとつひとつが深く重みのあるものだと感じた。
彼の作品をしっかり読みたくなった。
この熱はすごい
日本の平和ボケにより、この討論が伝説になっているのが、いいのか残念なのか、正直わからない。
世界同時に改革の時代だったというから、腑に落ちる。
あれから50年が経っている今、日本にはそのパワーはない代わりに、目に見える内乱もなく、いまだ平和ボケなのかもしれない。
「熱と敬意と言葉」とナレーターが発していたが、暴力ではなく、言葉しかないんだろう。
第3次世界大戦を回避するためには、武力ではなく言葉、という気持ちが世界中に伝わって、首謀者と側近の行動を変えて欲しい。
禅問答
尊敬する高校時代の恩師が三島由紀夫を研究し、著書を頂いたのだけれど、読んでも頭に入ってこないので、映像なら理解が深まるかな~と思いDVDを借りて観た。
東大の学生と三島の討論は、私などには全くの禅問答で、それは理解できなかったけれど、その時代の「熱情」はヒシヒシ伝わってきた。
三島と学生の語り合いは暴力的ではなく、互いに落ち着いていたことに、知性を感じたかな~
知性主義ではなく。
全共闘って反体制の左翼だと思ってきたけれど、ひとくくりに左翼でかたずけられるものではないことがわかって良かった。
当時の熱い国への思いは、現代を生きる私たちにはないもので、すっかり古びてしまった感じだけれど、学生運動の「熱さ」は、ある意味素晴らしいのかもしれない。
やはり解説付きの映像はわかり易い。
これで現状積読状態の先生の著書に再び光がはいりそうだ。
確かに「熱い」
三島由紀夫と東大全共闘との戦い。
僕が、10歳の時に、三島が自殺したと
なんか怖い!くらいでした。小説も、潮騒、午後の帰航とか知らない。話は、壮絶なをイメージしたが、議論を繰り返し、学生もさすが、知性ある東大生らしく、三島と語り合う。赤ちゃんまで登場するなどユーモアもある。途中、野次もあり「出てこい」と言われると出てきて意見を言う。今の匿名スタイルとは違う。
しかし、昔だな、タバコ吸い好き!
生々しい臨場感
単身で全共闘の学生1,000人の討論を受けて立つ三島由紀夫も凄ければ、芥正彦を中心に三島と対等に論を交わす学生も凄い。今では想像できない時代が、日本が、50年前に確かに存在したという事実。
圧倒的熱量の行先
内容。1969.5.13東大駒場キャンパス900番教室で行われた三島由紀夫と東大全共闘の討論会と残された関係者による事件後50年目の真実。三島由紀夫にスポットライトを当てた作品だがメディアの隆盛時期に反米愛国運動の本質に迫る熱量の強すぎる和解とアンビバレントな決裂。オープンエンドな妥協点が良かった。強すぎる経験は、呪いと同じで三島由紀夫自身も戦争に対し呪われたし、呪われた三島由紀夫に関係した人も一生忘れることは出来ない連鎖の時代だったんだなと感じた。しかし紳士的で誠実な三島由紀夫には好感が持てた。事実は小説よりきなりでした。
知性を伴う言葉
実に見応えのある討論であった。
正直、☆など付けれない。
ただ、終幕において制作者が用意した言葉には、価値観が反映されるので納得しなくてもいいと思う。
ドキュメンタリーとしては、大きなお世話と思えてしまう。
現代においての討論が、いかに稚拙であり、知識はあっても知性の欠片もなく、討論ですらないと思えた。
作中、芥氏が「言葉が力を持っていた最後の時代」と述べている。正にそうであったのだろうと思える。
右と左。
正直、よく理解はしていない。
情報としては相反し敵対しているって事くらいだ。
双方の思想が真逆の立場。
相対したら戦争にしかならない状態なのだと思う。
だが、どうだ?
小難しい単語や聞いた事もない単語が飛び交うにも関わらず、双方の主張は驚く程理解できる。
革命を目指した者と、改革を目指した者、なのだろうか。根源は同じで、やり方が違う。
どちらも「今のままではダメ」なのだ。
そんな風に思える。
作中、三島氏に煙草に火をつけてやる芥氏が印象的だった。
ぶん殴ると壇上に上がってきた人物と三島氏の間に立ち塞がってるように見える芥氏が印象的だった。
赤子を連れてきた芥氏、あれは一つの緩衝材としての役割を担わせる為の意図だったのだろうか?
だとするなら、彼はとても聡明な方だと思う。敵陣に単身乗り込んでくる三島氏に、議論の場を提供する為に「赤ちゃん」というツールを用い、場を整えたのだから。正々堂々、迎え撃つ気構えに一切の澱み無しなのだ。
敵意しかない発言に、一切憤る事もなく、場合によっては笑みすら浮かべ、淀む事なく喋る三島氏が印象的だった。それは嘲笑や苦笑ではなく、心底楽しんでるように見えた。今後の日本を担う若者達と、時流の先鋒に立ち議論している栄誉を実感してたのだろうか。
「暴力を否定した事などないと」三島氏は言う。
なぜならば、どういう状態であるにせよ、他者を自己の思うように変革してしまう事は「暴力」と呼ばれるものなのだからと。それ程に根深く広義なのだと聞こえてきていて、それは肉体的な痛覚に訴えるものだけを指す単語ではないと。だから否定など出来るわけがないと。
一般的にイメージする「暴力」と三島氏の「暴力」とは本質的に違うのだ。
しかも、コミュニケーションにおいて、相手を他者として認めるからこそ起こる行動なのだ、と。
勿論、そこには一方向のベクトルだけがあるわけではなく、双方向のベクトルが生じてこそなのだけれど。
だから、彼は、いや、彼らは、議論を交わす相手と認め合い、言葉を交わす。言葉を用い殴り合う。
自らと同じ目線、同じ人間。
生きている人格として相対する。
お互い認め合うからこそ討論も成立するのだ、と。
第三者からの意見として平野氏は「言葉は不可欠なんだ」と説いていた。
解放区の話であったのだけれど、いわゆる個人の内的な思想がどれ程有用で有益であったとしても、言葉によって伝播しなければ認知も共感もされないって事なのだろうか。
芥氏は解放区の事を「原初の形」と言ってたように思う。事物に囚われず人が人として解放される空間であるというような事だったと思う。
その解放区を広げる事が、闘争の目的とは言ってはいなかったように思うけど、目標なり指標ではあったのだろうと思う。その空間は持続しなくても良いのか?と三島氏は問う。
三島氏は三島氏で、その解放されたと意味づけされている空間ではなく、その精神性には同意しているようでもあった。
なにせ、現代とは全く異なる国に思える。
現代は、社会的に平和な状態ではあるのだろう。
だが、それが個人的な平穏に直結してるようには思えない現代ではある。
政治は国民の手を離れてる。
選挙や民主主義など、絵に描いた餅のようだ。
国家の暴力によって、支配されてるのだと思う。
個人は無力で組織は強力だ。
ヒエラルキーは大手を振って君臨している。
多数決の論理に迎合するのは簡単で安全だ。
思考を止めればいい。
そんな事の積み重ねが「無気力」を産むのだろう。
何もやらない内から「何をやっても変わらない」と諦める。誰かの闘争を自分に転嫁する。
権力と体制に押し潰されて、いや、隷属しているのが今の日本人なのだろう。
それでも、表面的には平和だ。
思想…この場合は自身の主張を訴える言葉は無力でも。いや、それこそ主張なんて主張はそもそも無くて、だからこそ言葉に力を込められないのかもしれない。
表層的な美辞麗句に終始する。
「コロナ終息」を掲げる選挙ポスター。
随分と国民はバカにされてるのだなぁと思う。
そんな戯言で釣れると思われてるのだろうな。
敗北を総括するにあたり「敗北が運命であったして、その敗北を経てどう変化していくのか、その先を生きてこそ、それが敗北であったかどうかを総括すべき」というような言葉があった。
ニュアンスは違うのかもしれないけれど。
耳に残り、心に響く。
一応の結末は、真のエンディングではないのだ。
知性を伴う言葉に力があった時代。
おそらく今は理不尽な暴力が蔓延し、それを暴力と思えないように洗脳されてる状態なのだろうと思う。
言葉を交わす。
その単純にして絶大な影響力を忘れてはならない。
「言霊」なんて表現が妥当かどうかはわからないが、投げかける言葉、投げかけられた言葉は共有も共鳴もする事は確かだと思う。
事実、僕らは親やメディアを含む他者から投げかけられた言葉により人格を形成し今に至るのだから。
これは必要な映画ではある
三島由紀夫が残した叫びを、いま鮮明に残しておく
こういったものは必要なのではないでしょうか?
映画として、よくある証言者と当時の映像を振り返る
というだけの 何の外連味もないモノではあるが
当時、革新的な子供を抱きながらも堂々と三島とやりあった
芥氏が、いまもキチンと老害ヨロシク狂っているのが最高だった。
全共闘のメンバーは、紛れもなく東大生だったわけで
いまのテレビ画面で弄ばれる東大生とは
全くの異質の存在なのが感慨深い。
それは、全国どこの学生や社会人もかつての世代とは違うわけだけど
やはりモノを考える必要は常にあると思われる。
何歳になっても勉強しなくちゃいけない。
そう思わされる。
ちなみに監督の豊島圭介は豊饒の海を読んでないのか
と、芥氏に怒られたらしい。 そら、怒るか。
でも、良いモノ作ってくれて監督さん、ありがとう。
三島由紀夫の優しさは伝わりました
天才作家がこれほどまでに誠実で優しい人物だとは思わなかった。
しかしながら、ただただ芥というプライドが肥大した高慢ちきな人物が不愉快すぎる。
70過ぎた老人になっても、ただの芸術家気取りの偏屈な人物。
この人物が無駄すぎて、低評価。
6歳で安田講堂事件をテレビで見て、いつか自分も、とぼんやり思った変な子でした
三島は、天皇という一神教を信じ、全共闘が社会主義革命という一神教を信じていると受け止め、一神教信者というメンタリティーにおいて共闘できると信じ込み、アメリカ的価値の堕落という共通の敵と戦おうと勧誘に出向いた、という事なのでしょうか。
東大生と三島の抽象概念のキャッチボール、すごいね、頭いいとはこういう事なんだろうね、などと感心しながら見ていましたが、同時に、ただ言葉の粉飾にすぎないような気もして、本質を見極める力とは別物のような気がしないでもなかった。だから、巷のおばあちゃんなんかが、ぼそりと言う真実に打ちのめされたりすることがあるような。
三島は、割腹自殺という形で一神教に殉じた。しかし、全共闘は果たして本当に一神教信者だったのか。もともと多神教だったのか、あるいは改宗したのか。ただ、あの時代において、まじめに、かつ愚かに、そして熱く対峙する姿は、一回りほど下の私にとって限りなくまぶしい輝きを放つものでした。
全共闘は何を残したのか
アマゾンプライムで観賞。
三島由紀夫は終始紳士的で相手を攻撃はしない。むしろ相手の主張をしっかりと聞きその上で自分の思想を語る。対して東大全共闘は三島由紀夫の主張の矛盾や上げ足を取るようなことばかり突いてくる。これがまるで大人と子供の喧嘩のようにも見える。学生たちは大人を言いくるめようとするのに必死すぎでそれが目的になってしまっているようだ。
当時の若者はエネルギーを持て余しているためかこんなことをしていた。でも実際はそこに確固たる信念は存在しなかったんじゃないかな。だから内ゲバで自滅したんだと思う。東大全共闘は一体この日本に何を残したんだろう。三島由紀夫は一体何と戦っていたんだろう。
1960年代後半の学生運動全盛期の時代背景が分かる映画!
ドキュメンタリーの前半で、当時の時代背景を説明してくれます。東大全共闘を始めとして、日本各地で、学生運動が起こっていた様子が伝わり、今の日本では考えられない様子だと思いました。
その中で三島由紀夫が、東大駒場キャンパスの討論会に出るという、当時の貴重な映像も見ることができるドキュメンタリーです。正直、三島由紀夫や東大の学生が議論で話す内容は、難しい内容も多く、ついていけない部分もありました。それでも、三島由紀夫の思想の一端が分かる映画だと思います。戦後の日本の歴史の中で、その時代を知る意味でも、時代背景や三島由紀夫の思想の一端を知ることができる映画だと思いました。
あの東大駒場キャンパスの討論会の会場の「熱量」は確かにすごかったと感じましたし、「言霊」の力を信じようとして、討論に臨んだ様子が映画から伝わりました。
熱と敬意と言葉と。 その頃のことを全く知らない世代で、自分達が何か...
熱と敬意と言葉と。
その頃のことを全く知らない世代で、自分達が何か行動を起こしたとして世間や政治や何かを変えることなんて出来やしないと思っているし、そもそもそんな真剣に世界のことも自分のことも考えていないと思っている。そんな私からするとこうも変革に向かって突き進んでいこうとする情熱は羨ましいとすら思う。
三島の本もほぼ読んだことないし、断片的にしか知らなかったけど、なんか一気に実在したんだ、という存在感をリアルに感じられた。
ちょっと前までは本当にこんな一人間が何かを思っていたとしても変化は起こせないと思っていたけど、最近はSNSがきっかけで少しずつでも声が届いたりするシーンも見たりする。案外まだこの時代も捨てたものじゃないのかも、まだ真剣に世の中を変えようと考えてくれる人がいて力もあるのかも。そしてその動きの根底には熱と敬意と言葉があって、それってこの全く知らない時代と共通しているんだと知った。
分かり合えなくても、頭ごなしに否定するんじゃなくてまずは熱と敬意と言葉でもって対話して知ろうとする。知ってもらおうとする。そばにいる人との関係においても、大切なことを学んだ。
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