「【曖昧な境界】」トルーマン・カポーティ 真実のテープ ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
【曖昧な境界】
トルーマン・カポーティは、小説と現実のはざま、現実と虚構のはざまを生きたのだと思う。
これらの間を行ったり来たりしながら生きたのだ。
作中に取り上げられる、「遠い声 遠い部屋」は自伝的な小説とされるが、アメリカ的伝統文化の色濃く残る南部で生まれ、しかし、父親の不在、小柄、女の子の様な声、ゲイといった要素は、自分が周囲とは異なる存在であることを意識させ、孤独を助長し、そして、退廃的なものに惹かれる傾向をを強めたのではないのか。
そして、これらが合わさって、自分の育った背景とは全く異なるニューヨークのハイソサイエティを目指すモチベーションとなったのではないのか。
日本では、多くの人が、「ティファニーで朝食を」で、トルーマン・カポーティの名前を知ることになったのではないか思うが、田舎から出てきたホリーが、ニューヨークの社交界を目指すストーリーだ。
そして「冷血」。
複数のアカデミー賞候補に上った「カポーティ」では、殺人犯に友情を覚えるよになるストーリーだったが、この「トルーマン・カポーティ 真実のテープ」を観ると、改めて友情ではなく、ゲイとしての好意だったことを意識させられる。
小説「ティファニーで朝食を」には語り手がいて一定の距離感がある。
「冷血」はノンフィクションだが、客観的とは言い切れず、この事件との、そして犯人との距離感は近い。
更に、実際にゲイとしての好意を抱きながらも、小説との整合性を図るかのように、トルーマン・カポーティが犯人の早期の死刑執行を望んできたことが、この作品では語られる。
この微妙な距離感と、バランスともつかない立ち位置がトルーマン・カポーティの特徴ではないのか。
小説と現実、現実と虚構のはざまに存在する曖昧な場所。
父親の不在。
孤独。
南部出身なのにマッチョではなく小柄なうえ、女性の様な声・話し方。
ゲイ。
自分はどこにも属さない、不完全なもののように常に感じていたのではないか。
それは、社交界で脚光を浴びようと変わるものではない。
なぜなら社交界自体が、実は、現実だからだ。
そして、それはより退廃的なものへと彼を向かわせ、半ば憧れを抱いていたハイソサイエティの内幕を明らかにする小説の創作へと向かわせ、更に自分自身の内面をアルコールやドラッグで曖昧なものにしていったのではないのか。
トルーマン・カポーティは多作ではない。
だが、記憶にも記録にも残り続ける小説家のように思う。
それに、僕達も、曖昧な距離感にいることはないのかと改めて考えてみる。
よく考えたら、あるだろう。
ある、きっとある。
カポーティのような考えが、少し頭をもたげるようなことが。