ロニートとエスティ 彼女たちの選択のレビュー・感想・評価
全12件を表示
誰もお悔やみを言わない距離感
ロニートの父親はラビ。このコミュニティで最も影響力のある人物だ。
その彼が亡くなり娘であるロニートが数年ぶりにコミュニティに戻ってくるのだが、コミュニティの人々のロニートに対する反応が面白い。
ロニートは同性愛者である。ユダヤのおきてでは許されない。許されない人物が最も影響力のあるラビの娘というのは都合が悪いのだろう。だから、娘ではない単なる顔見知り程度の扱いをするのだ。
誰も、お父さんが亡くなって残念ね。などとは言わない。一般の弔問客に対するようなよそよそしさだ。
かと言って、あんたなんかここへ来るな。なんてことも言わない。過剰に排斥するようなこともしないのだ。
このなんとも言えない微妙な距離感が面白いのだ。
そして、もう一つ面白いと思ったこととして、ロニートとエスティの過去の関係をコミュニティの人々が知っていたことだ。
夜、暗がりでエスティと二人でいるところを目撃され、さっきのはエスティ?と尋ねられる。ロニートとエスティは幼なじみなのだから仮に二人が一緒にいたとしも大した問題ではないはずだ。しかしそれが問題になる。
つまり、過去にロニートとエスティが恋人同士であったことが知れ渡っていたことを意味する。
コミュニティの人々は、ロニートの父であったラビも含めて、コミュニティのおきては守らせたい。しかし守れない人間をどうしたらいいのか分からないのだ。
ユダヤ教徒であることのハードルはなかなか高い。まずユダヤ人でなければならない。だからこそ異教徒という考え方がない。つまりユダヤ教徒ではない者を排斥しようとしない。布教もしない。
逆に言えば、ユダヤ人ならば敬虔なユダヤ教徒だと考えるのだ。
昔からある宗教はどれも、現代的価値観に沿ったアップデートが必要な時期にきていると思う。
しかし、ただの人が神のおしえを変えられるわけがない信仰のもどかしさがある。
刺激的な物語ではなかったけれど、絶妙に噛み合わない温度差が興味深い良作だった。
典型的なカースト最上位のチアリーダー、役のほとんどがイケてる女だったレイチェル・マクアダムスが、おとなし目のユダヤ人役だったというのも興味深い。
てっきり…
NYで一緒に暮らすと思ったし、そうであってほしかった。ドヴィッドは器が大きい。自分の元を離れることを覚悟の上、ラストにエステーに自由と告げた。厳格なユダヤ教のコミュニティで子供の頃から育ったエステーは自分の気持ちを抑圧しながら生きてきた。その生活が我慢ならず街を出たロニー。二人の女性同士が愛し合うなど以ての外。わかるけど、相手が女性とはいえ浮気。ドヴィッドが不憫だが。。生まれてくる子供に信教の自由を与えることを認め、今後の二人はどうするのだろう。元鞘に収まるのだろうか。そうであれば、結局三人共がすっきりしない気がする。父ラビも死ぬ間際に選択と自由を口にしたのは娘ロニーを認めていたのかもしれない。
2人のレイチェル
厳格すぎるユダヤ・コミュニティ。ラビである父が亡くなった報せを聞き、突如NYからイギリスへと戻ってきたカメラマンのロニート。ラビ・クルシュカには子どもがいないと報じている新聞もあるが、驚きもあるが、自身が逃げ出したこともあり、妙に納得するロニート。彼女はエスティとレズビアンの関係だったことを父に見つかった経緯があったのだ。
LGBTに不寛容な超正統派ユダヤ・コミュニティ。当然レズは禁止、結婚したら異性に触れることも禁止、外出するときはカツラ着用、ちなみに自慰行為も禁止、外から見たら相当息苦しい世界だ。男は幼少期に割礼。色んな映画にその割礼ネタがあったりする。
「今でも女しか愛せないの?」「うん」。この時のレイチェル・マクアダムスの表情が素晴らしくて、うっとりしてしまう。コミュニティに生きていかねばならないから、親友であるドヴィッドと結婚したエスティ。そして、ロニートとともに愛し合った過去を思い出す・・・
一緒にNYへ逃げる?とも想像するが、そこはそれで宗教的背景と、これまで生きてきた過去もあり、簡単にはいかない。それでも夫のドヴィッドの「自由だ」という答えを導き出すのだった。選択の自由。単にどこへでも行けという意味ではない。自由という不文律さえあれば精神的自由が得られる。このまま夫婦生活を続けるのだって自由なのだから。
ロニートも父の死を知らせてくれたのがエスティだけだったことに憤慨。このまま彼女がいなかったことにしようとしている周囲の人たち。それでもロニートは諦め顔。NYでの生活が彼女を強くしたのだろうか。ちなみに男性とのセックス描写カットが数秒あるし、「金曜日にセックスして土曜は安息日?」という皮肉めいた台詞もある。
冒頭の入れ墨だらけの老人を撮るロニート。ユダヤ教ではタトゥも禁止。どことなく、自由を勝ち得たユダヤ老人といった印象が残った。上手く対比させていたように思います。そして、告別式での周囲の視線がとてもえげつなかった。「何しにきたの?いまさら」顔だ。村八分という言葉も思い出したのですが、村八分だって葬式には寛容です・・・
女性同士の恋愛映画の斜め上をいく人間ドラマ
米国ニューヨークで写真家として活躍するロニート(レイチェル・ワイズ)。
彼女のもとに父の死の知らせが届く。
彼女の父親は英国ロンドンの厳格なユダヤ教のラビで、奔放だったロニートは若い時分のあることが契機で家を飛び出したのだった。
久しぶりに帰郷した彼女をこころよく迎えてくれることはなく、幼馴染で父の一番弟子ドヴィッド(アレッサンドロ・ニヴォラ)夫妻の家に泊めてもらうことになったが、彼の妻エスティ(レイチェル・マクアダムス)はロニートの幼馴染で、そして若い時分の禁断の恋の相手だった・・・
といったところからはじまる物語だが、ロニートとエスティの仲、過去のことが明かされるのは映画の中盤あたりなので、ポスターデザインなどは早々のネタバレ感があります。
厳格な宗教コミュニティのなかでの許されざる恋・・・というと、なんだか恋愛メロドラマのようだけれど、メロドラマ感はあまりなく、異なるふたりの女性を掘り下げていて、見応えがあります。
厳格なラビの娘ロニートは、自由奔放で、恋愛についても自由。
女性オンリーというわけではなく、ニューヨークでは行きずりの男性と行きずりの行為などもする。
自由であるが、ある種の無責任さも感じられます。
一方、エスティは、心底から愛するのは女性だけで、かつても現在も、やはり、ロニートのことが忘れられない。
毎週金曜日の夫との行為も、宗教上の務めとして、果たしているにすぎず、再会によって、くすぶっていたロニートへの愛情が激しく燃え上がってしまう。
けれども、現実的で、いま暮らしているコミュニティを離れることは出来ない。
ジレンマを抱えている。
ふたりの女性は、恋愛と社会という、いずれも人間界のなかで揺れ動いているわけだが、エスティの夫ドヴィッドが揺れ動くのは、宗教と人間という世界のなかで揺れ動いており、この揺れ動きが「彼女たちの選択」に大きく寄与する。
厳格なラビの後継者である彼は、立場上、厳格な戒律を守ることが最重要であるだろうけれど、最後には亡師の最期の言葉から、彼女たちに「自由の選択」を認めることになる。
個人的には、この終盤、かなりズッシリと来ました。
ロニートとエスティ、ふたりで自由世界米国へ・・・という安易な結末にはならない。
ドヴィッドの子を妊娠しているエスティは、コミュニティに残ることを決意するが、ドヴィッドとは離婚をする(描かれていないが、夫とベッドを共にせず一夜を過ごした描写から、そのように読み取れる)。
コミュニティで暮らしていけるかどうかはわからないが、心の自由は得た。
コミュニティを出て、英国で暮らすことも可能だろう。
一方のロニートは、米国に戻る。
一度はエスティに、ともに米国に行こう、とはいうものの、ロニートにそんなことができるかどうか・・・やはり荷が重いことは確かだ。
けれど、ひとつ得たものはあり、父親の内にも「自由の選択」を受容する心があったかもしれない、否定し続けていた血脈については、父だけではなく母の血も流れていること、父と母の両方を総て否定することはできないこと。
奔放=自由だけではない。
自分のアイデンティティを受け容れたロニート(母親の唯一の形見である金属製の花瓶のようなものを旅行鞄に押し込む描写から読み取れる)は、英国を離れる直前に、父親の墓地の写真を撮る。
否定し続けてきたアイデンティティを受け容れ、父を受け容れた・・・
ベタな女性同士の恋愛映画と思われたが、もう一段上にあがったようなヒューマンドラマでした。
揺れる。燭台の炎も人の心も。
ユダヤ人は子供の頃は集団で過ごすと聞いたことがある。
エスティ、ロニート、ドヴィッドの三人は幼なじみ。ただ、神父のひとり娘のロニートは自由人で、他の二人とはちょっと立ち位置が違う。
冒頭、NYで父親の死を知らされたロニートが半ばヤケぎみに公共のトイレのなかで、男性と交わるシーンがある。バイセクシャルなんだとここで理解した。エスティは基本レズビアンだが、ロニートが突然村を去ってしまったので、精神的に不安定になり、心の穴を埋めるためもあり、幼なじみの聖職に就くドヴィッドと結婚した。
ドヴィッドはロニートの父親の神父に付いて宣教活動に精進するまじめな男。
ロニートに父親の突然の死を知らせたのは、だが、エスティだったと、観客もドヴィツドもあとから知ることになる。
ひとり帰って来たロニートを見かけた村人は冷ややかな反応。ドヴィツドはロニートとエスティを再会させたくなかったが、来てしまった以上、仕方なく、ロニートにホテルがわりに泊まることを勧めてしまう。心根がうんと優しいのだ。
ロニートの実家に一緒に行くエスティ。
ロニートは父親の遺品を整理して、家は売り払うと宣言。ユダヤ教徒は代々燭台を受け継ぐ習わしがあるらしい。エスティがロニートの見ていないところで、実家の燭台を自分の大きなキャリーバックのなかに入れるシーンは、燭台を隠したら、ロニートは暫くニューヨークに帰らないで自分の傍にいてくれるだろうと願ってとった行動だと思った。
最後のほうで、ニューヨークに旅立つロニートがホテルの部屋で荷造りをする場面がある。最後にひとりで燭台をボストンバックにしまうのだ。あぁ、エスティはロニートに燭台を泣く泣く渡したんだなと思った。
エスティの妊娠発覚は三人の心を激しく揺さぶる。どうなるのか?エスティとロニートが手に手をとって、ニューヨークに行くのか?二人で子育てか?それではドヴィツドがあまりに不憫ではないか(男目線)❗
舵を握っているのはロニートなのか、やっぱり。
ドヴィツドは前神父の葬儀をとり行い、みずからが教会の神父を引き継ぐ式典を前にして、千々に心が乱れてしまう。自信を失い、神父になるには修行がまだまだ足りないと、降りてしまうのだ。
違うよ❗足りないのは修行じゃなくて、女性経験だよと言ってあげたくなる。かわいそうなドヴィツド❗
しかし、エスティはロニートとニューヨークには行かず、そこで結婚生活を続けることを決断する。
見ているこちらもあっちにこっちに引っ張られたり、戻されたりして、主人公たちと一緒に動揺する疑似体験をする。
どちらにしてもドヴィツドはかわいそうな気がする。神が与えて下さった試練だと思って、聖職を全うせんと生きてゆくのか?
ユダヤ教の燭台は非常に特徴があるが、一対の普通の燭台だった。物語に普遍性を持たせる意図を強く感じた。
追記
私は記憶に自信がめっぽうないので、違うよと思われたら、コメントしてくださいm(._.)m
主演女優ふたりのPV
とても美しい映画です。息詰まるような冬の街を背景にし、硬質な映像と淡々とした劇伴がレイチェル・ワイズとレイチェル・マクアダムスの美しさを引き立てていました。濡れ場も非常に大胆かつ情熱的だったと思います。
ですが、それだけでした。30分で終わりそうな内容を2時間に引き伸ばしたPVのような映画だと感じました。
慣習で雁字搦め、隣人たちには自分たちの生活が筒抜けの狭いコミュニティのなかで自由に生きるのはLGBTでなくても息がつまることでしょうね。それは理解できます。
ただ、この物語はロニートの父が亡くなるところから始まり、それ以前にロニートとエスティに何があったのかは多くは語られません。ふたりの愛が燃え上がるシーンは少々置いてけぼりでした。どうしてもキャラクターの動かし方が唐突なように感じてしまいました。
この映画で私がもっとも印象に残った人物は、エスティの夫、ドヴィッドでした。ロニート・エスティと親友同士でありエスティの夫、そして愛し合う二人とエスティが自由になるための障害の一つとして描かれるキャラクターですが、彼は非常に道徳的な人物です。結婚という契約を交わしているにも関わらず身勝手な行動を繰り返すエスティを深く愛しており、決して手をあげることもなく、最終的には彼女の自由を後押しします。
彼は決してLGBT映画に頻繁に登場する「多様性に対して無理解なヘテロセクシャル」的キャラクタではないように思います。自由になりたいというエスティの思いも、実際にコミュニティを抜け出したロニートの思いも理解できますが、だからといって「コミュニティで生きていく」ことを選択したドヴィッドに不義理をはたらいていい理由にはならないでしょう。はっきりいって、現在のエスティを見て「世界一のお母さんになる」なんてとても思えませんでした。自由とか自立といったモノが、こんな風に逃げているだけで得られていいのかと非常にモヤモヤしました。
映像自体は美しいけれど、感性が私には合わない。そんな映画でした。
何がそんなに?何でそんなに?
何がそんなに?
何でそんなに?
エロいのか?
そんじょそこらのAVよりエロいです。
ふたりのレイチェルはスッビンだし、
華美な下着でもないし。
やっぱり、背徳感かしら?
えっちでした
濡れ場がだいぶ長く濃かったのでちょっとびっくりしました。これでPG-12なんだ。
ラストがとても好み分かれるだろうなと思いましたが、やっぱりそんな感じっぽいです。
ドヴィッドは最後エスティが自由であると話しますが、結局エスティはロニートと共にNYには行かず、ドヴィッドと共にコミュニティの中に残ることを決めました。てっきり一緒にNY行くのかと思ったんですが、話を振り返ってみると終始エスティは「敬虔な信者」と自分で語っているので、ロニートといる自分ではなく、ユダヤ教徒のエスティであることを選んだのかな。
ユダヤ教の知識が全く無いため、ところどころわからない点があったので観終わってからググったりしたんですが、Wikiだと『女性の同性愛は戒律を破らない。』とあって、宗派によって違うのかなとなりました。中絶についても一応初期であれば一定の理解は示すと書いてあったので、やろうと思えばロニートと二人で生きていくのはできないこともない感じだったんでしょうかね。
めちゃめちゃいい感じだった!最後のシーンまでは…
まず、ロニートとエスティそれぞれのキャラが最高すぎた。
わたし的にはパーフェクト。堪らん関係だったしね。
ロニートの孤独を抱えながらも街に帰る感じとか、それでも強くNYで生きてきた感じとか、エスティが必死にそれを支えようとしながら自分の本心は隠し続けている感じとか。エスティさ、お父さんの訃報伝えてあげたの隠してたり、帰り送ってあげてって自分では行かなかったりもう堪らなくないですか???
久々にあったふたりがお互いを支え合うように精神的に繋がっていたのがよかったですな。
正直、ロニートは優柔不断すぎんか?あそこまで行くと、もはや真意がわからん…
言うの遅すぎでしょ!エスティは絶対あなたの言葉を待ってたのに。まあそれが父親の呪縛ってことですかね。
男だけは不憫で仕方ないが、正直当時から2人の関係しってたんなら、なんとかしたれ。結局男は自分の本能を優先していたのかね。そして、最後はそんな自分と信仰との差に絶望していくと言う…なんとも可哀想な…
そして最後、え!?ロニートひとりで帰るん??エスティ置いていくん!?地獄やん!?と思ってしまったけど、あれはどういうこと?後ほど行くってこと?子供は地元で産むの?わからんかったです。
それにしてもふたり共めっちゃ美しかったですな。食事会の時見つめ合うのとか最高でした。レイチェルワイズ、結構なお年なので正直残念な姿は見たくないなと思ってたんだけど、本当に土下座します。無茶クソかっこよかった。一挙手一投足がもうかっこよさとかしなやかさ強さに溢れてて、そりゃレズ役くるよな…と思わせる感じした。ただ、空港行ったり帰ったりするから、本心わからんし、ちゃんとしろよって思った。
好きなシーンは、フェンスでの秘密のキス。秘密の関係って燃えますよねえ。あと、ふたりが離れてからの今までを確認し合うシーン。他の女を好きになった?とか確認する感じ可愛すぎないすか??脚本家天才???
個人的にはキャロルより好きな作品。2人に感情移入できるから、興奮出来るし、自分の生き方も考えさせられる。
そしてこういう同性愛映画がもっと普遍的になって、当たり前のように常日頃から観られるようになりますように。
あとふたりの感じが好きすぎてずっとみていたかったので、ドラマ化希望。
ひたすら美しい二人
化粧ど素人の私には、眉毛を整えてる以外何も手を入れていないのでは?と思うほどスッピンにしか見えなかった二人のレイチェルの美しさに、ただただため息をつくばかりです。
禁断の恋の魔力に抗えない恋人たちが、遂に精神的自由を勝ち取る。
たぶんストーリーはそれだけです。なのに全然飽きることなくスクリーンに釘付けとなります。
絵画や彫刻の好きな方が、同じ作品を何時間眺めていても飽きることがない、という感覚を死ぬまで獲得できないであろう、美術センス皆無のわたしですが、もしかしたらこの映画を鑑賞してる間の恍惚感(漢字から受ける印象よりは軽めですけど)はそれに近いのかもしれない、と思いたくなるほど静かに深く官能的でした。
【余談】
ロンドンにあれだけの規模(に見えるように工夫した演出なのかもしれませんが)のユダヤ人街があることを初めて知りました。スマホを使うシーンがラスト近辺まで無かったので、時折、これは現代の話ではないのかな、と錯覚するほど、閉じた空間であることが感じられ、テーマの重さがしっかりと伝わってきました。
ユダヤ教の安息日は土曜日と聞いてますが、映画を観に行くのは律法的に許されるのかな、などとつまらないことを考えてしまいました。
真の自由への一歩
鑑賞前は単なるLGBTのストーリーかと思ったが、LGBTは数ある枷の一つであり、まだまだ人は人に縛られた人生で生きていることを実感させられるそんな作品だった。
ロニートとエスティは昔から愛し合う関係であった。
しかしユダヤ教指導者のロニートの父に見つかり否定されロニートは故郷から離れてしまう。
父の死をきっかけに久しぶりに故郷に戻るがやはりどことなく人々からは受け入れてもらえない。
エスティと生活していく間にロニートとの間に再び愛が芽生え愛し合う話だ。
ここまではロニートとエスティが結ばれる結末を期待していたが、エスティは夫であり彼女らの幼馴染みでもあるドヴィッドとの間に終盤子供を授かる事になる。
その事が決め手になったのかは分からないが最後はドヴィッドとの夫婦関係を続けることで幕を閉じた。
同性愛で苦しむ彼女らもそうだが、ドヴィッドもまた宗教に縛られ思考の自由を縛られてるようにも感じた。
この作品に出てくる主要人物達が自由を縛られ、そして最後は真の自由ある人生の一歩踏み出す形で終わったと自分は捉えた。ハッピーエンドというよりかは非常に現実的な作品に感じた。
日本に置き換えると宗教に縛られる者は少なく、今回テーマの一部となったLGBTも少なからず認めようという流れに社会はなっていると思う。
しかし現実的な事は周囲にいない為実感はない。
本当の自由とはもちろん自分たちが掴む事も大切だが同時に周囲が認め、支え合うことも本当の自由ある社会には大切な事であり近道でもある。
偏見や差別をなくし、自由に苦しむ人々達が暮らしやすい社会作りの一員になれるよう生きていきたい。そんな事を思わせてくれた作品だった。
全12件を表示