リチャード・ジュエルのレビュー・感想・評価
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「正しい」は力なり
どんなに納得が行かなくても、
どんなに信じてもらえなくても、
どんなに時間がかかっても、
正しい事をしている事が、お守りなんだなぁ。
カッコいいなぁ。
イーストウッドの人間を見る眼は、
静かで、優しくて、淡々と戦い続け、
コツコツと鍛錬し、どんな仕事にも、
手を抜く事をしない人を見つめる。
主人公ジョエルは、そんな人だが、
校長の心なさから焦るFBIに真犯人にでっち上げられ、
ハゲタカの様なマスコミに煽りまくられ、
ほとんどの人がジョエルを犯人と疑う中、
弁護人ワトソンは「俺は信じる」と言う。
お母さんも、当然ながら息子を信じる
誹謗中傷が連日続き、プライバシーも奪われ
忍び難きを忍びながら、記者会見を行う。
悲しい事件の死傷者を悼む
人を守る仕事をした息子を誇りに思う
でも、なぜ疑われるのか?
地獄を味わされる不条理を、
切々と訴える。
(大統領助けて!は皮肉だろう)
ワトソンの秘書ナディアも、信じる。
関係者で最初にいい仕事をするのは、彼女だ。
ワトソンに必要な仕事をさせる!
彼女もまた「見る眼がある」
男にすべき事をさせる態度は、気持ちがいい。
この映画は、
本人以上に、周りが本人に詳しいという恐ろしさが
テーマかもしれない。
それは、今の時代の
データ社会への警鐘を鳴らしているかの様だ。
「気を付けろ、情報は人の見方を変える」
「次から次へとお前の情報は雄弁に出てくるぞ」
説明出来ても否定出来ない。言い訳しにしか聞こえない怖さ。
そんな時、「普段の姿」と「それを観ている人がいる」が頼りだと。「正しいは、お守りだ。人間と人間の絆が頼りだ」と。
そして流石なのは、
映画として無駄な場面がない。
予告編から含めて、
全てがきちんと計算されている。
いつ爆弾が悲劇を起こすのか?
疑いはどうやって晴らせるのか?
予告編を通じて、起きる事(爆発)ことがわかっているので、逆にはらはらするように仕掛けられている。
英雄が真犯人?と展開がどんどん悪くなるので、イライラして不安になる。そんな展開だ。その力が最高潮に働くころ、母の切切とした訴えが、観客の共感を呼び、反撃が開始される。
身の潔白を晴らす大事な場面でさえ、
ゲイじゃないと友人を助ける。
そして、最後は、後に続けるのか?
人を守れるのか?と言い、
司法を助ける。
「じゃ、帰ろう」と淡々と立ち上がり捜査室を出るジュエルに、「あっぱれ」とニヤリと得意な顔で続くワトソンの顔がいい。
流石だ。
映画としての完成度が高い。
いい映画だ。
誰よりも正義を信じた愛すべきおデブちゃん
やっぱりイーストウッドは手堅い
映画を作る側として、ツボの押さえ方が、やっぱりすごい。飽きさせないし、オーソドックスで、見終わった後に温かい気持ちになった。
フェイクニュースが、事実の様に扱われていく様、冤罪なのに、でっち上げを真実としていく権力の怖さ、メディア放映の同調の恐ろしさや思い込み。市井のヒトが大きなうねりに巻き込まれていく様は、
物語としては非常に怖かったし、もしもの話としても恐ろしかった。
キャシー・ベイツが懐かしく、息子のリチャードは飽くまでも、母親思いで心優しく、彼の無実を信じる弁護士も善人として描かれて、
史実は知らないが、物語として手堅く、昔のハリウッド映画の感じで、エンドロールの音楽もちょっと懐かしいけれど古臭い感じがした。
ひとつの立派な生き方であった
イーストウッド監督らしく、主人公リチャード・ジュエルを長所も短所もあるリアルな人間として描く。リチャードは必ずしも好きになれる人柄ではないが、如何にも世間にいそうなタイプであり、ひとつの典型である。
主人公に感情移入できない代わりにイーストウッド監督が用意したのが弁護士のワトソン・ブライアントだ。その心根には熱く滾るものがあるが、態度は常に冷静で、権力を恐れないし圧力に屈しない。弁護士だからといってクライアントであるリチャードに必要以上に強制したり、その人格を否定することもない。あくまで冤罪事件の被害者として彼とその母親の人権を守り、救おうとする。
ブライアント弁護士のメンタルが安定しているので、そこからは落ち着いて鑑賞できる。ワトソンはFBIも役所のひとつに過ぎず、役人がどのように振る舞うかを知っている。日本の役人と同じく保身が命で、そのやり方は十年一日の前例踏襲主義だ。
日本の警察では事件を効率的に処理するために、捜査本部の管理官は容疑者の凡その目星をつけて、恣意的に捜査を指揮する。目星をつけられた者は重要参考人として任意同行の名目で強制同行させられ、拷問に近い執拗な取り調べを受ける。警察にとって誰が真犯人であるかは問題ではなく、容疑者をいち早く検挙することが目的である。目星をつけた人間にアリバイがなければ自白を強要して犯人に仕立て上げることで事件の処理が終了する。自白があれば客観的な証拠は僅かでいい。場合によっては取調室で容疑者が飲み物を飲んだグラスに付着した指紋を凶器に貼り付けることもあるらしい。都市伝説かも知れないが。
アメリカでは長時間の拘束による自白の強要は認められていない。この辺りは流石に民主主義の先進国である。捜査官は客観的な証拠をなるべく多く集める必要がある。事件の状況を細部まで頭に入れ、集めた捜査資料と照合して真実を浮かび上がらせる能力が要求される。警察官の能力の差が歴然と現れ、優秀な警察官がたちどころに事件を解決する場合もある。事件捜査がドラマになるのはそのためだ。しかし個々の警察官の能力差によって事件の解決に格差ができてしまうようでは法の下の平等とは言えない。おそらく今後はこの分野にもAI技術が導入されるだろう。データ照合の精密さなら人間はAIに敵わない。
日本で同じ事件が起きていたら、リチャードは間違いなく有罪になっていただろう。警察官による暴行を受けてPTSDになっている可能性もある。取調室は密室で、昨年から可視化が法制化されたとはいえ、カメラの死角で何が行なわれているかは当事者以外にはわからない。容疑者を裸にして肛門に試験管を突っ込むと、容疑者の精神が崩壊して何でも自白してしまうという話がある。都市伝説かも知れないが。
政府とマスメディアがスクラムを組めば、個人などひとたまりもない。しかしアメリカは個人が戦う場を用意する国である。日本との絶対的な違いがそこにある。民主主義とは手続きのことだ。アメリカは情報公開法によって立法府、行政府、司法府のすべての情報は保管され、一定期間を経た後には必ず一般公開される。書類を捨てたとか最初からなかったなどと誤魔化すのはもはや民主主義を放棄していることに等しい。推定無罪の原則は日本ではあってなきが如しだが、アメリカでは捜査当局、司法当局をどこまでも拘束する。民主主義が機能している国とそうでない国の違いである。
コーラやジャンクフードが大好きな幼児性の精神の持ち主であるリチャードだが、副保安官をしていたこともあり、遵法精神に富んでいてしかも権威に弱い。はっきり言って社会的にはいいとこなしだ。だがそんなリチャードにも見せ場がちゃんと用意されている。FBIの支部での取り調べが本作品のヤマ場であり、リチャード・ジュエルという人間の真価が発揮される場面でもある。イーストウッド監督が撮りたかったのは間違いなくこのシーンだ。
何故か連想したのは、テレビドラマ「義母と娘のブルース」での主人公宮本亜希子の台詞である。PTAと揉めてしまい、訪れた学校で娘から「私が嫌われるようなことをしないで」と言われるが、その言葉に対して亜希子は、子供が嫌われることを恐れて口を噤み、陰で悪口を言うような姿を娘に見せたくないと力強く反論する。綾瀬はるかの名演とともにいまでも心に残る名シーンだ。ちなみに脚本は映画「花戦さ」の森下佳子さんである。いい脚本を書く人だ。
権威や権力、パラダイムに表立って反対するのは勇気のいることである。しかし長いものに巻かれて唯々諾々と生きているのでは、人格が消し飛んでしまう。尊厳が失われるのだ。それは人間としての存在の危機である。だから人は最後の最後には覚悟を決めて戦う。戦い方にはいろいろあり、その場から逃げることも、意を決して自殺することも戦いのひとつとして認めていい。リチャード・ジュエルは逃げもせず自殺もせず、ただ淡々と自分の意見を語る。ここで観客は初めてリチャードの勇気に気づくのだ。一寸の虫にも五分の魂。リチャード・ジュエルの人生はひとつの立派な生き方であった。
メディアと国家権力が暴走すると
メディアと国家権力が暴走したら生活は簡単に壊される。いつ自分がその立場になるかわからない。そして、自分が煽る側になっている可能性だってある。現在進行形で。
正直、ジュエルには全然共感しなかった。権力へ何の疑いも持ってないところや、無邪気に法を守ることが最重要事項だと思ってるところとか。むしろ、何でこんなに頭悪いんだよ!とイライラした。明らかに見下してた。FBI捜査官やメディア、煽る一般人にも同じような偏見、決めつけが根底にあって多分自分も一緒に糾弾する側になっただろう。ジュエルという冴えない主人公を使って映画を観た人間の汚いところさえ炙り出すのが狙いなのかな。
最後は冤罪が証明されてハッピーエンド、といいたいところだけど1人の力の無い人間とその家族の生活を壊して、さらに、信念まで壊したことを思ったら全くハッピーエンドではなく、メディアと国家権力の暴走はとんでもなく重たい罪だと思った。最後にジュエルが警察署で働いてるのを観て少しホッとした。
反撃の狼煙
警備員として働くリチャードが、五輪開催中の祭事が行われる公園で爆発物が入ったリュックを発見し多くの人を危機から救ったことから、英雄扱いされたのも束の間犯人扱いされてしまう物語。
元警察官だったリチャードは、法執行官を盲目的にリスペクトするあまり、明らかに罠だとわかるようなFBIの捜査にも力なく協力してしまう…。そんなリチャードに無実の罪をきせまいと、あまりにも強大な相手に立ち向かう知人弁護士のワトソンやその妻、リチャードの母親や友達の姿が非常にカッコよく、思わずグッと来た。
微力ながらも全力でリチャードを守ろうとする仲間たち。相変わらずFBIに対し気弱なリチャードに幾度も苦心するワトソンだが、それでも最後は自分の言葉で闘うことを選んだリチャード。しかも、FBIを黙らせるのに必要だった言葉はあまりにも単純なものだった。
シンプルな感想にはなるけれど、自分の正義を貫くためには、たとえどれほど強大な相手であっても闘うことが必要なのだと気づかされる映画だった。
その他、観客からみても本気で憎いと思わせるような記者やFBIの役者陣の演技も際立って素晴らしかった。
エンドロールで流れる曲も、まさに琴線に触れるといったような美しさで、どっぷりと映画の余韻に浸れました☆
情報
実に、おぞましい内容の作品だった。
予告にて「メディアリンチ」なる単語があったが、そんな可愛いもんじゃなかった。
身の毛もよだつ理由は、この作品には悪魔などは出てこない事だ。全ての登場人物は人間だった。…よくぞあんな事が出来るものだと、失望する。
勿論、様々な思惑は絡み合う。
火種は個人の主観だった。大学の学長の疑念。それも正義感とも取れる発言だ。
「私がこの証言をしなければ、第二のテロが起こるのではないか。」
それに飛びつくFBI
オリンピック期間中の事もあり、一刻も早く犯人を挙げアメリカの治安と強力な捜査力を世界に向けてアピールしたい。
その捜査官と癒着してる記者。
爆破現場に居合わせ、周囲が阿鼻叫喚する中、神に祈るのは「他社を出し抜くスクープをください」だ。猛烈に職務に忠実だ。
ただ、中身が歪だし腐ってる。
FBIは真実よりも権威の回復だし
記者は真実よりも部数とか優越感だ。
実に人間らしい価値観なのである…。
人が人を断罪する事の不誠実さが凝縮されてる。
その標的にされるリチャード。
文字通り彼の世界は一変する。
この作品が凄いなと思うのは、序盤からリチャードを善良な市民と描かない点だ。
僕らは思う。
「ああ、こいつイタイ奴だ。」
ただ、そんな奴はどこにでもいる。むしろ、自分でさえそう思われてる1面もあると思う。
そういう意味で言えば、彼はどこにでもいる人間だ。
そんな彼はすすんで捜査に協力する。
FBIという公的な機関に絶対の信頼をおいて疑わないからだ。世界最高峰の捜査機関が自分の身の潔白を証明してくれると思っての事なのだろう。DNAも音声データも提供する。
かたやそのFBIはどおにかして犯人に仕立て上げたい。
メディアはFBIか引かない事で、連日のようにショッキングな報道に終始する。
その過熱ぶりは砂糖に蟻がたかるかの如くだ。実際にあった問い掛けなのかは分からないのだが、和訳されたマスコミの質問は馬鹿馬鹿しいにも程があった。知性じゃなく知能を疑うレベルのものだ。
あんな人間たちがとってきた情報に一喜一憂してるかと思うと腹が立つ。むしろ踊らされてなるものかと反発したい。
マスメディアに正義を求めるのは無駄以外の何物でもない。虚構であり扇動でしかない。
マスコミ関係者はこの作品を教訓に「人の振り見て我が振り直せ」との諺を肝に銘じてもらいたい。
日本の不倫報道とかにも当てはまると思う。大衆に迎合するのはやめろ。自らの存在意義を貶めてるのと何ら変わらない。
弁護士に詰めよられた記者は幾度となく「事実」という言葉を口にする。
観客である僕らは思う。程のいい言い訳じゃないかと。何の裏付けもない。あるのはFBIが張り付いてるって事だけだ。その内側を見ようともしない。責任転嫁の逃げ道を常に用意してあるかのようだ。「私達は公表された事実を報道していただけです。」マスコミの信用度の失墜に歯止め等効かず、自ら墓穴を掘ってると思わないのだろうか…?何が権力の監視者だ。そんなありもしない看板はとっとと下せ。
そのFBIにしたって、音声の照合とかは出来たはずだ。作品の中にもあったけど早い段階でリチャードは犯人じゃないとの証明も出来てたはずだ。でも公表しない。
振り上げた拳を下げれない。吐いたツバは飲み込めない。正義を執行する機関としての体面はあるんだろうねぇ…でも、それだって実に身勝手な言い分だよね。
リチャードはあの弁護士と知り合いで良かったと思う。彼は警察が正義なんてものじゃないと骨の髄から理解してた。
この事件で唯一希望が持てたのは、裁判所が正常に機能してた事だ。まぁ、それもたまたまかもしれないし、日本では事情が違うのかもしれんが。
終盤でリチャードの母親が記者会見に臨む。彼女が息子の無実を懇願したのは神ではなく大統領だった。息子に降りかかるものは神の試練ではなく人災なのだ。目から鱗だった。
この悲劇に神の関与はなく、人間しか関わってないとの訴えだったのだと思う。
この作品を見て思うのは、正義の所在地というか、報道の信憑性というか…与えられた事実を鵜呑みにする怖さだろうか。
それらに身を委ねてる自分の姿を垣間見る。いや、抗いようもないと言えば無いのだけれど。
この映画にしたって、あの記者はホントにあんな下品な身なりなんだろうかと思う。
作品的に分かりやすい嫌悪感を抱けるように作られたのかもしれないし、元々が創作物であるわけなので真実と受け止めるのも違う。
なんか記者は改心したかのように母親の会見で涙を見せるのだが、その後についての言及はない。
FBIは司法が認めたにも関わらず、リチャードはクロだとの捨て台詞を残す。彼らの行動理念上それは仕方がないとは思うけど、人道的にはおそらく間違ってる。
それを理解してるから居合わせた弁護士も歯牙にもかけなかったのであろう。
さすがはイーストウッド。
今回も目一杯、胸をざわつかせた社会派の作品だった。
そしてメディアで流れる真実の情報なんて天気予報くらいしかないなと思った。
報道の自由なんて原則があるけれど、良識が伴わない自由なんて、ただの暴動だからな。
この事件で年老いた母親が、心労が祟って亡くなってたらどおするの?
罪のない被害者は出るぜ?
その責任は間違いなく報道する側にあるよ。だからこそ叩かれても踏み止まるための信念をもって、関わってほしい。
例えばどっかの芸能人が不倫しました。その子供が学校で虐められて、そのイジメを苦に自殺しました。その命にまで責任とれんの?
全ての責任まではないだろう。
でも、その何割かはあるよ。
そういう覚悟と十字架を背負うべきだと思う。
今は個人が情報を発信出来て、それがお金を産むシステムが出来上がってる。
何も公の立場の人間だけに当てはまる話じゃない…ホントに主観や趣向で発信する危うさを考えて欲しいし、それに安易に同調する不気味さに気づいてほしい。
エンドロールに流れる静かなBGM。
それが俺には葬送曲に聞こえた。
主役リチャードへのものかもしれないし、マスメディアや警察へ向けたものかもしれない。こおいう広がりを感じさせるセンスがやっぱ好きだなぁ。
昔、このリチャードジュエルのようなバイトリーダーがいたのだが。
昨年『ジョーカー』がフィーバーした頃にボンヤリとイヤな予感がしていて、『パラサイト 半地下の家族』で少し自覚した僕の“気分”というものがある。どういう気分かというと、
正直もう格差社会批評的な映画評はお腹いっぱいという気分
である。
別に格差社会を「弱者の自己責任論」でもってヨシとするわけじゃないし、僕自身の暮らしなんてどっからどう見ても弱者の側だし。
でも昨年2019年は『ジョーカー』だけじゃなく『アス』とか『家族を想うとき』とか、格差社会語りをしたくなる映画が多かった気がするし、実際世界的にそういう映画が作られるムードなんだろうし、実際そういうことが描かれている映画たちなんだろう。でもなんだか、ちょっと、もうお腹いっぱいになってしまったんだ。そういうヘソ曲がりな性分が僕にはあって、『この世界の片隅に』がフィーバーして「平和のありがたみ」が叫ばれたときも、『人生フルーツ』がフィーバーして「スローライフ」がありがたがられていたときも、どこを見聞きしてもそういうムードになってることに「わかった、わかったから、もうお腹いっぱい」って気分になってた。差別についての映画についての映画評も同じような感じ。
で、今回の『リチャード・ジュエル』については、別に格差社会の話になるでもなく、特に差別を描いた作品でもないんだけど、ちょっとだけそういう僕の性分というか気分に触れたところがあるので、書いてみる。
昔、このリチャードジュエルみたいなバイトリーダーがいた。
そいつを僕はキライだったし、一緒に仕事するのがイヤだった。正社員でもないのに正社員以上に正論振りかざして、「もちべーしょん」やら「ほすぴたりてぃ」やらをケーモウしてた。仕事ぶりは真面目だし、シフトに穴が空いたら積極的に出勤するので、社員さんたちにしてみりゃ優秀なバイトリーダー。でも平バイトの僕らには、感覚的にわかってるんだ、そのバイトリーダーの真面目さや熱心さの正体が、ちょっとナルシスティックな承認欲求だっていうこと。で、それが仕事デキルこととは無関係に、なんかキモチワルくて、キライだったんだ。僕のその感覚は「差別」だろうか?またそのバイトリーダーのウザさは、「無罪」だろうか?
映画『リチャード・ジュエル』の中のリチャードジュエルは、そういうウザさはあるにしても、母親思いのイイやつだった。不当に犯人扱いされ、メディアに騒がれてヒドい目にあわされた可哀想な弱者だ。
映画はその弱者が、強者にギャフンと言わせて終わる。史実もそうなんだし、スカッと終わってイイ話。
映画としてもイイ映画。クリント・イーストウッド監督作っていう時点で、作品については何も言いたいことなんてない。
でも僕にとってはリチャードジュエルのあのウザさは「無罪」にはならない。サムロックウェルはどっちかと言えば目上の立場だから、リチャードジュエルを可愛く思えたかもしれない。でもああいうやつの下の立場の視点で観たら、あいつのウザさは「無罪」にならない。
「英雄=爆弾犯、の犯人像と一致する」「母親と暮らす醜いブタだしね」
酷いよね、まるで真犯人を見つけたような騒ぎ。昨日まで英雄として祭り上げておきながら。
憶測に走り、偽装してまでもハメようとするFBI。
スクープに焦り、シロと知っても騒ぎ続ける地元メディア。
この映画が真実なら、国(FBI)もメディアも相当に腐ってる。結局、それはどこの国も同じって事だね。
最後に、勝った!というが、あれが勝利か? 元々やってもいなかったことで無罪を勝ち取ったことが勝利なのか?
元に戻ったわけでもないのに。国からの慰謝料、損害賠償を勝ち得て、地元紙の謝罪広告と女性記者の謝罪会見が行われて初めて「勝った!」と高らかに言えるんじゃないのか?
クリント・イーストウッド監督の作る映画は、前作の「運び屋」もそうだがどこか腑に落ちない。
愚かなのはどっちだ
彼の言動は常識的ではないかもしれない。彼は落ち着きがないところがある一方で、集中すると周りが見えなくなり、迷惑をかけている事にも気付かない。
でも、正義感と善意の塊のようなこの愚かな男を、少しばかり挙動不審だからといって、犯人と思い込むのは愚かではないのか。
FBIもマスコミも、悪意に満ちている訳ではない、それがとても怖いです。
いや、意識していないだけで、やはり偏見という悪意なのだと思います。これは自分にも思い当たるのが痛いところです。
目立ちたがり、ヒーロー大好き、「さっさと片付けて一杯やろうぜ」的なところ――アメリカ人の悪い所(?失礼、日本人にもありますね)を描きつつも、大袈裟過ぎないクールな演出で、とても見やすかったです。
泣ける、そして勇気をもらえる映画
3か所、
特に印象が濃く残るシーンがありました。
1つ目は、
映画中盤、主人公のジュエルが理不尽な疑いにさらされる中、
母に八つ当たりしてしまう。
そして、母は部屋に閉じこもってしまう。
このシーンを見て、
子どもの頃の気持ちが蘇えりました。
母に当たってもしょうがないのに、
むしろ最大の味方であるはずなのに、
甘えから当たってしまい、後悔する、
切なくなりました。
そして、映画ではジュエルがすぐに謝り、
部屋から出てきた母は、
「あなたの守り方がわからない」と泣く。
私は泣くのを必死に堪えましたが、
泣いてしまいました 笑
母の温かさは偉大だなと思いました。
2つ目は、
また母のシーンです。
映画後半、反撃を開始し、
母が、マスコミの前で、
涙ながらに息子ジュエルの無実を訴える。
実は私はあまり感動しませんでした。
1つ目のシーンは不意を突かれたドキュメント感があり、思わず感情移入したが、
このシーンはいかにも泣いてください!
という構えられたシチュエーションで、
冷静になってしまいました。
シチュエーションは大切!という発見があったという意味でピックアップ。
3つ目は、
映画の終盤、ジュエルがFBIに尋問されている途中から、
急に人が変わったように反論をする。
それまでやさしい性格で、攻撃され放題の受け身だったジュエルが、
自分の貫き通してきた正義を自覚し、
自分の考えをしっかり主張する。
このシーンを見て、いかなる外的要因、環境になろうと自分の想いを貫くことによって後悔のない人生が歩める、
環境は関係ない、
自分と向き合うことが大切。
またそれを行動で表現することが大切。
そんなふうに解釈し勇気をもらいました。
つらい
本当にあった事件だとしか知らずに観た。
途中、辛くなって早く終わって欲しいと思った。
ラストが無実だと認められてホッとした。
辛かったのは、母親の存在。
お母さんの想いや体験したことへのショックが計り知れないと思った。
お母さんの会見が痛々しくて涙が出た。
味方になってくれる弁護士がいて本当に良かった。
そうでなければ、警察にはめられていたかも。
6年後に真犯人が分かったのも、もし、彼が有罪で刑務所にいてまだ死刑が行われてない状態だったら、真犯人は、自白しなかったのではないかと思う。
でも、このリチャードさん44歳の若さで病死なんて、本当にお母さんが気の毒で仕方がない。
実際の事件の詳細は知らないが、この映画を観て主人公のキャラ、敏腕弁...
真犯人がいるということ
なんか他のイーストウッド監督作と比べると映画っぽく作られてて見やすく感じたけど、逆に前の映画って感じの雰囲気がむしろ当時に作られた映画っぽくて憎い。私が観て育った映画っぽくて妙な懐かしさがあった。80年代の雰囲気が映画自体の作りにもあるあたりがさすがというところ。
話の内容としては冤罪系の話でわかりにくいところもなく、スッと入ってくる。
個人的には真犯人がいるにもかかわらずそのままになっていることへの危惧を感じた。犯人と思われる人物が捕まれば「安心」であり、ひとまずの「心配」が終わることの方が大事なのは小さな事件でもわりと同じで、本当の犯人が捕まることよりも目の前の安心が欲しいと思ってしまうことの危険性について、映画が終わった後ぼんやり考えてしまった。
群衆心理とメンツ
主人公が…こんな展開!?
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