「昔、このリチャードジュエルのようなバイトリーダーがいたのだが。」リチャード・ジュエル ウシダトモユキ(無人島キネマ)さんの映画レビュー(感想・評価)
昔、このリチャードジュエルのようなバイトリーダーがいたのだが。
昨年『ジョーカー』がフィーバーした頃にボンヤリとイヤな予感がしていて、『パラサイト 半地下の家族』で少し自覚した僕の“気分”というものがある。どういう気分かというと、
正直もう格差社会批評的な映画評はお腹いっぱいという気分
である。
別に格差社会を「弱者の自己責任論」でもってヨシとするわけじゃないし、僕自身の暮らしなんてどっからどう見ても弱者の側だし。
でも昨年2019年は『ジョーカー』だけじゃなく『アス』とか『家族を想うとき』とか、格差社会語りをしたくなる映画が多かった気がするし、実際世界的にそういう映画が作られるムードなんだろうし、実際そういうことが描かれている映画たちなんだろう。でもなんだか、ちょっと、もうお腹いっぱいになってしまったんだ。そういうヘソ曲がりな性分が僕にはあって、『この世界の片隅に』がフィーバーして「平和のありがたみ」が叫ばれたときも、『人生フルーツ』がフィーバーして「スローライフ」がありがたがられていたときも、どこを見聞きしてもそういうムードになってることに「わかった、わかったから、もうお腹いっぱい」って気分になってた。差別についての映画についての映画評も同じような感じ。
で、今回の『リチャード・ジュエル』については、別に格差社会の話になるでもなく、特に差別を描いた作品でもないんだけど、ちょっとだけそういう僕の性分というか気分に触れたところがあるので、書いてみる。
昔、このリチャードジュエルみたいなバイトリーダーがいた。
そいつを僕はキライだったし、一緒に仕事するのがイヤだった。正社員でもないのに正社員以上に正論振りかざして、「もちべーしょん」やら「ほすぴたりてぃ」やらをケーモウしてた。仕事ぶりは真面目だし、シフトに穴が空いたら積極的に出勤するので、社員さんたちにしてみりゃ優秀なバイトリーダー。でも平バイトの僕らには、感覚的にわかってるんだ、そのバイトリーダーの真面目さや熱心さの正体が、ちょっとナルシスティックな承認欲求だっていうこと。で、それが仕事デキルこととは無関係に、なんかキモチワルくて、キライだったんだ。僕のその感覚は「差別」だろうか?またそのバイトリーダーのウザさは、「無罪」だろうか?
映画『リチャード・ジュエル』の中のリチャードジュエルは、そういうウザさはあるにしても、母親思いのイイやつだった。不当に犯人扱いされ、メディアに騒がれてヒドい目にあわされた可哀想な弱者だ。
映画はその弱者が、強者にギャフンと言わせて終わる。史実もそうなんだし、スカッと終わってイイ話。
映画としてもイイ映画。クリント・イーストウッド監督作っていう時点で、作品については何も言いたいことなんてない。
でも僕にとってはリチャードジュエルのあのウザさは「無罪」にはならない。サムロックウェルはどっちかと言えば目上の立場だから、リチャードジュエルを可愛く思えたかもしれない。でもああいうやつの下の立場の視点で観たら、あいつのウザさは「無罪」にならない。