ミッドナイトスワンのレビュー・感想・評価
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もうマイノリティでは無いよ。
周りにゲイの友だちも多いので、存在自体をどうとも思う事も無い。
が
すでにマイノリティとも思ってないゆえ
この映画の中で何度か出てくる「何で私だけ」と悲しむ姿に関しては、あまり同情してあげられないと思ってしまう。
それぞれ、自認する性の不一致だけで無く、色々な悩みを抱えてる人が世の中には居るから。
視点を変えれば、一果の母も苦しんでいるかもしれない。
凪沙の母も、息子の事で悩んでいるはず。
LGBTQだけではない。
登場人物の心境の変化が少し急展開だったような気も。
一果と出会う前から、凪沙の歩んできた人生をもっとじっくり見たかった。
性転換手術からその後の大変さが描かれてるのはとても良かった。
切って縫って、ハイ、終わり。じゃないからね。
女性と母の話
草彅君とバレリーナの子との関わり合いが素晴らしい!
説明不足なのにちゃんと分かる巧みな作品です
バックストーリーが足りないな、でも何か観ることのできる映画だなと感じました。
こう書くと低評価のようですが、決してそうではありません。結構高く評価しているんです。
バックストーリーというのは物語が始まるまでのストーリーのことです。脚本家は登場人物を考えるときに、その人物の性格や経歴、プロフィール、信条や価値観、友人関係、何に影響を受けて育ってきたか、どんな思想を持っているか、さらには両親や祖父母がどんな人生を歩んできたか(本人が生まれる前の経歴)といったことを考えます。
バックストーリーの大部分は、映画本編には使われません。なのになぜ考えるのかというと、その登場人物のことを掴むためです。例えば犬をかわいがる場面があったとして、過去に自分で犬を飼っていた経験のある主人公と、犬を飼ったことのない主人公とではかわいがり方が違うはずですよね。その小さな違いの積み重ねがキャラクターを作り、映画のテイストになったりリアリティにつながったりするんです。
で、そのバックストーリーの中には、映画本編でも描いておいた方が良い情報もあります。登場人物の過去のできごとや経歴をある程度描いておかないと、その行動やシチュエーションが唐突に思えたり納得できなかったりすることがあるんです。
例えばこの映画だと、最も気になるのは「一果は何故バレエがうまいのか」。その理由を描いておかないと、観客の頭にはずっと「?」が浮かんだまま観ることになってしまいます。バレエの先生に「習ってた?」と聞かれ薄く頷くシーンや「癖あるねぇ」と言われるシーンはありますが、これだけでは弱いです。実は3歳からバレエを習っていて、小4の時に親の事情で辞めさせられ、それからは独学で練習してた、といった説明がないとスッキリしません。
バックストーリー以外でも、ストーリー上、説明しておくべきことがあまり描かれていない印象です。とくにナギサと一果が心を通わせていく過程はもっとしっかり描いてほしいです。二人がそこまで互いのことを信頼しあうようになる要素ってあったっけ?という疑問が最後まで残りました。
一果のバレエ友だちのりんが怪しい撮影スタジオに通って母親の期待を裏切るような行動を取っている理由もいまいち明確ではないですし、りんは最後はバレエができなくなったことに絶望したのでしょうか、それとも母親の期待に応えられなくなったことに悲観したのでしょうか。
また、一果の母は最後、どうして一果がナギサのところに行くのを許したのでしょうか。
こういったことは、できれば説明してほしいです。
でも冒頭に書いた通り、この映画ってこんなに説明不足なのに、全然理解できないっていうこともないんですよね。
一果のバレエがうまいのも、「あぁ、習ってたんだ。きっと元々才能あったんだろうね」と思えなくはないですし、ナギサと一果が心を通わせていくのも、一果が最初は掃除を拒否していたのにある日突然部屋を片づけていてナギサが驚くシーンとか、まったく描かれていないわけでもないので想像できます。りんの心情も、足の怪我が原因だとわかります。
たぶん想像できるかできないか、ギリギリのラインを狙って作られているんですよ。そこが巧いなぁ〜と思いました。
とはいえ僕は、ちゃんと説明してほしい派です。
テーマとか世界観とかスタイルによっては、描かずに想像させた方が深い作品になることがあります。説明が入るとテンポが悪くなるから、あえてそのシーンを外す場合もあります。でも、基本的には説明不足だと感じさせない方が良いと思っています。
ツヨポンのスワンレイクの踊りは優れもの。
凄い
バレエの映画を観たい方にはオススメしない
本当に終始[なんだこれ]という感じの映画でした。草彅剛の女性姿だけは綺麗です。
序盤は主役の子と草彅剛の2人の慣れないぎこちない距離感の演技上手いなぁと思ってましたが、心が通じ合った場面も含め最後までずっとその調子で、結局ただの棒演技というだけでした。
やるせなさや生きにくさに焦点を集中したいあまりにストーリーを通してずっと悲惨orトラブル~一瞬の日常(比喩ではなくほんとに数分)また悲劇の繰り返しでまた?没入感がなくただただ胸糞悪いだけでした。
その原因の1つとしてはぐれ者を題材にしている作品だとしても登場人物のほぼ全員がクズ。
主役の才能とか強さとか母性を演出したいにしても絵に描いたようなクズばかり。
誰も幸せにならず、救われなすぎてラストにとってつけたかのような白々しさをも感じた。
ここまでするならいっその事、海への入水、その後どうなったか分からないENDの方が別作品の名前を出して悪いがまるで[誰も知らない]のようでよっぽど納得出来た。
心を揺さぶる作品
久しぶりに心から涙が溢れるような作品に会いました。生きているとなんで自分だけ苦しいのかという思いになる事がありますが、凪沙の苦しみは深く悲しくも避けられない不条理に被さるもの。だけれどもまだ幼い一果を守るために持てるもの全てをかけて生きようとする姿が、痛みを分かる人間だからこその愛と優しさに満ちていて、ただ心が震えるばかりでした。
草彅さんのことは国民的スターの頃から良く知っていたはずなのに、全く元の存在を意識させない演技で圧巻でした。本当の女性になりたかったひとりの人間の人生の苦悩を細やかに演じていて、映画を見終わっても悲しいのか分からない心の震えがまだ残ります。苦しい時、何処かで誰かも苦しんだり頑張っているんだろうかと、生きる悲しみは皆背負っているのだと、これからはそう思えるのかも知れないです。
珠玉の名作
心揺さぶられる映画は今までいくつか見ましたが、魂に突き刺さって、突き刺さったものが未だに抜けない経験をしたのは生まれて初めてだ。
これほど切なく美しい映画は見たことがない。
そして、温かい。
心がいっぱいになり、時に心がしめつけられ、自然に涙が溢れ 泣きっぱなしだったが、悲しい涙だけではなかった。
スクリーンの中に俳優 草彅剛はどこにもいなかった。凪沙が精一杯 全力で駆け抜けたその人生をノンフィクションで見ているようだった。
愛おしい我が子を見つめる慈愛に満ちた優しい眼差し、全身から溢れる幸福感。
凪沙は母そのものだった。
どんな人にも「なんで私だけ・・」と悲しい思いをした事があるだろう。自分の生い立ちから今までの人生について深く考えさせられた。人生観さえ変えられた気がしている。
何より、とにかくこの作品は素晴らしい。
映画史上に残る珠玉の名作で、見た人々の心にずっと残るそんな作品だと思う。
私はこの映画に出会えた事を心から感謝している。
まさかの全裸監督繋がり
「半世界」観たのでねえ。
まだ上映してたので草彅剛さんの主演作も観ようかと。(だからって「こち亀」は観ないぜ)
ジャニーズ時代から演技には定評の有った草彅剛さん。ドラマだが癌患者や父性の無い父親やヤクザからフードファイターまで演じて来た演技の幅有ればこそ、今回のLGBT役も引き受ける事が出来たのだろう。
でも流石にジャニーズのままなら今回の役は無理だったかなあ?そう思えるほど今作では凄い演技を観せてくれた。
同じ元SMAPの木村拓哉さんはホッケー選手やパイロット、レーサーにボディガードに宮本武蔵と、正にHEROを演じて来たわけだが、真逆と思える作品に出演して来たのは、きっと偶然では無いんだろうなあ。
そんな彼の集大成とも言える演技を、この作品では観る事が出来ます。
あちらの世界は色々複雑らしく、単なる女裝、男装趣味から、異性への憧れから異性を真似る方。異性の服装をした上で同性を好む方。自分の性を受け入れ同性を愛する方。
その中でもおそらく1番大変なのが、今作の主人公の様な自分の性を受け入れられない性同一性障害の方たちだろう。
この作品でも週イチでホルモン注射を打ち、そのせいで情緒不安定になり精神安定剤を飲んで号泣。というリアルで生々しいシーンが有る。
更には性転換手術までがリアルに描かれているので、観る方はなかなかの覚悟が要ります。
自分は想像していた内容とはかなり違っていたので、結構な衝撃を受けました。
残念ながら差別や偏見が無くなる事は無い。突き詰めれば好きか嫌いかだからだ。
しかし今は多様性を受け入れる時代だ。自分の様な昭和のオジサンはその事を夢々忘れない様にしないといけない。何処かの会長さんみたいにならない様に。
少し話が逸れたな。
今作のもうひとりのヒロイン、服部樹咲さんは、きっとこの先スケジュールは埋まっている事だろう。こんな新人を放っておくなら、日本の映画界は本当の阿呆だ。
非情に重い話を、この新人の輝きが救った作品だと思う。
その他にも、このところ振り切った演技を観せる水川あさみサン。憎たらしい役を憎たらしく演じた佐藤江梨子さん(キューティーハニーだよ)。ヒロインに嫉妬しながら惹かれるという難しい役を演じたもう1人の新人、上野鈴華さん。
内田英治監督は女性の演出が上手い方なのだなあ。とてもそうは見えないが。(いかん、これは偏見だな)
インパクトの有る、間違い無く女性映画だが、性別関係なく観て貰いたい作品。
覚悟は要るが、
オススメ。
追記
このレビュー書いていて無性に「フードファイト」が観たくなった。なんでこのドラマが封印作品なんだ。
作品には全く罪は無いだろうに。
この辺にも差別や偏見に繋がるものが有る気がするな。
「死と再生」の物語 (ネタバレあり)
この作品のテーマは、草薙演じる凪沙に芽生える母性愛である、と巷では言われていますし、実際に公式サイトでもそのように語られています。
「社会の隅に追いやられた者同士の、奇妙な共同生活のなかから、互いへの愛情が芽生える。そして凪沙には母性が芽生え、実の母に奪われた一果を取り戻すために、凪沙は・・・」(公式サイトより)性転換手術を受ける決断をする。女性化した身体になって、一果を「母」のように受け入れる
準備を整え、彼女を広島に迎えに行った。しかし、手術によって身体が女性化してきた凪沙を、実家の母親をはじめとする親戚一同が化け物のように扱い、あらん限りの罵詈雑言を浴びせて、実家から追い払ってしまう。この、性転換手術の動機は、一果の母になるためとされている。
しかし、私は「母性愛」などという、言い尽くされ手垢にまみれたものではない、もっと別のテーマがあると思う。凪沙は、一果の母になりたかったのではない。一果その人になりたかったのだ、と私は観た。
この作品の重要なモチーフは、反復と繰り返し、である。ニューハーフショークラブ「スイートビー」の楽屋で、「白鳥の湖」の「四羽の白鳥の踊り」に出るためにメイクをして準備に余念のない凪沙たちの様子から、この映画は始まる。四人のニューハーフの踊り子たちが舞台の控室でメークをするのと、ほぼ同じ画面がラスト近くで反復される。その画像は、DVD発売前の現在、入手できなかったが、一果が海外のバレエコンクール(ローザンヌ?)出場の折、「白鳥の湖」のオデットを踊るために楽屋でメークをしている場面だ。反復と繰り返し。これがこの作品に通底する、母性愛よりももっと重要なモチーフなのである。これについては再び触れる。
凪沙と一果の感情を大きく変えるきっかけとなったのは、中盤の、一果がやばいバイトをしている最中に客に問題行動を起こし、警察沙汰になった後のシーンだ。この風俗まがいのバイトは、そもそもバレエ教室に通うお金を稼ぐためにバレエ教室で唯一親切にしてくれる友人、りんが紹介したものだ。ところが警察沙汰になり、保護者として凪沙が呼び出される。凪沙を化け物を見るような目で見たりんの母親は急に態度を変え、すべてを彼らの責任に転嫁しようとする。ショックを受け、自分の腕にかみつく自傷の発作をまた起こす一果を抱き抱え、凪沙はこう言う。「うちらみたいなんはずっと一人で生きていかんといけんのじゃ。強うならんといかんで」。初めて二人の心が通じ合った瞬間である。
精神が不安定な一果を一人にしておけないと言って、凪沙はその夜、「スイートピー」に一果を連れてゆく。ところが、凪沙たちニューハーフの「四羽の白鳥の踊り」を見ていた酔客が彼女らの踊りを罵倒し、それに抗議した凪沙たちと乱闘騒ぎになる。その騒ぎを尻目に、一人、一果が踊り出すと、その酔漢さえもがあっと驚き目を奪われるのだった。
一果のレッスンのことはつゆ知らず、その成果を初めて目の当たりにした凪沙は一果を見直す。店の外で待っていた一果に白鳥の羽の髪飾りを渡す。「これ、上げる」
この時のスチル写真は、小説の表紙に使われていることからわかるように、作品全体を象徴している。この直前、凪沙は、一果を社会から忌み嫌われのけ者にされている自分の同類として、抱きしめて「強く生きろ」とエールを送ったのだった。だが、一果は自分の同類なんかではなかった。踊っているところを気持ち悪いと罵倒される自分とは全く違う、異次元にいる人間なのだった。自分を罵る酔客さえも、一果の踊りの美しさに舌を巻いた。つまり、一果は凪沙の対極にいる人間であり、凪沙にとって、もしなり代わることができるものなら代わりたい、理想の存在であることを、突如見せつけられたのである。白鳥の髪飾りを一果に上げる、というのは、まさにありうべき自分の理想を、自分の夢を、一果に託したことの象徴である。
その後、二人の感情は急速に解きほぐれて親密になってゆく。凪沙は一果からバレエの手ほどきを受けたりする。また一果の健康を気遣った料理を作ったりもして、この間お互いに対して愛情が育っていった。
そしてその愛情が「母性愛」なのか、という話なのだが、なにしろDVDがなく、すべての動画から画像を持ってくることができないため、画像で論証することができないのが残念である。結論を出すために、最後の海辺のシーンを考察したい。
海外のバレエスクールで学ぶ奨学金を得た(?)一果が広島の親元から上京し、久しぶりに凪沙の部屋に行くと、彼女は術後の手当てが不十分であったため感染症をおこしたのか、意識も混濁して瀕死の状態であった。それでも、どうしても海に連れて行ってほしいというので、一果はバスに乗って、砂浜の海辺に連れて行った。そこで凪沙は、スクール水着を着ている少女姿の自分の幻影を見る。それは幼き日の彼(女)が、なりたくてもなれなかったものだ。なぜ自分は女子の水着ではなく、男子の水着を着ているのか、と愕然としたという、本来のあるべき自分。それが凪沙にとって、女の子用の水着を着た少女なのだ。そして、一果に白鳥の踊りを踊ってくれと懇願する。海を背景に白鳥の踊りを踊る一果の姿は、まさに一羽の白鳥であった。スクール水着姿の少女が、白鳥を踊る一果へとなり代わったのである。それこそが、凪沙がなりたいと願い続けてきた姿、しかしどうあってもこの世では叶わない夢の姿、つまり、理想の分身なのである。その姿を見ながら凪沙は息を引き取った。
じつは、この画面はルキノ・ヴィスコンティの『ベニスに死す』のラストシーンのオマージュである。疫病が蔓延してきて、観光客がほとんど去り閑散としたベニスの砂浜。ずっと向こうの砂洲に立っているのは、主人公の老芸術家、アッシェンバッハが恋焦がれた美少年タジオである。仲間と喧嘩して機嫌を損ねたタジオは、一人でどんどん海に分け入り、そして浅瀬の砂洲に辿り着いたら、ふと、彼方を指さして、どこかへ誘うような仕草をしたのである。折り畳み椅子に座りこの一部始終を目にしていたアッシェンバッハは、タジオの誘いに応じて立ち上がろうとするも、そのまま事切れた。
『ミッドナイトスワン』でも、タジオ少年のように、一果もどんどん海に分け入る。まるでこのまま入水自殺でもするのではないかと思わせる勢いで。そうだ、彼女はこの時死んだのだ。凪沙が死んだのと同時に。それまでの一果は凪沙と共に死に、そして生き返った。新しい一果として。沖に向かって海を進みゆく一果の姿は、死と再生を表している。ただし、蘇った一果はそれまでの一果ではない。凪沙を自らのなかに取り込み、凪沙と共に蘇ったのである。凪沙の夢を実現し、凪沙の生をも生きる一果。凪沙もまた、一果のなかで生まれ変わったのだ。それを表すのが、先に触れた「反復」と「繰り返し」のモチーフである。
最後、コンクール会場に向かって闊歩する一果は、かつての凪沙と同じ服装をしている。凪沙のコートと赤い靴、そして革のパンツを、一果は譲り受けた。凪沙の夢は、一果が、その足取りのようにしっかりと力強く継承した。凪沙は、一果の中に生きている。一果になりたいという凪沙の夢は、一果によって受け止められ、そして美しく成就した。「反復」と「繰り返し」のテーマが何を意図していたか、ここで明らかになろう。ラストでそれは、見事に「死」と「再生」のメッセージと協奏するのである。
2度は見れない儚い物語
非支持。
リアルの叫び
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