「どれだけ世界とつながっていられるか」すばらしき世界 のむさんさんの映画レビュー(感想・評価)
どれだけ世界とつながっていられるか
前半は少しコミカルなタッチで、しかし後半にかけてどんどん引き込まれるシーンの連続だった。介護施設でのシーン、介護士の服部と障害を持っているであろう阿部のやり取りを、主人公三上が見つめる。そのあとのシーンも含めて最高のシークエンスだと感じた。
パンフレットに付属する脚本には上記シーンで「社会に適応するために、人間性を、捻じ曲げた」と書かれている。それまでの三上は自分の目から見た世界、主観的な世界だけを世界と認識して生きてきたのだと思う。彼の正義は一方通行で、ある意味身勝手なものである。「お前らみたいな卑怯な連中に混じるくらいなら死んで結構たい。」三上の言葉にはなぜ「お前ら」が「卑怯な」行動をとるのかに対する思慮がない。それは「お前ら(=我々)」が「弱い」からであるが、「強い」人間である三上はその弱さに対する配慮がない。彼は強くなるために、生きるために、弱い人間、つまり過去の自分を否定し続けなければならなかった。彼が歩んできた人生が、彼の視野をより狭く、より強固にしてしまったことが、一つ一つのカットから読み取れる。三上を「強くならざるを得ない存在」に育て、かつ、「弱い者」への配慮を徹底的に欠く存在に仕立てたのは、まぎれもなく彼の幼少期の環境だろう。津乃田の目に映る、母を求めて泣き叫ぶしかない男の子はまさに三上自身だった。男の子は母親によって見つけられたが、三上は母に迎えに来てもらえなかった。そんな男の子が、三上のような強く悲しい男にるしかなかった人生を想像させる、秀逸なカットだった。
原作のタイトルである『身分帳』も、我々、つまり三上にとっての世界が一方的に彼を見たものの象徴である。彼がなぜそうなったか、なぜそのような行動をとるのかへの思慮はない。表面的に切り取られた殺人犯三上という人間がそこには描かれている。それは一方的で、身勝手な見方である。観客の目線を代表する津乃田も、始めはその見方しかできない。彼もまた三上を一方的に切り取り、はじめはその存在に恐怖し逃げ出す。しかし「あんたみたいなのがいっちばん何にも救わないのよ」と言われながらも、結局は逃げずに三上に寄り添う。それは彼が「何も救えない弱い人間」だからであり、だからこそ三上の弱さに寄り添えたのだろう。三上は津乃田という「弱い人間」に寄り添われて、自身の弱さと向き合っていく。彼がシュートを決めた男の子を抱きしめ嗚咽するシーンは「弱さを受けいれる」シーンだと、私は解釈した。
そして介護施設でのあのシーン彼の人間性は、イメージの中で服部を殴りつけたように変わっていない部分もある。だから「人間性を捻じ曲げる」という表現は正しい。しかし私にはあのシーンは、人の弱さに気づき、本当に強い人間となった三上の、弱い人間たちへの配慮のように見えた。服部もまた弱く、阿部もまた弱い。障害を持つ阿部を嘲笑する服部の「似てるでしょ」に、「……似てますかね」と頬を震わせながらひきつった笑顔を見せる。一方的に身勝手に押し付けるのではなく、相手に問いかける。真に強い人間の態度だと感じた。
登場する登場人物が、どれも強さと弱さを抱えたキャラクターとして描かれている。その人々作り出す良いも悪いもないまぜになったこの現実こそ「すばらしき世界」なのだろう。このすばらしき世界で私も懸命に生きなければならない。
西川監督もおっしゃっていたが、切り札役所広司のあまりのジョーカーっぷりにマイナス0.5させていただきます。