「『まぼろしホライズン』」ファンシー いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
『まぼろしホライズン』
漫画家山本直樹又は森山塔の作品が原作。やれ性描写が過激だわ、暴力性や負の側面が強いだわの内容に、世間的にはコントラバーシャルな評価を貼り付けられている漫画家である。しかし自分としてはそのオーバーな表現内容に人間の本質をあぶり出す手段としての手法だと思っているので、そこに描かれる人間の暴力に隠された“姑息さ”、“恥ずかしさ”、“情けなさ”を端的に晒してくれた希有な文学作家だと思っている。リアリティを表現できる引き出しの多さも又山本直樹の特長だ。淡々と冷酷に流れる世界観と、諦観や運命みたいなものに絡め取られて為す術無く流されていく人物像の描写など、シュールと一言では語ることが出来ない“卑劣さ”を画に叩き付けるイメージは、共感性を強く感じたものだ。描かれる女性も又、スレンダーで“ちっぱい”娘で、しかし性的好奇心が強く、女としての自覚を弁えていて、強かさは男の比ではないしなやかさを印象づけ、いわゆる“童貞男”の女神像然と描かれていたものが多かった。だからであろう、代表作である“RED”は彼のテーマと親和性が高い題材であることは容易に想像出来る。
然るに、そんな原作での今作は実は未読なので、どういう粗筋なのかは存じ上げていない。漫画では本当のペンギンという設定を映画では人間として描写している点、そして主人公自体を友人である郵便局員に変更した点を用いてスポットライトをズラす形を取っている。本来、漫画ではペンギンにはモデルがいて、その詩人は身体的に禍々しい状態であった為、その詩に憧れ抱いた女性ファンがギャップに苛まれ離れていってしまうという非常にドライで世知辛いテーマ性をベースに描いている。勿論、本作もそこをバックボーンに描いている節は感じられるのだが、別の要素を強く感じられる作りも試みている。しかし残念なことにそれが中途半端の仕上がりになってしまっているのも又露呈しているのだが。。。それは本作でもキーポイントの台詞として掲げられている「泥舟に乗っていようが、それは全て自分の時間だ」という、運命に嘆くことなく自分の思い通りに生きろとの解釈なのだろうか。しかし実はその部分、本作に於いてその補強や建付けが非常に薄くなってしまっているのも事実なのである。というのも、主人公として再構築された郵便局員がそのキャラ設定上、あまりエモーショナルを感じさせない演出なのである。父親役が宇崎竜童というのも主役が永瀬正敏というのも、その濃いキャラに頼ってしまって奥深さを演出出来なかった、又はストーリーをスカスカに薄めてしまったのが原因かと思われるのだ。父親の仕事場で父親と戯れる女性客、そしてこれ見よがしに多感な時期の主人公にみせつける背中の刺青、そこにかなり歪曲されたリビドーを植え付けられてしまった主人公の性的倒錯を、それでもそれを肯定し自分なりの“スジ”を得られた途中過程を描いていないから、共感性が得られない構造になってしまっているのである。ペンギンというペンネームの詩人と奇妙な友人関係を結んでいるのも、それはお互い通常の人生とは逸脱した者同士のシンパシー、否、共犯関係みたいなドス黒さ故なのだ。最終的にそこが本流の建付けだということならば、前述していた自らの肯定感は、すっ飛んで行ってしまっているのであると思うのだが。
しかし、その“人を食った”構成が本作の真の狙いとしても、その曖昧模糊な描き方はどれだけの観客が理解出来るのだろうか。良く言えば読解力を要求される、悪く言えば視点のボヤけた内容に落し込んでしまったのは残念ながら本音の感想である。濡れ場でのヒロインの騎乗位演技の浅はかさ等、原作の持つ女性の強かさの表現不足、演出下手さも極まって、原作を生かしていない、又は監督としての新たなテーマ性が結びつけられていない“脆弱性”を感じられる感想であった。ヤクザの抗争パートとの関連性の薄さも相俟って、もう少しピンぼけを廃すことに腐心して欲しいと思った次第である。平たく言えば、もっと濃淡が欲しかったということなのだ。それともこれを以て“シュール”という表現なのだろうか・・・
追伸:ネガティヴなことばかり書いてしまったが、中盤の学生時代の父親の戯れを目撃したカメラワークが伏線となって、同じ構図でヒロインが待っている施術部屋へ向かう動きは、主人公の抱くデジャヴ感を醸し出していて、光る演出を作り出していた事は触れておく。綺麗な背中への性癖が美しく描かれている。