「ディズニーの考える「強い女性像」に疑問」ムーラン 東屋さんの映画レビュー(感想・評価)
ディズニーの考える「強い女性像」に疑問
「女に強さはいらない、結婚して家名を高めることが義務だ。男は強くあるべきで、国と皇帝のために戦うことが名誉だ」(意訳)
観る人に反感を覚えさせずにはいられないように、伝統的な男社会とその呪縛を非常にわかりやすく描き、この後ムーランがこんな世界を壊してくれるに違いないという期待を抱かせる冒頭。
悪役かのように思われた魔女も実は強すぎる力のせいで迫害され居場所を失ったはぐれ者であるとわかり、この社会の歪みを示唆しているかのようである。
ところが実際は、紆余曲折を経て男のふりをしていたムーランが女の姿に戻り、超人的な力を発揮し国家に仇なす遊牧民族の長を倒して皇帝を救出、皇帝は女性のムーランを戦士と認め国で最高の栄誉を与え、ムーランを疎んじていた故郷の人々も彼女を誇りに思いめでたしめでたし……という、ただムーランが強い男(名誉男性)になるまでのサクセスストーリーを描いただけの映画だった。魔女は救われず、遊牧民族(匈奴?モンゴル?)もただ滅ぼされ、国の価値観は古いまま。
ムーランが正とされるということは、ムーランのように男のやり方で活躍できない女性のみならず男性をも否定するということだ。
劇中で例えれば、ムーランのように「気」を持たず男を率いることができない女性は結婚して家名を高めなくてはならないし、戦が得意ではない男性には他の道さえ残されていない。もはや弱者に生きる価値なしと断定しているようにすら思える。
ムーランはありのままに生きたから評価されたのではない。ただ強かったから評価されたのだ。
2020年にもなって、男社会の中で男性と同じやり方で男性に勝ち男性に認められるのが強い女であると言われることになるとは思いもよらず、原作があるからといってこんな前時代的な主張を前面的に押し出す必要はなかったのではないか。