「映画作品である以上」劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 マサテツさんの映画レビュー(感想・評価)
映画作品である以上
鬼滅の刃歴は半年。
ブームに乗った形で、アニメシリーズを3回観ました。
作品としての世界観と、中毒性のある物語展開に飽きがこない。
設計されたムーヴメント以上にハマり、ファンになった上での鑑賞です。
そして、一大ブームと煽られて映画。
作画や背景美は実証済みなので納得したのですが、まず持って、日本映画界に金字塔として打ち立てた作品としてハードルを上げて鑑賞するには、足りないものと余計なものが目立ちます。
原作に忠実と聞いていましたが、列車内で煉獄さんが弁当を大食らいするシーンは原作にもあるのだろうか?あったとしたら、意図が不明。
まず、無限列車までのプロセスを知らずしてこのストーリーに入るには説明不足。
ここまでの粗筋的な前段がなければ、知らない人は置いてきぼりを食う。
そして、映画として成立させるならば、この作品は"煉獄杏寿郎"に視点を立てて演出すべきである。
クライマックスへの盛り上がりを膨らませるためにも、途中差し込まれている煉獄の生い立ちを前編に持ってきて、感情移入しやすくさせる。(物語の繋ぎのエピソードとするならば、映画でなくても良い)
炭次郎を主役に立てていることで、観客の心の置き所が散漫になってしまう。
ここは、原作の流れに忠実にしているのかもしれないが、物語としての弱さは「鬼」
下弦、上弦とも個性があり強さは目立ったが、肝心の「鬼の戦う了見」が薄い。
鬼には鬼の理由いや悲しい性がある。
感情移入はできないが、納得はできるという物悲しげさが、BATMANヴィランズのような特徴を鬼滅の鬼にはある。
那田蜘蛛山と比べるとただ強い鬼には満足できなかった。
上弦の鬼アカザが、まんまと逃げる件も、物語的には相討ちにした方が物語として美しい。
炭次郎が、「逃げる鬼に文句を言う」は面白かったが、後にアカザと戦うエピソードがなければ、逃げるは意味がないし、映画的には、シリーズ2で"煉獄の仇"の巻にならなければ逃げた意味が成立しない。
何度も言いますが、日本映画の最高峰に立つ作品であるならば、どんな立場の観客であっても、おいてきぼりにしてはいけません。
原作を脚色してでも、映画として完結させて欲しかったと思います。