「素晴らしい、素晴らしい、ただそれに尽きる。 「参りました」ただそれ...」劇場版「鬼滅の刃」無限列車編 なほこさんの映画レビュー(感想・評価)
素晴らしい、素晴らしい、ただそれに尽きる。 「参りました」ただそれ...
素晴らしい、素晴らしい、ただそれに尽きる。
「参りました」ただそれに尽きる。
石田彰、この人本当にすごいですね。
石田彰というだけで見に行く人も増えるんじゃないのか。
自分はそれもあって見に行きました。身震いがしました。
石田彰だけでも値打ちがあると思います。
日野聡、素晴らしい。この人の演技はなぜこんなにも心を打つのか。
言葉一つ一つに音の魂が乗っている気がします。まさに感嘆。
この二人の死闘に全てを持っていかれた感じがある。
もちろん、その前の炭治郎と下弦の壱魘夢との戦いも見ごたえがあった。
この二つの戦いが、痺れた。見物だった。自分はただただ参った。
自分はアニメに詳しくないのですが一体どのようにこれを作っているのか、気になった。技術なのか、人の手で書いているのか、あまり詳しくないのだけどこれ、
アニメーションで表現出来る素晴らしい技術にただただ感服いたしました。
感服、脱帽、敬服、それしか浮かばない。
スタッフと声優の熱量に、ただただ敬服いたします。
好敵手、とでも言うのか。あかざと煉獄杏寿郎 、いやそんな生易しい関係性ではないのか。なんか自分は見ててこの二人の関係性がとても気になりました。
ただの敵同士ではない。特にあかざは煉獄杏寿郎 に対して物凄く敬意を示している。それがとても印象に残りました。
「もうそれ以上やればお前も死ぬぞ!!」
「お前も鬼になれ、杏寿郎 !!一緒に戦おう!!」
あかざは始めから終いまで煉獄杏寿郎に戦いをやめるように留まるように忠告しますが 煉獄杏寿郎はそれを聞きません。
その煉獄杏寿郎の眩暈がするぐらいの気高さにある一種の頑固さも見えました。
私なら、あかざに誘われたら鬼になるかもしれない。そんな心の弱さもあります。
煉獄杏寿郎はそれを断った。この潔さ。柱としての覚悟をみる。
しかし仲間が戦いの旅路の途中で死ぬのはどうして、こんなに悲しいのか。私も今まで色々なアニメを見てきて登場人物の死を何度も見てきましたが、
毎回思うのがどんな物語の架空の人物であったとしてもそれは悲しい。
もちろん、炭治郎の家族の死も悲しいのですがなんていうのかこのアニメや漫画における物語上の展開で共に今まで過ごしてきた仲間が戦いによって死んでいく、
というお決まりのよくある展開なのですが、どの漫画においてもつらい。毎回身を斬られるような痛みを伴います。
不思議なもので紙の上の人物で創作の人物であり人の手によって書かれた架空の人物なのですがそれでもやはりその人物の死というのは本当につらい。悲しい。
見ている者を打ちのめす。私は小学生の時にふしぎ遊戯という漫画の柳宿という人物が亡くなった時に同じ思いをしました。
人が死ぬということ。それは身近な人の死だけではなく、創作物の世界の人物であっても、同じようにつらくまた悲しい経験になるということを知りました。
鬼滅の刃は子供も見ています。小学生の子たちも非常に多い。
その子たちもまた私がふしぎ遊戯で学んだ時と同じように煉獄杏寿郎の死を通して「人が死ぬ」ということを実感し経験していくのだと思います。
そしてその煉獄杏寿郎を死に追いやった人物である猗窩座というのもまた、我々にとって深く記憶に残る人物なのです。
被害者と加害者、と言う風に見てしまいがちですがこの猗窩座にも人だった時代がある。この猗窩座にも人の優しさがかつてはあった。猗窩座もまた被害者であったと、そういうのを知るとまた見方も変わります。人は不思議なものです。
善悪など誰にも計れないのかもしれません。
人の心というものは簡単に奈落の底に落ちます。炭治郎も例外ではない。
炭治郎も家族を殺された意識が別の方向に向けばあっという間に鬼の仲間になることと思います。それは私たちも同じだと思います。
私たちの心の中に鬼はいつもいます。それを生かすも殺すも自分自身なのかと思います。