プリズン・サークルのレビュー・感想・評価
全25件中、21~25件目を表示
怪物は誰だ
日々ニュースで報じられる犯罪。残忍で、不合理で、利己的としか思えない事件を犯した人間は、まったく理解不能な「怪物」という印象を受ける。
実際、本作に登場する若い受刑者たちも、当初は必ずしも罪の意識を感じてはいない。怪我をさせたのは気の毒に思うが、窃盗は取られる方が悪いのだと。
しかし、TCユニットと呼ばれる少人数の受刑者たちが、輪になってお互いのマイストーリーを分かち合う過程で、彼らは少しずつ子どもの頃の体験や、その時の感情を取り戻していく。
母親に遊んでもらう時間がほしくて、小学校に上がる前から夜の仕事に出掛ける母のために、自発的に家事をこなす少年。しかし母親は疲れてそのまま寝てしまう。
父親が4回も変わり、母親が父親にしか夕飯を作らないため、食事は給食のお昼だけ。友だちからもいじめられ、飼っていた黒猫だけが心の支えの少年。その猫も両親が離婚する際、黙って捨てられてしまう。
家事の不手際のため継父に暴行され、家を追い出され週に一度はベンチで寝る少年。そしてほどなく施設に送られ、施設でも年長者から逃げ場のないいじめを受けている。夢は、一度でいいから誰かに優しく抱きしめてもらうこと。
途中から、私は頭がグラグラしてきた。自分が見ているストーリーは加害者のそれなのか、それとも被害者か?
「私たちが死んだふりをするのは、そうしないと生き延びられなかったからだ」という支援スタッフの言葉が胸に刺さる。身近な「怪物」によってズタズタにされた子どもたちは、心を麻痺させ、自分を「殺す」しかサバイブする術がなかった。
大人たちは、フィクションである『ジョーカー』の不幸と復讐には共感の涙を流し喝采を贈る一方、「リアル・ジョーカー」の受刑者たちは自己責任と甘えの論理で突き放してしまう。その姿勢ははたしてフェアなのか。
私たちがしばしば加害者を「壁の向こうの住人」と思いたがるのは、その方が自分とは違う世界の人間の所業と割り切れ、同情心も湧かずラクだからだ。
しかし、一度でも彼らの手当てされることのなく腫れあがった生傷を見てしまうと、彼らが自分とまったく同じ世界の「隣人」であることに気付いてしまう。
何より、彼らこそが「怪物」とその幻影によって苦しめられてきた「被害者」であり、真っ先に手が差し伸べられるべき存在であると分かる。
そして私たち大人が、ひとたび社会から孤立してしまえば、いつでも自分自身が「怪物」そのものになりうることも。
島根あさひ社会復帰促進センターを知ること
ここで行われている治療プログラム(いわゆるTC)は、孤立していた犯罪者が自分の犯罪を振り返る。また心の軌跡をグループワークを通して、全人的に回復していく奇跡的なプログラムといえる。
監督はアニメや彼らのうちから、湧き上がる感情にひたすら寄り添い、痛みを分かち合おうとしているかにみえる。いや実際そうだったろうと推察している。
日本の刑務所のシステムから受刑者のほんの40人余りの選ばれた特殊なケースとはいっても
これから日本の司法が変わらないといけない根本の教育システムだ。
受刑者も高齢化し安易な囲い込みだけで犯罪が減っていくわけがない。
司法の関係者の皆様どうかこのシステムを広げてあげてください。(切実!)
味わい深いドキュメンタリー
「被害」が「加害」に転じる時
素晴らしいドキュメンタリーである。
最近、イランの少女更生施設を扱った「少女は夜明けに夢をみる」という映画を見たが、この作品はそれに勝るとも劣らない。
監督はもともと「虐待」をテーマにしていたが、探してみると虐待を受けた人間が刑務所にいることが分かったという。
6年かけて撮影許可をとり、撮影は、2014年から2年間。数年かけて編集して、ようやく日の目を見た。
アメリカの事情に詳しい監督は、「TC」というプログラムは、「日本でも有効なはずだ」という確信を持っていたが、今まで日本に無かったため証明ができなかった。
1クルー(3ヶ月間)あたりのTCの参加者は40名前後だが、この映画のメインキャストは4人。年齢は22歳、24歳、29歳、27歳。
罪状(刑期)は、振り込め詐欺(2年4ヶ月)、オヤジ狩りおよび窃盗の常習犯(8年)、傷害致死(6年)、親戚宅への強盗傷人(5年)である。
監督には、声かけ・接触等の、一切のコンタクトが禁じられているが、数ヶ月に1回だけ“個別インタビュー”が許された。
また、「顔」にはモザイクがかかったが、交渉のすえ、「声」は変えずにそのまま流すことができたので良かったという。
まず序章で、刑務所およびTCの概要が語られる。全国で4ヶ所あるという、“PFI”手法による半官半民の刑務所だ。
その後、10章に分けられ、メインキャストの4人にそれぞれフォーカスしたり、彼らのうち2人の対話の映像や、TC修了者で既に出所した人間のようすが描かれる。
映画の途中から、誰が誰だか分からなくなり、ややこしくなるのだが、やむを得ないだろう。
TCの参加者は、映像を見る限り普通であり、特に“凶悪”な人間には見えない。
みな、いったん話し出すと、意外とハキハキとして饒舌であることにも驚かされる。
それは、彼らが自らTCを選び、また、選ばれた受刑者だからだろう。
TCへの参加は「希望制」であり、初犯かつ“犯罪傾向の進んでいない”人間に限られるのだ。
話すテーマは自分の犯した犯罪、および、自分の過去など。
少しずつ心のうちを吐き出していって、「自分と向き合う」ことがTCの目的であるらしい。
しかし、“吐き出す”方法は、このような(a)“グループ・カウンセリング”だけでなく、(b)個別カウンセリング、(c)独りでノートに書き出す、などでも良いはずだ。
集団でやるということは、独りよがりにならず、社会性を担保して、恥をしのんで、言葉を選びつつ語ることが大切だということか?
語る方も語られる方も受刑者であり、彼らの間には、“犯罪”という深刻な共通項がある。
どうもこの辺りに、TCの“効能”がありそうだ。
ただし、集団で行うメリットはそれだけではなく、「リレー形式」で物語を作ったり、他の参加者が“被害者”の立場になって、加害者にもの申すという「ロールプレイ」がある。
驚いたことに、受刑者も“被害者”の立場でもの申す時は、自分のことは棚に上げて、実にもっともな“ツッコミ”をするのである。
善悪の基準を失っていない彼らを見ると、彼らにとって犯罪は“衝動的な病気”ではないかと思えてくる。
映画「少女は夜明けに夢をみる」でもそうだったが、TCあるいは個別インタビューで明かされるのは、4人の不幸な生い立ちである。
父に虐待され、母の記憶は乏しく、施設に捨てられ、そこでイジメを受けた男。
義理の父親が4人もいて、家族は他人のようで、自分をイジメる悪友から離れられず、自傷行為を繰り返した男。
母子家庭だが母の愛を感じられず、次第に暴力に魅せられていった男。
イジメを受け続け、「虐待される方がうらやましい」と語るほど、家庭でも疎外されて育った男。
「被害者」が、長じて「加害者」となっているという構図が、明瞭に見える。
結局のところ、TCは「再犯防止」効果があるのだろうか?
TC経験者の刑務所への「再入率」は、未経験者の「半分以下」というが、詳細は不明である。
窃盗の常習犯は、TCを通じて、自分の盗みが被害者の人生を狂わせるたことを理解したという。しかしそれでも、コンビニに入ると「再び盗みをやりそうで怖い」と語る。
欧米での実績があるとはいえ、もっと事例が集まらないと、何とも言えないというのが現状だろう。
だからこそ、法務省は「事なかれ主義」を排して、コストをかけて、もう少し“実験”すべきではないのか?
“実験”の無いところに、“実証”も無い。
受刑者は約5万人らしいが、TCは全国でたったこの“半官半民”刑務所の一ヶ所だけで、1クルーも40名である。
傷害致死犯は言う。「刑務官は自分を番号で呼ぶが、TC支援員は、自分の目を見て名前で呼んでくれる」。そして、監督との最後の別れでは、「握手をしても良いですか」と。
犯罪が、“幸薄い”生い立ちからくる“病気”の一種である場合は、有効であると思われる。
自分に向き合う
刑務所の更生プログラムの一環として行われている、受刑者同士の対話をベースに犯罪の原因を探り、更生を促すTC(回復共同体)。
このプログラムを経験した受刑者の出所後再犯率は半分以下とか。
アメリカでは50年ほど前から行われているが、日本では1箇所だけ。しかも、このプログラムを受けられるのは日本では受刑者40万人中たったの40人だけという。
そのTCを受けた受刑者4人を中心に、2年かけて撮影したドキュメンタリー。
貧困、いじめ、暴力、親の不在。
環境が悪くても犯罪を犯さない人はもちろんいるけれど、自分の犯した犯罪を振り返ることで、人との接し方がわからない、人の気持ちが分からない、社会から逃げているなど自分が考えもせずに隠してきた気持ちに気づく。その気持ちを言葉にする苦しさ、みんなの前で話す勇気を共有することで、被害者の痛みを感じ、今後どう生きていくか考えられるようになる…みんながみんなうまくいくわけではないだろうけど、話すことで変わっていく受刑者たちを見ていて、なぜTCプログラムがもっと広まらないのか残念に思う。
そして、こういう機会が子どものうちからあるといいのに。
信じてくれる大人がいたら違ったのに、とか、人との関わりがすべてを作っていくんだなぁ。映画に出ていた彼らの今後の人生に幸あれ。
全25件中、21~25件目を表示