「「映画 ランボー」とは何だったのか?」ランボー ラスト・ブラッド pipiさんの映画レビュー(感想・評価)
「映画 ランボー」とは何だったのか?
ランボーという映画作品に何を見たか?それによって本作への評価は大きく違ってくると思う。
ただの肉弾&ミリタリー&バイオレンス映画?それならば、本作にもそこそこの点数はつくだろう。
アメリカンニューシネマの流れを汲む、戦争のPTSDに苦しむ1人の男の生涯?まぁ、それだけがテーマなのならばこの作品が最終作の位置付けになっても納得出来ない事もない。(本当に最後になるかは知らんけど)
しかし、ランボーという一連のシリーズには、それを上回るメッセージ性と価値がある、と思っていた。4作目までは!
これまでの作品に共通していた事は
・ランボーは基本的に戦いたくないと思っている。
・人を殺す事が目的となった事は一度もなく、あくまでも降りかかる火の粉を払う為の手段であった。(特に1作目では直接は1人も殺していない。)
・「自己の尊厳」「戦友」「唯一の理解者」「敬意を抱ける相手」を救出するという「義侠心」によって戦場に再び戻る事。
・敵は訓練された軍隊であり、それなりの部隊を送り込んだとしても成功不可能であろうミッションを、類稀なる戦闘能力で、単体で成功させる。
(1作目も軍は出動している)
・国に見捨てられ使い捨てにされても、苦しみに絶え抜き哀しみを心の奥底に仕舞い込んで、「義の為」に闘う孤高のヒーロー。
・常に社会派のメッセージを含み、世界へと告発してきた。(ベトナム戦争の是非と深いPTSD。日常に戻れない戦士達の悲劇。国家権力の酷薄さ。アフガニスタン侵攻(人口の3分の1にあたる400万人が難民となり、100万人以上が殺され、村落の大多数が廃虚となった)、ミャンマー少数民族への不当かつ残虐過ぎる弾圧。
このような、人道的、社会的メッセージを含み、報われる事がなくとも己の信じる真実と正義の為に闘う。それがランボーだった。(第4作で、もう国家の為には戦わないと心を決めたランボーだが、それでも自身の大義は捨てていない。)
しかし、本作はどうだ?
闘いの動機は義の為ではなくただの私怨だ。
殺人そのものが目的だ。
敵は戦闘のプロフェッショナルではなく、街のチンピラだ。
ランボーの魅力でもある鍛え上げられた筋肉美による格闘はもはや望めない。(年齢的な部分は仕方ないが、同じように娘を殺された復讐がテーマの「ザ・フォリナー/復讐者」では、老いは感じさせるものの非常にジャッキーらしい格闘アクションを見せてくれている。スタローンはこれで良いのか?)
メキシコの麻薬カルテル問題を扱うのはいいが、この描き方ではメキシコそのものに対する悪い誤解を招きそうだ。メキシコの大多数の一般市民は麻薬と縁のない健全な暮らしをしているのだから。友人であるトランプ氏の政策に寄り添い、メキシコに悪印象を抱かせる政治的意図があるのでは?と勘繰ってしまう。
これまで2〜4作目に対しては米国プロ評論家達の酷評などもあったが、個人的には「映画 ランボー」というシリーズはすべて大好きだった。
しかし5作目だけは「こんなランボーならば見たくなかった」と思う。
これでは本当にただの殺戮マシーンではないか!
これまで築き上げてきたランボー映画の価値が崩れ落ちた想いがする。
前作で完結してくれた方がずっと良かった。
もしスタローンにもう一本作る気があるのならば「私情よりも義侠心」に生き、不必要な殺戮は好まないランボーに立ち返って欲しい。
1作目が、何故あれだけの名作として高い評価を受けたのか。スタローンにはどうか思い出して欲しいものである。
今晩は
私はレビューにも書きましたが、”ランボーシリーズと言う冠を外したならば・・”見応えは合ったかな・・、と思いました。
けれど、これもレビューに書きましたが、今作は敢えて映画館では観ませんでした。
何が言いたいかと言うと、老いたランボーは、国家と言う枠から解放され、漸く得た家族に対する私怨を、且つて国家のために磨いた戦闘スキルで晴らす・・、という一市民(ではないですが・・)として、国家ではなく家族のために闘ったのだ‥、という事で”ランボーシリーズ”とは脳内で切り離して、私は今作を有料放送を録画して鑑賞しました。
”もう、休ませてあげてよ・・”と思いながら。
コメントありがとうございます。
スタローンが輝く時って、不屈の精神や己の苦境に立ち向かう時なんですよね。
でもコケる時って、過剰に迷走する時でもあるんですよね。『ロッキー5』や本作然り。
愛する者の復讐とは言え、仰る通りの私怨。
元のランボー像からかけ離れたランボー。
非常に共感致しました。
『トラウトマン』。
スタローンならやりそうです(^^;