「ランボーの悲しみ/ランボー女子」ランボー ラスト・ブラッド Jimmyさんの映画レビュー(感想・評価)
ランボーの悲しみ/ランボー女子
公開初日に観に行った。私としては、自分の父親ほどの年齢の主人公に「うん、凄かったです。ランボーさん、お疲れ様でした。ゆっくり休んでください」との労いの意に尽きるのであるが、数多あるレビューの中には、R-15指定のアクション映画に何を求めているのかと言いたくなるような頓珍漢な批評も見受けられる。また、更に続編があるのではないか、と憶測する向きもあるが、このシリーズ5作目で大団円と思われる。その根拠を示す。まず、本シリーズは鑑賞して幸せ成分の御裾分けを期待するような映画ではないことを踏まえなければならない。すなわち、ランボーの怒りと悲しみと虚無感に満ちた作品群である。怒りは、様々な形で全5作ともに通底している。ラストシーンの虚無感については、「やったぜ」感のある第3作「怒りのアフガン」でかなり希薄になり、次作の「最後の戦場」でピークに達したようである。
悲しみはどうか。悲しみをストレートに表現する所作として号泣が挙げられるが、第1作のラストでランボーはトラウトマン大佐に抱きしめられながらワァワァ泣いた。第4作「最後の戦場」までランボーが泣くシーンはここだけであったと記憶している。一般的に葬儀は悲しみを伴うものであり、葬儀の後、死者は埋葬される。第2作「怒りの脱出」において渓流でベトナム兵に射殺されたコーをランボーが土塚に埋葬する場面があるが、戦場で何十人もの敵を手際よく殺害する彼が人の死を悼む唯一のシーンであった、第4作までは。そう、第5作「Last Blood」ではランボーがさめざめと泣き、愛する人を埋葬するのである。私は、アクション映画としての本シリーズの性格上、ランボーの悲しみをこれ以上に表現することは困難なのではないかと考える。故に、続編はないと推察する次第である。
映画館でなければ見られないものがある。それは他の観客である。今回、私の席と同じ列で右方向にかなり離れた位置に若い女性が腰掛けた。開始5分ほど前だったので、彼氏が遅れて入場してくるのかと思いきや、とうとう最後まで彼女一人で鑑賞した。しかも、後半のランボーが繰り出すえげつない暴力シーンを見てからならともかく、上映開始前から表情が強張っていた。いやむしろ、決然とした面構えなる趣きであった。上映中、時折チラリと横目で彼女を観察したが、ストレートの黒髪はいつの間にかシュシュで束ねられていた。前述したように、第2作においてランボーがコーを埋葬した後、バンダナでロン毛を縛りながら復讐に燃える後ろ姿を彷彿させた。今回のLast Bloodでは極悪カルテルの首領らが拉致した女性たちに向かって「お前らはクズだ」と言い放つなど、絵に描いたような「女の敵」がヒールを演じている。このことも、目を覆いたくなるような殺戮シーンに匹敵する程えげつない、と私は思う。よって、世の男性(私のような主にオッサン)には「ランボーなんか、女子供の観るもんじゃない!」と考える人が多いとしても仕方がない。
それを敢えて、うら若い女性がたった一人で決然として本作を鑑賞する意義とは何であろうか。私が想像するに、彼女は彼氏に裏切られ、もしくは上司等の年配男性に弄ばれ、心身ともに大変傷付いたのであろう。そのような腐り切った男どもを本作の犯罪組織に見立て、自らを復讐の鬼と化した老ランボーに重ね合わせながら、逆襲への決意を新たにしていたのかもしれない。第2作「怒りの脱出」のコストマス監督がDVDの解説編で語っていたところによると、監督は「怒りの脱出」がこれほどヒットするとは思わなかった、と前置きした上で、「現代の大衆は本質的に孤独である。ランボーの境遇も孤独であり、たった一人の彼が強大な敵に向かって諦めずに戦う姿が人々の共感を得たのではないか。」と考察している。どんな逆境でも諦めずに戦い抜く。全シリーズを通して、ランボー映画が放つメッセージはこのことに尽きるであろう。エンディングロールを身じろぎもせずに見つめ、照明の回復と同時に席を立ってスタスタと場を後にするあの女性の強い眼差しが、私にとってもう一つのラストシーンであった。戦え、ランボー女子。