さよならテレビのレビュー・感想・評価
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あくまでドキュメンタリー「風」
テレビ局の報道部を取材した、ドキュメンタリー風映画。 ラストの5分に、この作品の全てがこめられている。 面白いんだけど、露悪的かつ、ドキュメンタリーのふりをした「演出」のやりすぎが、あまり好きじゃない。 これが「テレビを信じる奴がバカなんだよ」と、観客へアピールする意図なら別ですが。 製作が東海テレビなので、違う。 「演出と編集次第で、偽りな日常を見せられるのがテレビだ」というのも、また演出ではないのか、と考えさせるための「罠」なのだろう。 そこが、鼻につく。 1点だけ良かったのは、例のダミーテロップ「岩手県米セシウムさん」や、最近起きた覆面座談会で顔を隠し忘れた、東海テレビの放送事故について逃げずに、ちゃんと伝えたこと。 これは評価できると思う。 テレビ局報道部の仕事がどんなものかは、テレビドラマの『チャンネルはそのまま!』を合わせて観ておくといいかと。
ドキュメンタリーは現実か
満席、補助席の出たポレポレ東中野で本作を観たあとで、ざっくりとレビューを読むとなかなか綺麗に割れていた。割れている原因はどう考えてもあのラストだ。ドキュメンタリーの手の内を晒してしまった禁じ手のラスト。 前も書いた気がするのだけれど、ドキュメンタリー作家は決して「自分の物語」からは逃れられない。この映画に関して言えば、「さよならテレビ」という命題から逃れられないまま話を進め、そして作家としての「物語」の欺瞞を最後に公にしてしまうことで、「自分の物語」を完成させてしまったという、非常にややこしい構図である。 これは「ドキュメンタリーとは何か」みたいな命題に繋がっていて、「ドキュメンタリーは現実ですか?」という作中の問いは非常に的を射ている。私たちが観るドキュメンタリーは「現実」ではない。作り手の「物語」。著名なドキュメンタリー作家でそれを意識して撮らないものはいないのではないか。そしてそれを「現実的に」仕上げるか、「エンタテイメント的に」仕上げるかは作家性の違いだろう。 私はテレビ版を観ていないが、咄嗟の感想は「自分が作った物語への羞恥心」かな、だった。しかし、よくよく考えてみればこれは「観る者を試している」のかもしれない。ドキュメンタリーを現実として観ているものへ現実を突きつける、という作り方。 だから「そんなの知ってる」という人は怒るのではないか。試されたことに。 映画が映した現実は、厳然として存在する今のテレビ局、報道、ひいては社会の姿だ。 中盤からフォーカスが当たる3名は、この社会の中で、自分の表現に迷う者、挙げた拳を振り回せない者、弱く身の置き所がない者という分かりやすい構図を取っている。いわば現実と折り合いが上手くつけられない者。視聴率と三六協定順守を同時に要求する管理層は現実という敵。 しかしその構図は...というあのラストを以て全てを裏切られた訳でもないし、分かってることを言うなよというのをしたり顔に言うのも違うな、と思った。私たちは「現実」と「作られた現実」の両方の一端を巧みに見せられたのだ。結局、伝えるってこんな感じなんですけど、あなたはどうします?という問いとともに。 私だったら...現実であり敵たる「管理職の苦悩と現実」を描くと、この物語は先に進むのかもしれないという気はした。エンタメとしては面白くなさそうだが。
テレビの劣化は、視聴者の意識の低下
ポレポレ東中野は設備は古いし、インターネット予約にも対応していない都内でも有数のおんぼろ映画館である。しかし上映作品の選択は素晴らしい。マイナーだが上質の作品を臆さずに上映する。とは言っても、やっぱりインターネット予約ができないのはマイナスで、現地に行って満席で入れなかった記憶があるために行くのを躊躇ってしまう。去年こちらで鑑賞したのは「誰がために憲法はある」の一本だけだ。これがとても素晴らしい映画で、当方としては最高点の4.5をつけさせてもらった。 さて本作品も決して大手のシネコンが上映しないだろうと思われるレアな作品である。2018年の9月にテレビ放送されたとのことだが、東海テレビはよくこういう作品を放送したものだと思う。特に悪役に見られてしまった編集長(パワハラ)とデスク(保身)は気の毒だ。本当はもう少しまともな人だと思う。 最初の方は撮影の意義ややり方についての疑問や異論が噴出して収拾がつかないシーンが連続し、どうにも不安定な感じだった。テレビ局が抱える問題が、正しい報道、視聴率、スポンサー、そして36協定の遵守など、対立するテーマの克服であるという場面があり、同じことはすべての企業で起きていることである。つまりこのドキュメンタリーはひとつのテレビ局の話にとどまらない。ちなみに36(さぶろく)協定を知らない人のために説明すると、労働基準法第36条には、従業員に時間外労働をさせる場合は労使間で協定を結び、労働基準監督署に届けなければならないと定めている。この協定を第36条にちなんで36協定と呼ぶ。時間外労働は月に45時間まで、年に360時間までと定められている。 その後澤村さんや福島さん、渡辺くんが登場すると追いかける対象が安定してドキュメンタリーの軸ができてきた。3人それぞれのテレビとの関わり合いかたが本作品の主題である。看板アナウンサーである福島さんのシーンはほぼ一般のサラリーマンの悩みであり、派遣社員の渡辺くんは適正と能力の話であった。主眼はやはり澤村さんのシーンだろう。 澤村さんの登場時は斜に構えた人という印象だった。業界で所謂是非物、あるいはZ案件と呼ばれる、クライアントを褒め称えるビデオ、簡単に言うとヨイショ番組を作成している場面である。前職でたくさんやってきたから抵抗はないという澤村さんの表情には、どこか忸怩たるものが感じられた。特に「撮影したらそれが事実なの?」という疑問は、ディレクターには意味不明だったが、澤村さんの哲学の一端が漏れ出したようだった。共謀罪についての取材の場面では、権力の監視者としてのジャーナリストの側面が前面に出て、再び戦争に向かおうとするこの国に対する澤村さんの危惧が伝わってくる。 共謀罪法とは、批判の多かった共謀罪法案をテロ等準備罪法案(正式には「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律」)と言い方を変え、安倍政権が2017年に強行採決で成立させた法律である。澤村さんは「共謀罪という言葉を使わないメディアは権力を支える方を選んでいる」と一刀両断に切り捨てる。澤村さんに従ってこのレビューでも共謀罪という言葉を採用する。 共謀罪について解説すると、現行の刑法犯は未遂でも逮捕される場合があるが、準備の段階では逮捕はほとんどされない。ところが共謀罪は準備よりも前の段階、人に話しているだけで逮捕される。しかも必ずしも複数の人間の共謀を前提としないということで、頭の中でたとえば「安倍晋三に天誅が下ればいい」と考えただけで共謀罪となる可能性がある。驚くことに自首もできるのだ。寒空の下の浮浪者がよくコンビニで金を出せと言って通報させてしばらく留置場に泊まることがあるが、これからはいきなり交番や警察署に行って「実は総理大臣を殺そうと思っている」と言えば、共謀罪で留置場に泊まれる。警察官が受理してくれればの話ではあるが(笑)。 つまり憲法が保障している「内心の自由」は完全に蹂躙されるということだ。たとえばある男性が美しい女性を見る。中には下心がある男性もいるかも知れないが、それは表に出さなければ自由のはずだ。しかしその場に警察官がいて、その男性が女性に何か危害を加えようとしたとして逮捕される可能性がある。下心があったかどうかなんて、取り締まる側の胸算用ひとつなのだ。 共謀罪が濫用されると、そんなふうに女性を数秒以上見つめたら逮捕という世の中になりかねない。女性に限らず、男性が男性を、女性が女性を、または女性が男性を見つめても、権力がそれを共謀だと認めれば逮捕される訳だ。現政権に都合の悪いことを言う評論家がいたら、この手で逮捕できる。そして繰り返すが、自首もできる。寒さに凍えるホームレスが警察署に列を作っている様子が頭に浮かぶ。共謀罪で自首するためである。殆どスラップスティックの世の中だ。笑える話ではあるが、笑いごとではない。 テレビ局員はサラリーマンである。年収は多いほうがいい。澤村さんとディレクターの間で、年収300万になってしまったら恐怖だという内容の会話があった。しかし現在日本の労働者の4割以上が年収300万円以下である。そういう人たちがこの会話を聞いたら、テレビマンはやはり高収入で恵まれていると思うだろう。その高収入を支えているのはテレビ局の収益であり、スポンサーであり、つまりは視聴率である。 タイトルの「さよならテレビ」は澤村さんをはじめとする記者たちのジャーナリストとしての矜持と、利潤を追求する企業としてのテレビ局との相克かもしれない。テレビで真実を伝えることは重要だが、それでは視聴率が取れず、スポンサーがつかない。収益が減少して経営が悪化する。ジャーナリストは霞を食って生きている訳ではない。それなりに収入も必要だし、取材には裏の金もかかるだろう。 ひとつ言えることは、マスコミに真実の報道を求めている人が多ければ、報道番組の視聴率は上がるはずだということだ。テレビに真実を求めていない人は報道番組を見ない。お笑いやドラマなどのエンタテインメントばかりを見るだろう。必然的にそういう番組が多くなる。そして現にそうなっている。旅とグルメの番組が溢れかえっているのは、費用対効果がいいからだ。真剣な報道番組は、もはや需要がないのだ。 イギリスの諺に「国民は自分のレベル相応の内閣しか選ぶことが出来ない」というものがある。これをテレビに置き換えれば「視聴者は自分のレベル相応の番組しか選ぶことが出来ない」となる。澤村さんが主張するハイレベルな報道番組が放送されても、それを見る人はいないのだ。 要するにテレビの劣化は、視聴者の意識の低下ということである。誰も政治や社会に関心を持たない。テレビが事実や真実を伝えているとも思わない。原発で国が汚染されようが戦争が始まろうが自分には無関係だと思う人は、事実にも真実にも興味がないだろう。視聴率が取れなければ報道はますます縮小されてテレビはエンタテインメント一色になる。そしてエンタテインメントはインターネットに溢れかえっているから、誰もテレビを見なくなる。そういう時代がすぐそこまで来ている。まさに「さよならテレビ」なのである。
テレビ業界の現実を知る事は出来たがいかんせん遅すぎた制作過程!
東海テレビのドキュメントは評判が良く私も気になって今日鑑賞した。まず、採点は 4点。いかんせん、制作過程が2016年からは遅すぎる。昨年、映画公開していたらもっと違っていただろう。この点ではマイナス。一番の心配は東海テレビのPRドキュメントになっていないか心配だったが、これはまったく杞憂でさすがドキュメントに力を入れている東海テレビだけの事はある。放送業界の現状の厳しさ、制作過程を追った内容は評価したい。キャスター、派遣記者、契約記者の視点で追ったのは分かりやすいし、このドキュメントはテレビ業界だけでなく、働き方改革、派遣問題など今の日本の問題にもつながる内容で考えさせられた。映画館で観るチャンスがある方はぜひ鑑賞を薦めたい。特に、若い方でメディア関係に就職を考えている人はお薦めします。しかし、このドキュメントにも出てくる澤村記者の報道関係の問題意識は凄い。戦前の報道事情も理解しているし、共謀罪の危険性も分かっているし、報道問題のシンポジウム、勉強会にも参加している姿を見てこういう放送記者が まだテレビ局にいる姿が観られただけでもまだテレビ業界は希望があると感じた。惜しむらくは制作過程が遅すぎた事と、昨年問題になったあいちトリエンナターレ問題を東海テレビがどう追いかけ考えたか検証すれば満点だったが合格点はあげたいドキュメント。
さよなら監督
タイトルから抱いた期待は大きく裏切られました。結局、TV局の中にいる人間が、局や会社組織に気を使っているレベルから一歩も出れていない、あまりに意味のない作品でした。 全編にわたりただカメラを回してるだけの感覚と、作品テーマの薄弱さ、映画監督としての精神性の足りなさが見ていてあまりに痛々しく。ま、深夜のテレビ番組と思って見に行けば、ここまで不快な思いはしなかったとは思いますが...ドキュメンタリー、しかも映画というには厳しすぎると思います。
これは断末魔の叫びか栄光への助走なのか?
新年2日からシネマテークを埋めた満員の観客が息を詰めて見入った のラスト5分。優しく弱い人に寄り添う風だった善人が、優しさの仮面を脱ぎ棄て、世界を自由に切り取り再構成するドキュメンタリストの悪魔的なまで冷たい刃まで暴露し叩きつけた、これは現実への宣戦布告状なのか、あるいはもしかして理想へのラヴレター。 報道部所属の現役TV局員と東海テレビ放送が自己の臓物と恥部をぶちまけたドキュメンタリーと言う名の自爆テロは、理想と現実・職業倫理と組織防衛の狭間で揺れるすべての組織人の心に突き刺さるはず。
面白いと思うけど、中身は薄いような
普段見ることができない所を密着しただけでも面白いとは思うけれど、興味を引くタイトルとうまい具合に相俟って、多くを集客しそして楽しませていたように感じた。 取材対象も抜き取った取材内容も巧みだったし、構成なんかもすごいと思った。超満員の劇場内を沸かせていたのが、この作品は面白い!ということを物語っていた。 しかし、何のために撮っているの?という問いかけに対するその答えがこの作品の全てのような気がして、根底にある志のようなものは非常に希薄なように感じた。最初から最後まで興味深く観賞できたけれど、同時に終始軽いと思いながら見つめていたのも事実。 テレビ局自身がサヨナラと銘打って製作している割には、自分たちが直面している現実を、気づいていないのか無視しているのかよく分からなかったけれど、危機感みたいなものはほとんど感じなかった。さよならテレビってことは、ヤバいってこと何じゃないかなーでもこの作品はそんなもの気にせず面白楽しく見終えたけど・・・といった印象でした。だからこそ、テレビの終焉を感じるところであったし、タイトルどおりの作品だったのかなとも思えるのだけれど・・・
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