「ディレクターは大恥をかく覚悟を決めた」“樹木希林”を生きる 天秤座ルネッサンスさんの映画レビュー(感想・評価)
ディレクターは大恥をかく覚悟を決めた
日本における唯一無二の名優が亡くなって、その喪失感もなかなか癒えぬままドキュメンタリー映画が公開されたので観に行くことにした。希林さんの含蓄のある言葉や、皮肉の効いた風刺を聞いて、何かを得ようと思っていたのかもしれないな、と思う。そして希林さんに密着したディレクターさんも、それに近いような感覚を持っていたのではないかと思う。希林さんから何か面白い話を引き出せないか。希林さんから含蓄のある言葉を引き出せないか。希林さんから社会を斬り込む言葉を聞き出せやしないか。
前半部分は、紛れもなく希林さんの密着ドキュメンタリーである。希林さんはサービス精神をもってしてカメラの前で巣の状態を晒し、ディレクターさんにあれこれと話をして聞かせてみる。希林さんはこのドキュメンタリーのためにサービスをしている。しかしディレクターさんは希林さんにカメラを向けるばかりで、このドキュメンタリーをどうしたいかが分からない。映画の後半は、そんなディレクターに呆れ果てた希林さんに対するディレクターの攻防戦であり、半ばディレクターの自分探しの旅の映画になる。
確かに、これが希林さんのドキュメンタリーか?と問われれば疑問は残る。ただ、ディレクターさんの立場を思うと、カメラの前でここまで素を見せてくれた希林さんの前で、自分が素を晒さないのは筋が通らない、と考えたのも頷けるような気がするし、実際ディレクターさんは自分でもひどく気まずいであろうシーンを思い切って本編にぶち込んだ。格好悪い姿を本編にさらした。希林さんを前にして、あるがままの自分の姿を晒すよりほかないと腹をくくったのかもしれないと思った。それが希林さんのドキュメンタリーを撮る人間の最低限の条件であるかのように。そしてその背中を押したのも希林さんの「自分中心でいいのよ」という言葉だったのだろう。ディレクターさんはこの映画を希林さんのドキュメンタリーであると同時に、自分自身のドキュメンタリーにしようとその瞬間に思われたのではないか。そして全国の観客の前で大恥をかく覚悟を決めたのではないだろうか。でも潔くてそれも良いと思った。
と同時にそれを観ている私自身も、スクリーン越しに希林さんから「あなたは何を求めてこの映画を観に来たの?」と問い質されている気分になった。言い換えれば「お前は樹木希林に何を要求するつもりだ?」という問いである。もちろん答えに窮した。まさか「希林さんから含蓄のある言葉を聞きたくて・・・」なんて答えが成り立つはずもなかった。希林さんのドキュメンタリーを見て何かを得ようだのと思っていたこと自体が浅ましいことだと気づかされたし、そういう心根を見透かされたような気がして、バツが悪かった。