シン・ウルトラマンのレビュー・感想・評価
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人間になったウルトラマンの物語
人間は「自分以外の何かのために命を懸けられる」生き物である。
序盤で、子供を守り殉職した神永の行動は人間特有のものであろう。
ラストでウルトラマンはその身を犠牲にして神永を蘇生させる。
この瞬間、ウルトラマンは人間になったのだ。
ありがとうウルトラマン。
人間を好きになってくれて。
面白い作品と好きな作品は違う
多分シンゴジラの方が面白い作品なのだと思う。
でも明らかにシンウルトラマンのほうが好きな作品。
どんなに論理的に正しくても共感できない人もいれば、
めちゃくちゃな話でも共感できる人がいる。
節々に疑問な所はあるけどラスト涙を流している自分がいました。
劇初小さな命を救うため人間神永は命を散らします。
その行為へのリピアの問いの答がラストへとつながります。
神が人のために死を選びそして死ぬからこそ彼は神ではない。
リピアの命で蘇った神永の目覚めで幕は閉じます。
βシステムを託すためにメモリーをスッと置く時の神永の微笑。
映画史に残る名演技ですので再見時、是非注目してください。
音楽と演出が良かった。
ウルトラマンはほぼ見たこと無かったけど、楽しめました。
クイズ番組で見た「手描きスペシウム光線」や、ウルトラマンが赤白の点滅の中変身する映像とか、
「見たことあるー!!」
って感じで。
あと、これはネタバレになるのかわからんけど、
テーマ(と、僕は思いました)が良かった。
小さくて弱くて群れてる生き物愛おしいとか、
ただひとり、
とか、
が、テーマだったのかな。
と、思ったら、たまらなく悲しかった。
しんどいノブレス・オブリージュか。
と。
光の国で、宇宙警備隊として生きてったら良かったやんけ。
なにしとんの。と。
弱くて群れてて、分かり合えない(分かり合えない訳では無い)(でもそれって、犬と人間間的な、種族を超えるひつようがあるやつじゃん)相手をさぁ、
ちびっこを庇って死んだ神永の姿を見て、なんでかよくわからんけどだいすきになっちゃったんだよね。て。
もー。
誰かウルトラマン氏を救ってあげてくれよ。
とか、
寄り添ってあげてくれよ。
とか、思いました。
痛みを知るただ独りは悲しいよ。
(ウルトラマン氏がどう思ってんのか知らんけど)
誰かー!
面白かったのですが、私たちと関係なさ過ぎた?‥
(ネタバレあるので、映画を見てから読んで下さい)
事前に言われていたCGの問題や庵野さんが監督していない点など懸念材料も結構あったと思われますが、意外に面白かったです。
その点は庵野さんが脚本を書いているからだろうな、とは思われました。
しかし、話は面白くはあるけれども、どうも最後まで私たち(人間)にはあまり関係がない話として進んでいるな、とは思われました。
つまり、禍威獣特設対策室(禍特対)の人間側はほとんど付随的にしか活躍せず、ほとんどウルトラマンと巨大不明生物や知的生命体とで完結する話になっているなと思われました。
これが人間側が活躍した『シン・ゴジラ』と違って、『シン・ウルトラマン』の物語が終わってもほとんどこちらに何も湧き上がらない理由だったと思われました。
人間の無力さを突きつけたいのが理由でそうなったのかもしれません。
であるなら、そんな短絡で人間を描かれても困るなと、観客として響かないのもまた当然だろうなとは思われました。
少なくない人も指摘していますが、映画としてはもっとウルトラマン(斎藤工さん)と浅見弘子(長澤まさみさん)など禍特対との関係性をしっかりと描く必要があったとは思われました。
(それは本来のウルトラマンの描く基本では?との記憶もあります)
惜しい作品になっているなとは思われました。
エヴァ+ウルトラ=シンウルトラマン
最初はエヴァ風味のシーンが多用されているせいで感覚的に実写版エヴァを観ているような錯覚を起こしていたのですが、映画が進むに連れてだんだんウルトラマンになっていきました。
公式で表すならまさに「エヴァ+ウルトラ=シンウルトラマン」といった感じ。
この不思議な融合具合が気になる人はこの映画を観るのに向かないと思いますが、私は割と楽しめたのでこの手法の映画は「有り」だと判断しました。
特に音楽の入れ方、タイミングが凄く良かったです。エンディングでウルトラマンのBGMを多用使用していたのが分かったので「やっぱりか」と思いました。
ウルトラマンの話自体はあんまり覚えていなかったのですが、音楽は何となく聴いた覚えがあったので、劇伴を楽しむ為にも映画館で是非見て欲しい作品です。
あと個人的に長澤まさみさんの巨大化シーンは爆笑してしまいましたww
あのシーンは笑いを堪えるのが非常に大変でしたw
人によってはアレをセクハラと捉えると思いますが、いやでもアレは仕方がないな。
あんなのが街中に突如、出現したらそらみんな動画撮るわwwと妙に納得してしまいました。
ひとつ不満があるとすれば、ED曲の入り方だけかな。
曲のイントロが急すぎて、そこは2秒でいいから間が欲しかったです。
難しく考えず見れる。面白い。
ウルトラマンちゃんと見たことありません。
シン・ゴジラは鑑賞済ですが、正直"難しかった"という印象。
今回のシン・ウルトラマンは、期待せず見に行ったのですが大当たり。
冒頭1分の怒涛の説明、分からせる気のない情報量、まずこの魅せ方に惹き込まれました。
まぁ、神永新二が子供助けに行った時「え、なんでお前が行く?」とは思いましたが笑。
それから中盤までは世界観の広がりを感じ、非常に楽しく、飽きずに見れました。
ただ、終盤の展開はテンプレートなので、先が見えてしまったかな。
ヒーロー物なのだから、もっとしっかりバトルで魅せて欲しかったです。
最初は役者の滑舌が気になりましたが、私が馴染んだのか、役者が役に慣れたのか、途中から気にならなくなりました。
特に演技が素晴らしいのは、主演のお二人と山本耕史さんですね。
なんかセクハラがどうとか言われてますが、え、あれで?って感じです。キャラ付けとして別にありでは?映像表現とは、難しいものですね。
次回作があったらぜひ見たいです。
まぁ庵野秀明さんが監督でやったら、さらに面白くなったのだろうか?とは思ってしまいますが。
ツボにハマったw
いや〜面白かった!
ウルトラマンは子どもの頃見た記憶はあるけど、内容は全く覚えていないので、ほぼ初見、特撮も特に興味はない状態での鑑賞だったけど、なんか昔の特撮を取り入れてる感じとか、逆に新鮮で楽しめた。
笑っちゃいけないんだろうけど、ウルトラマンの戦闘シーンのクルクル攻撃やひたすら固定して飛ぶ感じ、ブラックホール?に吸い込まれる所とか、つい動きが面白くて一人でニヤニヤしていた。
状況でもウルトラマンとメフィラス星人が居酒屋で酒飲んで地球侵略の話を真面目に語ってたり(割り勘とかw)、神永と浅見の噛み合わない会話とか、やけに礼儀正しい外星人とか、個人的にも面白く、分かっててやってるお遊びみたいな昭和感がとても楽しめた。
映画としてはもう少しウルトラマンの地球に執着する動機的な所の掘り下げが欲しかったかなぁとも思ったり、怪獣の出現の原理などももっとあっても大人は楽しめたかも。
最後は人類に託す感じで終わったけど、実際は守るウルトラマンもいないし、全宇宙の外星人に標的にされてる感じを見ると、その後の地球の行く末はかなり心配かな。
何はともあれ意外な面白さにハマってしまったので、また考察動画など見て、見識を深めてから2回目行くかもしれません。
ピンチと肉弾戦成分薄めの「半神」の如きウルトラマンは、庵野の自己投影なのか?
庵野/樋口の特撮シリーズってのは、正直けっこう「ずるい」(笑)作りの客寄せホイホイだ。
現代に生きるオタクでおそらく一番偉い人が、日本を代表する特撮コンテンツを題材に、昔から脳内で培ってきた「僕の考えた最強の●●」を、満を持して発表します、と訊いてスルーできる人間は少ない。まして、シン・エヴァを完結させた庵野がこれから手掛ける仕事には、彼の人生の「総まとめ感」が漂っている。
要するに、このシリーズは、面白いとか面白くないとかの次元を超えて、「まずは観ておかなければならない」マスト感が只事ではない。
封切り前から、その内容いかんにかかわらず、この映画は「勝つ」ことを運命づけられているのだ。
逆にいえば、単なる個人的な「評論行為」を「エンタメ」にまで昇華できる庵野(および実作代行者の樋口)という人は、やはり凄いと思う。
もちろん、「庵野にとっての究極のウルトラマン」の披露は、幼少時(もしくは青春時代)にウルトラマンに接し、それに耽溺した多くの人間にとっての「ウルトラマン」の私的なイデアとのぶつかり合いになる。
誰しもが、心の奥底に持っている、自分だけの「ウルトラマン」。庵野の研究発表を前にすれば、観る者は必然的に「彼のウルトラマン」と「僕のウルトラマン」を突き合わせざるを得ない。「シン・シリーズ」とは、そういう「答え合わせ」の要素を生得的に宿している。
結論から言えば、庵野(と樋口)の呈示した「ウルトラマン」は、僕が私的に思っていた「ウルトラマン」よりも、ずいぶんと「潔癖」で「健康的」で「概念的」な、「健全」なウルトラマンだった。より正確に言えば、「人間くささ」よりは「半神性」を、より前面に押し出した「英雄的な」ウルトラマンだった。
もちろん、次々と襲来する使徒1号、使徒2号みたいな「禍威獣」と、奇妙な起動とぎこちない動きを見せつつ、ときどき「色の変わる」、得体の知れないウルトラマンというのが、びっくりするほどにそのまんま『エヴァ』みたいだというのは、僕も当然思った。ああ、『エヴァ』ってのはロボットアニメだったからその印象が薄いけど、もともとは大学時代に『帰ってきたウルトラマン』の同人映画を自作自演で創っていた庵野からすれば、まるっと「ウルトラマン」オマージュそのものだったんだなあ、と。
だが、『エヴァ』と『ウルトラマン』の比較論に関しては、僕なんかより詳しい『エヴァ』ファンの方がたくさんいらっしゃるだろうし、そういった皆さんにぜひおまかせしたい。
僕がここで触れておきたいのは、僕の、個人的な「ウルトラマン」観だ。
ちょっと気持ちの悪い話かもしれないので、あらかじめお詫びしておく。
幼少時の僕にとって、ウルトラマンは、なぜか性的な興奮と直結していた。
性的には未分化だが性欲はすでに充分に強かった4歳~5歳児の僕は、タロウやエースがボッコボコにされるたびに、不思議なことにギンギンに怒張していた。ヒーローが痛めつけられることに猛烈に興奮していたのだ。たまにウルトラ兄弟が殉職すると、それはもう強烈なカタルシスに襲われた。逆に、ヒーローが順当に勝つと退屈で仕方がなかった。
小学校にあがると、僕の性的興奮の対象は『大江戸捜査網』の梶芽衣子や『江戸を斬る』の松坂慶子のヒロピンに移行することになるが、それでも僕にとってウルトラマンは原初的なエロスと直結したキャラクターであることに変わりはない。
その理由はおそらくはっきりしている。
日本の特撮ヒーローのなかでも、ウルトラマンほどに「ピンチ」を際立たせて作られたヒーローはいなかったからだ。
圧倒的なスペックと、それに反しての「活動時間制限」と、その象徴としての「カラータイマー」。
ショッカーのような雑魚キャラとの殺陣が存在しない、裸と獣の絡まり合う一対一の肉弾戦で、出だしは優勢だが、必ず中盤で「ピンチ」が訪れる。さらにはタイムアップが迫り、ヒーローにとってはぎりぎりの闘いが繰り広げられる。そこで、必殺技が出て大逆転勝利。ここまでがひとセット。
ウルトラマンにおける子供たちの「はらはらドキドキ」を喚起する中核は、無敵の「強さ」というよりは、むしろベイビーフェイス的な「弱さ」だったのではないか。強すぎる「なろう」的な「マシズム」よりは、弱さを併せ持つ「マゾヒズム」が少年の心を揺らしていたのではないか。その意味では、等身大ヒーロー系でいえば、「イナズマン」や「キカイダー」に近い、「やられ方にそそられる」要素が強かったのではないか。そこが、僕の内なる「ヒロピン」属性に響いたのではないか。
もう少し、僕の個人的性癖より普遍的な話に敷衍すると、ウルトラマンは、間違いなく「プロレス」を祖型としている。
これは、東映系のライダーや戦隊モノが「時代劇」を祖型としているのとは、とても対照的だ(あっちは、雑魚戦闘員による「殺陣」をこなしてから、メイン武者の一騎打ちがあって、成敗という典型的な「チャンバラ」の構図を援用している)。
そして、プロレスのもたらす熱狂は、そもそもそのホモソーシャルな外見につい騙されがちだが、実はセックスとのアナロジーによって説明され得る、と僕は常々考えている。要するに、裸どうしの人間がくんずほぐれつして、最初は軽いジャブ(前戯)から入って、しだいに大技の応酬になり、お互いがくたくたになってきたところで「フィニッシュ」して大層気持ちいい、という構造上のアナロジーだ。この興奮を喚起する物語構造は、いわゆる他の「格闘技」のもたらす興奮とは大きく異なっている。プロレスだけが、セックスのまねびとしての(ちょうど性的に無毒化されたワクチンのような)擬似興奮作用を有している。
で、ウルトラマンが「プロレス」を祖型とする以上、ヒーローと怪獣の息を詰めたような(あたりに破壊の限りをもたらす規模の)究極の「肉弾戦」もまた、セックスのアナロジーとしての解釈が可能だ、というのが、つまるところ僕の「ウルトラマン」観だ。
といった話を5歳くらい年上の会社のSFマニアの先輩にすると、「それは君がタロウやエースの再放送をメインで観ていたからそう思うのだ」「ウルトラマンがボコボコにされて特訓して鍛え直したりする流れは新マン以降の付け加えだ」「最初のウルトラマンはもっと『強い』キャラクターだったはずだ」などと、いろいろ諭されてしまったんだが(笑)。
で、この長い前置きを前提に、『シン・ウルトラマン』を観てみると、少なくともここでのウルトラマンが、そういった「ピンチで」「やられる」「肉弾戦の」「プロレス的な」一連の方向性とは、ほぼ対極に位置する存在であることが痛感させられる。
要するに、庵野(と樋口)は僕が幼少時に受容していたウルトラマンの「らしさ」を、ほぼ完全に「スルー」した形で、自らのウルトラマン像を再構築しているのだ。
本作のウルトラマンには、ピンチらしいピンチがない。
敵はドリル怪獣ガボラを筆頭にかなり強い印象を与えるが、そう苦戦しているという感じもしない。
結構な余力を残して、相手を制圧している。
何より、このウルトラマンにはカラータイマーがない。
すなわち、時間制限という最大の「弱点」が克服されている。
正確には、消耗が激しく活動限界があるという話はきちんと作中で成されるのだが、それをカラータイマーという形で「誇示」し、第三者に「見える化」することを敢えて辞めている。
庵野/樋口が描こうとするウルトラマンは、もっと崇高で、もっと半神的な存在だ。
地面に這いつくばりながら、怪獣とのプロレスショーを人間に見せてくれる泥臭い一面より、「人間より圧倒的に高度な文明からやってきた絶対的上位者」としての一面の方を、常に強調して作られている。
『涼宮ハルヒの憂鬱』の長門のように、辞書をぺらりぺらりと読み続けるウルトラマン。
地球人の流儀を「実に面白い」とか、おおよそ上からの外星人目線で評価するウルトラマン。
ザラブやメフィラスと、下等な人類の生殺与奪をほぼ握る「神」の目線で、人類の未来についてディスカッションするウルトラマン。
本作のウルトラマンはあくまで、「外星人」であり、「上位者」であり、ほぼほぼ神様に近い存在である。そのぎこちなさや、得体の知れなさも含めて、「戦闘ヒーロー」というよりは、「友好的宇宙人」の側面が強調されている。
ラストのゼットン戦にしても、同身長の怪獣に惨殺される元版の衝撃と比べれば、横スクロールシューティングゲーのボスキャラみたいな巨大要塞に特攻して墜落する流れは、「痛みを伴わず」「なぶり殺しの怖さがなく」「そもそも殺されていない」。
要するに、このウルトラマンには、生臭さがないのだ。
肩で息をしながら、ボロボロになって闘って、痛みの実感を伝えてくるよりは、
とても、強くて、正しくて、でも無機的で、得体の知れない、知的で健全な存在。
なんだろう? こういう言い方をすると語弊があるかもしれないが、「アスペルガーの神様」っていうのかなあ。
アスペっぽい挙動がマイナス査定されずに、逆に人間を超越する存在の証として前向きに評価されている幸せな世界軸で、逆に「人間を愛してる」とか言っちゃってみせる偉大な存在というか。
もしかすると、庵野は、ウルトラマンという「人と異なる存在」に、「オタク」というアウトサイダーとして生きる自らを仮託しているのかもしれない。
そして、なぜ自分が人と異なるかといえば、それは「人より自分が高次元の存在だから」と、その全てを肯定しちゃいたいという庵野の内的欲求がおのずと現れた結果なのかもしれない。
自分のウルトラマンと庵野のウルトラマンの「ズレ」は当然興味深かったが、「ズレ」ているがゆえにハマり切れなかったのも確かで、その辺が星評価にもつながっている。
さて、中盤でどうでもいいことを書きすぎて、紙幅が尽きてしまった(笑)。
1点だけ、冒頭あたりの長澤まさみの撮り方が窃視的って意見があるみたいだけど、むしろこれって、ダーレン・アロノフスキーが『レスラー』とか『ブラック・スワン』でやってた「尾行撮り」だよね。てか、異常に量の多いカット数とか、窮屈そうなドアップの連続にもアロノフスキーのヒップホップモンタージュっぽい感じがすげえ出てる気がするんだけど、影響関係とか、どうなんだろう。
全体的に、長澤まさみに対してセクハラ的かと言われれば、まあそれはそうなのかもしれないが、最初から言っているとおり、特撮やアニメというのは、性的に未分化な幼児にとっての原初的な性志向と激しく密接に結びついたジャンルであることは間違いないわけで、特撮オマージュで作られた特撮にセクシャルな要素が介入してくるのは、むしろ「当たり前」のことである。
そのセクシャルな内容が、大人の仕事のできる美女(庵野は怒るだろうが、安野モヨコもしくは、安野モヨコの描いた「働きマン」のような女性)を性的対象とした、女体の巨大化だったり、匂いフェチだったり、下からの仰視アングルだったりというのは、むしろ健全すぎて、本当にびっくりするくらいだ(笑)。
少なくとも、少女性や処女性に縛られつづける宮崎駿&新海誠や、ケモ耳フレンズの細田守よりは、よほど「健やかな」フェティシズムだと僕なんかは思うのだが。
追記:この感想を書いてから5日後、売り切れだったパンフの再入荷分があったので買ってきた。
「ネタバレ禁止」との紙帯が巻いてある。外してざっと読んでみた。
まさかの……「庵野」成分ゼロ!
インタビューがないどころか、彼のスタッフ紹介すらどこにもない!
てか、庵野に触れた頁自体、1頁もない! 鷲巣さんや米津くんですら、1頁もあるのに??
「庵野の不在」が帯でバレ禁止にされてる「ネタ」ってオチか??
どうやら、別途販売されている『デザインワークス』のほうに、庵野成分はすべて分けてあるらしいのだが、客にだまってそんなことするか?
これってさすがに詐欺なんじゃないだろうか……「これは樋口の映画」ってことにしたいっていう庵野の意思表示なのかしら。うーむ。なんか釈然としないぜ。
激ヤバ光線!
マルチバース・・・これは私の好きな言葉です。印象に残る台詞もいっぱいありましたが、ほぼ笑ってしまったために覚えているのメフィラスの山本耕史のみ。忘れっぽくてイヤになってしまいます。
オープニングから凄い!絵の具をぐしゃぐしゃにした逆回転からのウルトラQ、シン・ゴジラ、シン・ウルトラマンへとタイトルが変わる!これはTV版ウルトラマンのオープニングも「ウルトラQ」から「ウルトラマン」へと変わるのと同じ。ずっとウルトラQのテーマ曲が流れているのも驚き。そしてウルトラマンの造形。美しさを強調したあまり、カラータイマーが無い!あぁ、これだ。スペシウム133なる元素についてもね、すごく嬉しかった。あぁ、なるほどね。そういう意味があったんですね。などなど。
数々のオマージュとパロディが組み合わされ、『シン・ゴジラ』のように早口言葉で専門用語をまくしたてる。カイジュウは中身が同じ(使徒っぽい)?これは円谷プロがカイジュウの着ぐるみを使い回していたことのギャグなんでしょうか。
宇宙人を「外星人」と呼ぶのも興味深いし、メフィラスが名刺を差し出したり、皮だけの存在だったのも面白い。長澤まさみが巨大化させられたのもオリジナルと同じです(オリジナルではバルタン星人が化けていた)が、それよりも匂いを嗅いで追跡するシーンが最高!あ~~風呂に入ってないのに~
『大怪獣のあとしまつ』では国防大臣だった岩松了が今作では防災庁大臣。『シンゴジラ』でも『大怪獣のあとしまつ』でも外務大臣だった嶋田久作が今作では総理大臣。微妙に絡んでるんですね。そして最後はゼットンの登場。着ぐるみではなく、『エヴァンゲリオン』に出てくるような動かない奴。敢えてマルチバースというワードを使ったことで、『シン』ユニバースの存在さえ想像させてくれた。ゾフィーは当時の児童誌での混同から着想を得たという存在になっていて、今後のウルトラ兄弟の物語はややこしくなるだろうね。
それにしても諸外国との政治的駆け引きや、簡単に外星人と条約を結んでしまう愚かな政治家達。風刺も含んでいて面白かったけど、ちょっとやり過ぎ感があった。特にアメリカの援助。「空想」と名をつけるのなら、もっと違った設定が良かった気もします。それにしても、禍特対の本部ってオリジナルの科学特捜隊と違って、単なるオフィスみたいでしたね。みんなサラリーマン風だし・・・
映画館リピはないけど円盤で確認したいところはある
ウルトラマンと融合したあとの神永の無表情とか、死んだ神永をみる神永(ウルトラマン)とかドッグタグとかよく考えられてるし、巨大化した女性隊員とかいろいろオマージュを感じるし、外星人もウルトラQ味あるし、巻き戻してみたいシーンも多々あったし、多分特撮映画として良い出来だとは思います。
しかし。ハッピーエンドを求める私にはラストが悲しすぎたし、私が半世紀愛してきたゾフィーを返して。
マニアの予備知識が必要?
1966年の初代ウルトラマンのストーリーと大伴昌司監修 「怪獣ウルトラ図鑑」(1968年)の間違いネタが下敷きになったリブートで随所にマニア泣かせの演出が散りばめられた仕上がりになってます。
巨大生物が街を破壊する政府の対応はエヴァ、シンゴジラと共通してグダグダな組織イズムを描きつつも、異星人を国家がどう扱うかが庵野色が濃く出ています。
アクションシーンは中盤あたりがピーク
本作は初代ウルトラマンのリブート作品らしいが
ウルトラマンのことは設定などを知っているくらいで
あまり詳しくないです
個人的に「エヴァンゲリオン」の庵野秀明脚本で
エヴァは好きなので
どのような作品になるのか興味があって見に行きました
ちなみにシンゴジラは見てはいないです
映画で最初に日本に「禍威獣」ドンドンでてきて
それに対抗するため「禍特対」ができる部分が紹介されるが
あんだけ禍威獣がでてきたら、現実だと日本滅びてしまうよなと感じてしまった
最初と2回目の禍威獣は
ウルトラマンによって倒される
ザラブ星人、メフィラス星人らの外星人により
人類をはるかに超えた科学力を見せつけられ
彼らとの交渉を日本は余儀なくされる
そして、ゾーフィが人間を消滅させるために
ゼットン使ってくる
ウルトラマンが一度ゼットンと闘うが
圧倒的な差でまけてしまう
シン・ウルトラマンのゼットンは
巨大でウルトラマンの何倍もあって
そのシーンの絶望感は圧倒的だった
そして、ウルトラマンが残したヒントを人類が活用し
ゼットンをウルトラマンと協力して倒すことで
圧倒的な科学力の差をひっくり返したというのはよかった
アクションシーンについては
メフィラス戦がピークでそれよりあとはアクションシーンは
ほとんどなくなっている
あとは、話の展開がメフィラス星人がでてくるときまで
ちょっと駆け足だなと感じたし
メフィラス星人も途中で闘いをやめて帰っていった
ラストのゼットンとの闘いがあまりにも短かったし
終わり方も唐突な感じがした
それでもウルトラマンを知らない自分でも楽しめる映画だと思った
ウルトラマンと融合する前の主役の神永新二については
ほとんどわからなかったのが気になったが
進化した?ウルトラマン
なかなかでした
観る予定はなかったのですが…
友達が観ない?
と薦めてきたので友達と観ることに
観てよかったです
TVで見ていたころを思い出したり
懐かしく思いました
怪獣がキカイっぽくて
ハイテクなかんじでした
ウルトラマンも細っそりとして足が長く
胸のボタンもありませんでした
進化したウルトラマン
だから…シン.ウルトラマンなのかな?
ても。光線以外新たな武器がなくて
勝てるのか心配でした
そこに四人の力が必要となって
最後はチームプレーでしたね
キャストの皆さんさん
全員とても良かったのですが
なかでも山本耕史さんと竹野内さんが
魅力的だったかな~
映画ウルトラマンではない映画シン・ウルトラマン
過剰に期待しないように、公開からある程度時間が過ぎた頃に、すっごく普通の状態で何気なく適当に映画館に入って「シン・ウルトラマン」を観た。とはいえIMAXで(笑)。ひとこと、映画ですね!ってのが感想。実相寺昭雄演出の作品だけ集めたオムニバスを観た記憶はあるけれど、基本ウルトラマンはテレビでしか観なかったから。いろいろと意見があるとは思うけれど、科特隊が「禍特対」で「禍威獣」とスーツ姿で対峙するっていうところから、やはり「シン」なのだなぁと思った。もう一回観てみようかな、いや、どうだろう、やっぱり観てみようか。特にこの作品は劇場で観る映画だと思うし、家の小さなテレビモニターで観る作品ではない。なぜなら「シン・ウルトラマン」なのだから。
人間愛溢れる大人向け作品
勧善懲悪モノでは無く、異星人(知識のある側)と地球側(知識が無い側)の言い分の狭間にウルトラマンが立っているのが、基本的な構成でしょうか?終盤にゾフィーの言っているセリフが、一方的で且つ、横暴でこんな発言している、いわゆる増長している人達っているなぁ、と思いながらも自分はどうかと考えさせられる。政治ドラマに関しては、賛否両論でしょうが個人的には好きです。
カイジュウは生物兵器で、メフィラス星人が目覚めさせてたのか、と思うと、いわゆる自称インテリと呼ばれる集団の本性が見えました。ヤバくなったら逃げるところなんかが特に(笑)
なお、既存のウルトラマンシリーズを期待して観ると外した感が有ると思います。
おれもオレも俺も!!
おっ、おおおお俺も3日間風呂に入って無い長澤まさみをクンクンしたい!!
序盤の怪獣vs自衛隊はハイライトでは無く時間割いてでも見せて欲しかったな。
中盤以降は宇宙人が日本政府に独自技術の売込み合戦だったので思ってた映画じゃ無かったけど長澤まさみの色気がかなりカバーしていた。
メフィラスとゼットンの扱いは賛否分かれるだろうけど、最後は米津玄師がカッコよく締めたので良いんじゃないかな?
これはヒーロー物では無い
全編CGの戦闘シーンはリアルで迫力がありました。
初代ウルトラマンの好きな人には非常に惹き付けられる出来だったと思います。
そこは良かったので2ポイントです。
でも、全体を通してはがっかりしました。
前半の怪獣との戦いは良かったのですが、面白かったのはそこまで。ザラブの出て来るあたり以降は興覚めでした。
何でこんな政治色が強くて、人間の嫌な部分を全面に押し出したような作り方をするんですかね?
素直に勧善懲悪な話を作った方が良いのではないでしょうか?
こういう話にしないとウケないんですかね?
メフィラスと密約して結果ウルトラマンが悪側になって、しまいにはゼットンで地球を消滅?
ゼットンが光の国の兵器?
何か平成ウルトラセブンの悪い所だけ持って来たような感じで、観終わった後に全く爽快感がありませんでした。
そんな重い話にしている割に、中途半端に遊びの部分が多い。
わざわざカラータイマー無くして、非人間的なウルトラマンにしている癖に、何で猫背でスペシュウム撃つんですか?
あとニセウルトラマン殴った時に、痛がるシーンまで再現して。
あれを痛がるんなら、ネロンガやガボラの光線を平然と受けられる訳が無いでしょ?
ガボラがパラゴンと同じ顔だと言ったり、胴体部は同じで使い回しにしてるとか、当時の製作費不足の苦肉の策に無理矢理理由をこじつけるようなシーンを入れたり。
カルトなウルトラマンファンへの受けを狙ってるんですかね?
それならばまず、「シュワッ!」と叫ばせるべきです。何で無言なの?
そして何より必要なのは、科学特捜隊です。
全員スーツ姿の、直接怪獣と戦わない連中なんて必要ありません!あんな奴らの出動の時に、”科特隊のテーマ”をかけないで欲しい。
ジェットビートルと怪獣との戦いを作って欲しかった。
しょうもない所にこだわるなら、βカプセルを取り難い場所に落として中々変身出来ずに苦労するようなシーンも入れてくれ!
まあ好みは人それぞれなので、この作品に大感激する人も居るでしょう。
ただ、私には受け入れ難い作品でした。
オープニングのワクワク感
オープニングで多数の怪獣のシーンが出てくるのがすごく興奮した。
現代の技術で再現するからもう最高!
しかし、本編に入るとザラブ星人、メフィラス星人と星人ばかりの対決は見てて物足りなく、ガボラに至っては先端がドリルになっていて地中に潜れると言うもう怪獣ではないと心中では叫んでしまった。
ゼットンももはや怪獣ではなく、もっと怪獣との対決を望んでいたのに。カラータイマーは無いけど実質3分以内の対決にしないで科特隊と協力して苦労しながら怪獣を倒すようにして欲しかった。今回は八つ裂き光臨の使用が多かったな。
もう科特隊(禍特対)は存在意味が無かった感じ。
昔でいうキャップ役が西島秀俊さんでやっぱりっていう感じで頂けないし、イデ隊員出してくれよ。
また、流星バッジもただの飾りになってしまった。
それからウルトラマンは声出せよ。「シュワッチ」とか声が無いとすごく無機質な感じ。
なぜ、タイトルバックでウルトラQからウルトラマンに変わりウルトラマンの歌に繋がるのにウルトラマンの歌が無いんだよ。あれが無いとウルトラマンがそもそも始まらない。
最初のワクワク感からは程遠いぼやきになってしまった。
われらは科学特捜隊
ウルトラマンっぽい話しだったよ。
科学特捜隊を禍威獣特設対策室専従班にして禍特対としてたけど、普通に科学特捜隊で良かった気がするな。
地球より優れた文明を持った宇宙人がやってきて、地球人に色々やろうとするよね。
それを「人間は良い奴らだ」みたいに思ったウルトラマンが食い止めてくれるっていう。
原作でも、光の国の人たちは地球を見下してる感あるんだよね。
初代ウルトラマンでバルタン星人が『我々は地球に移住する』って言ったときに、ウルトラマンが『地球人と平和的に共存するなら認めよう』って答えるんだけど、M78星雲から来た奴が勝手に地球代表として答えてんだよって感じがあったの。
その辺の、進んだ文明を持った宇宙人が、まだ劣っている地球人をどう扱うかで意見が分かれたりするところが面白かった。
科特隊を描くところでは、官僚組織の裏側も描いてリアル感出そうとしてたね。
それもあって、スペシウム光線はなんなのか、物理的・科学的に出すことはできるのかって分析もやってる。
でもここはなくても良かったかな。
ゴジラは元から現実に即した対策を打ってるけど、ウルトラマンは少し荒唐無稽だしね。そのまま押し通しても良かった気がする。
ゼットン出てくると寂しいね。「こいつには負けちゃうんだよ」って。
太陽系を滅ぼす最終兵器ってことになってたけど、ゼットンってZから来てるんだっけ。それなら最終兵器でいいね。
色々あっても全体としては、M78星雲からやってきた正義の味方が地球を守ってくれるっていう話で、観てて面白かったよ。
娯楽映画の佳作
自分は、初代ウルトラマンはしっかりファン。
しかしウルトラシリーズのファンではない程度。
頭を空っぽ付近にして観る痛快娯楽映画としては4.0。
脚本的な迫真性や、初代ウルトラマンとの比較ありなら3.5。
どちらにせよ、自分としては、娯楽映画としてもリアリティ映画としてもきびしい出来に見えた「シン・ゴジラ」よりは面白く観られた。
以下、長文にて指摘。
なお、あえて一般的になった旧語を用いる。
<よかった点>
初代ウルトラマンのリビルドが、2022年の映像技術で観られたのは嬉しい。
怪獣や怪人との戦闘は大迫力で、興奮した。
<イマイチだった点>
●ひとつの映画として
・脚本
効果的に繋がっていないと感じる要素が多い。
作戦立案担当官神永(中身はウルトラマン)と分析官浅見は「バディ」を組むことになるが、絆が深まるような段取りがなく、シーンごとに信頼と失望を繰り返すような「制作側の、ご都合言葉としてのバディ」で突き進む。実際、浅見よりも神永の元同僚の方がいつの間にか早く信頼関係が築かれているなどの迷走感がある。
中盤は善のふりをして政府に近づき人類抹殺を狙うザラブ、善のふりをして政府に近づき人類の兵器在庫化を狙うメフィラスが続くが、敵としてスケールアップしているものの直感的には伝わりづらく、中盤同じようなエピソードが繰り返されている印象を持つ人は多いだろう。
結局、メフィラスに人類巨大化装置を返しても「巨大化できる可能性があるので滅ぼす」と決めているゾフィーがいた(浅見が巨大化した時点でこの理論が成立する)ので、メフィラスとの戦いは無意味だった。また、ウルトラマンはゾフィーが現われなければメフィラスに負けていたような描写をされており、ゾフィーに助けられたものの今度はゾフィーがゼットンで太陽系破壊に動くので、茶番に付き合わされている内容になってしまっている。ゼットンはウルトラマンの命と引き換え+人の力で撃退できるが、それだけのことで都合よくゾフィーが心を変えてくれて束の間の平和という結末。後半は茶番的な内容が続いてしまっている。また、作中で描かれたのは「ウルトラマンと科特隊の絆」であり、人間神永と科捜隊の絆が描かれていないから、ラストシーンで「人間の神永」が復活しても、科特隊の面々が手放しで喜ぶとは思えない。新たな怪獣・怪人たちの飛来もゾフィーから示唆されているので、かなり絶望的な状況に思える……という風に、諸々においてうまく流れていない。
なぜ地球1つ潰すために太陽系を消滅させるほどの火球を長々とチャージしてくれるのか、神永のUSBメモリを船緑はなぜ数時間~数日放置していたのか、なぜその解析を待たずにゼットンとの一戦目に向かったのか……などは、「クライマックスを作るため」以外の理由がない(作中世界でのリアリティで考えれば変であり、製作サイドの理由しかない)ので、シンプルに雑。
最後の敵が「太陽系を一射で破壊する宇宙要塞」というのも、盛り上がらないと感じた。様々な作品で大ボスやラスボスを「とにかく大きな敵、言葉上スケールの大きいことをしようとする敵」にしたがるが、「同じぐらいの大きさの人型」より盛り上がる要素がないことは、わかってほしい。
また、光の国が恐るべき思想と約定のもとに宇宙活動をしている組織と発覚するが、そうであるとウルトラマンがなぜここまで地球人に肩入れするようになったのかという点において、遡及して疑問が残る。「弱者をかばって死ぬ生物を、知りたかったから」らしいが、今まで他の星でそのようなことはなかったのだろうかと疑問に思い、没入感を損なった。
・演出
特に後半手前まで顕著だが、浅見に対してなかなか濃い趣味のセクシャルさを感じるシーンが多い。人間が生来的に持つ身体的な美をモチーフにしているのかと思えば、男性や同じ女性である船緑に対してはそういう撮り方がないので、意味不明というか、制作側の下品な趣味要素を見せられたように感じる。そして、そう思えるほどそのやネタが頻度が多い。本筋や映像演出として効果的に絡んでいる要素ではないので、ノイズと感じた。脚本的には尺が足りていない状態なので、浅見の背後を映し続ける登場シーンをあそこまで長々と入れたのは趣味を優先したミスに思う。
●初代ウルトラマンと比較して
初代の脚本や演出をパロディしていた要素は当然に理解する。
しかし、いくらマルチバース世界観?とはいえ、残念に思うアレンジがあった。
・ゼットン
前述の通り、持ち運び可能な、太陽系消滅の超巨大砲台ユニットとなってしまった。
殲滅力は(空想科学読本も踏襲して)スケールアップしたが、初代最終話のゼットンの恐怖感と比べて「怖さ・絶望感」があったかというと、かなり落ちてしまっている。つまり「設定上のもっとすごいものを作ったが、映画上でははるかに弱く見えている」という、55年前の脚本・映像に対する敗北が起きている。
・光の国
各ウルトラマンの故郷だが、本作では「地球人はいずれ自分たちに並ぶ存在になる可能性があるから、大事を取って殲滅することにした」「1億何千万ある、生命を抱える星の1つが消えるだけだ、何も問題はない」という、メフィラスの方がまだ理性的という超理論をぶつけてくる。将来有望な新人がいるから、とりあえず抹殺しておこうという理念で動いているらしいのだ。善悪の段階でわかり合えないのもつらいが、とにかく器の小ささにがっかりする。これだけは、忘れたい出来事。
・結局ウルトラマンの力で勝ったラスト
初代では、ウルトラマンが敗れ、科特隊(人間)がそのゼットンを倒すという結末だった。いわゆる人類の親離れ、独立を描く結末が美しかったと感じている。
しかし本作では、人類も希望を捨てず頑張る展開があるものの、それでなお最終的な決め手はウルトラマン頼みである。外来星人(わかりあうのが困難な相手)と人間の相互理解・共闘による勝利、というテーマに変えたとも見られるが……自分としては、初代のテーマ性の方が好きだった。これは、好みの問題でしかないと自覚する。
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以上となる。
戦闘シーンを楽しみに観る娯楽作と思えば、不満は薄い。
なので、観て後悔したというようなことはまったくない。
光の国の設定が残念すぎるので、このシリーズで続編が出たときに観るかどうかは考えどころ。
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