「強大な「個」の物語か、「ウルトラマン」の物語か。」シン・ウルトラマン すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
強大な「個」の物語か、「ウルトラマン」の物語か。
○作品全体
『ウルトラQ』から『ウルトラマン』へと続いたように、『シン・ゴジラ』から『シン・ウルトラマン』のタイトルへ変わるところから始まる本作。おそらく、『シン・ゴジラ』の世界から地続きであることの示唆だと思うが、これを見た瞬間から『シン・ゴジラ』を前提としながら本作を見始めた。
『シン・ゴジラ』は日本の総力を上げてゴジラと対峙する物語だった。ゴジラに蹂躙される現代日本
が日常生活の一部であるオフィスビル、新幹線、電車が反撃の狼煙をあげる。作戦の立案から準備まで各省庁が、各個人が役割を担う姿が印象的だったし、言うなれば本作で神永が口にする「群れ」の力にスポットを当てた作品だったのだと思う。
本作はそれに対になるような「個」の物語だと感じた。ウルトラマンという圧倒的な個の力は、群れでは叶わない相手にも悠然と立ち向かっていく。今まで諦めなければならなかった怪獣の後始末も、ウルトラマンがすべて解決してくれる。
一方で浅見や滝が味わう無力感にもカメラが向けられる。この無力感はウルトラマンの存在が群れの戦いで戦果を挙げてきた禍特対にも及んでいて、それぞれの自尊心に傷をつける構図にもなっていた。ウルトラマンが敵に回ると地球人が思わされたザラブ戦はその前触れのようでもあって、「個」の強さの危険性を感じさせる。『シン・ゴジラ』から続く「群れの強さ」の物語の系譜が下地にあったから、「個」に対しては信頼と畏怖が入り混じったかのような感情を物語に散りばめているのだと感じた。
しかし終盤に改めて気付かされた。この作品は「個」・「群れ」という概念的なものではなくて、「ウルトラマン」が主役なのだと。人間としての神永と、外星人としての神永。その2つを併せ持つ稀有な存在となった「ウルトラマン」が、性質の異なるそれぞれにどう向き合うのか。終盤に焦点が当たるのはここ一点。
中盤、多くの時間を割いたメフィラスとの対話も外星人同士の「腹を割った話」のような空間を作って、ウルトラマンはどう考えるのか、という方向へ舵を切る布石だったのだろう。
しかし、「ウルトラマン」が主役だとすると禍特対の登場人物の描写は少なくてもいいと思うし(最序盤の禍特対の成り立ちを描くシーンは思い切った省略だったが)、2時間という上映時間ではどちらかに絞るという選択肢が必要だったのではないかと思う。『シン・ゴジラ』の巨災対の主たる面々に対して禍特対の面々は任務に対して明確な役割が明示されてないことが多く、なおさらそう感じた。
○カメラワークとか
・単純な実相寺アングル以外でもナメ構図が多い。序盤は特にそうで、登場人物の手と足の間から…みたいなものもあった。禍特対のメンツの濃さ、みたいな意味合いだっただろうか。
・ザラブ戦で上空から落下する浅見をウルトラマンが助け、ゆっくりと地面へ下ろすカットが面白かった。浅見を見るウルトラマンのカットはあおりのアングルなのに対して、ウルトラマンを見上げる浅見を正面から映すカットはほぼアイレベルの位置でカメラを置いている。本来であれば俯瞰にして「ウルトラマンを見上げる」イメージを強くするカットだが、ここは「神永を見ている」浅見にしたかったのではないだろうか。だから人間のアイレベルでカメラを置いたのでは、と感じた。
○その他
・ラストの残り時間表示の演出は「瞬間、心、重ねて」を思い出して笑ってしまった。時空の間で直立姿勢でクルクル回転するウルトラマンといい、ちょっとシュールに寄りすぎなところがチラホラ。