「自然の中の人間、コミュニティの中の人間の姿」異端の鳥 ao-kさんの映画レビュー(感想・評価)
自然の中の人間、コミュニティの中の人間の姿
本作を“地獄巡り”だと評する声を耳にする。確かに主人公の少年はひたすら酷い目に遭う。肉体的な暴力も受ければ、言葉の暴力も受ける。精神的な暴力も受ければ、性的な暴力も受ける。しかし、これが地獄なのか?という疑問が湧いてくる。それらは地獄というにはあまりにも現実味があり、シーンによっては既視感さえあるからだ。
3時間弱の上映時間、この少年も観客も、ただひたすら耐えるしかない。だが、これほど酷い目にあっているのに、不思議と私はこの少年に何の感情も感じなかった。いや、彼に感情があるように見えなかったというのが正しいかもしれない。映画は少年の目を通して描かれるが、むしろ彼の目に映る人間たちの言動にこそ嫌悪感を抱いてしまう。そして、途中でこれは下界に降りてきた神の使いから見た人間の姿を描いているのではないかというように思えてきた。
そう考えると、俄然この作品の凄さが理解できる。他人を傷つける、他者を排除する、気に入らない人間を力でねじ伏せる、あるいは自分の思い通りにコントロールしようとする。客観的に見れば最低な行為でも、それらは全て人間のどこかにある感情であり、生き物として備わっている本質的な部分でもある。マジョリティーがマイノリティーを排除することは自然であることを“異端の鳥(Painted Bird)”のシーンが象徴する。
そして、途中で少年にも変化が起きる。少年自身も暴力を振るい、盗みをはたらく。生きる上で暴力は必要なのか?という疑問は芥川龍之介の『羅生門』とも通ずるが、同時にこの世では神の使いも暴力に堕ちるのだとも感じさせる。それでも映画は人間のその最低な部分を否定も肯定もしない。ただひたすらに、淡々と自然、あるいはコミュニティの中にある人間の姿として映し出す。
人工言語を用い、ナチス統治下の異国の地を描いた作品であるようだが、差別や分断が進む一方で、過剰すぎるポリティカル・コレクトネスが目に付く今では、これは歴史のメタファーとも現代のメタファーとも捉えることができる。最後に少年が曇ったバスの窓ガラスにある文字を記して映画は終わる。そして、我々は思う。我々は他人の何を知っているのだろうかと。他者の何を恐れているのだろうかと。そして、なぜ異端の者を排除しようとするのかと。