「地獄めぐりの末に少年が見つけるもの」異端の鳥 りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
地獄めぐりの末に少年が見つけるもの
どこか東欧の村。その村はずれに年老いたおばと暮らす少年(ペトル・コトラール)。
村の少年たちに取り囲まれ、抱きかかえていた鶏は生きたまま焼かれ、少年も袋叩きにされる。
そしてしばらく後、おばは急死し、その死体に驚いた少年は持っていたランプを落としてしまい、粗末な家は炎を上げて燃え盛る。
住む場所を失った少年は、暮らせる場所を探して彷徨する・・・
といったところから始まる物語で、予備知識なしでの鑑賞だったので、当初、場所がどこで、時代がいつで、少年がどういう立場なのかがわかりません。
映画は章仕立てで進められ、少年が出あう人の名前を章題としていますが、映画の中でそれらひとびとの名前が呼ばれることもありません。
しかし、観進めていくと、
時代は第二次世界大戦中(末期に近いことは終盤になってわかります)、
場所はドイツとソ連に挟まれたポーランドやウクライナのあたり(撮影はウクライナ。エンドクレジットでわかります)、
少年はユダヤ人、ナチスドイツのホロコーストを逃れんとして、おばのもとに疎開していた
ことがわかってきます。
とにかく、かの地でのユダヤ人への迫害はすさまじく、少年が行く先々ほとんで酷い目にあいます。
時折、少年にやさしく接するひとも登場しますが、その人々はほとんど死んでしまいます。
少年も彷徨の中で生き抜く術を身に着け、彼を酷い目にあわす輩には報復するようにもなります。
地獄巡り・・・そういう言葉がふさわしい少年の彷徨です。
しかし、その地獄は人間の生そのもの。
生と性と死。
人間の原罪、なのかもしれません。
最後の最後、父親で巡り合った少年が自分の名前を思い出すところで映画は終わりますが、名前こそが人間ひとりひとりを表象するもので、ひとりひとりの生きる価値のシンボルなのでしょう。
その意味で、映画の中の登場人物たちは名前を呼ばれないのかもしれませんし、名前と対比する意味で、ホロコーストを逃れた父親の腕に入れ墨された番号が映し出されるのかもしれません。
なお、原題の「THE PAINTED BIRD」は「すり餌」を塗りつけられた鳥のこと。
仲間の群れに放たれたその鳥は、仲間から啄(ついば)まれて死んでしまいます。
(このシーンは映画の早い段階で登場し、少年を暗示しています)
最後に、同じように少年が戦火を彷徨する映画としては、エレム・クリモフ監督『炎628』(1985年)、アンドレイ・タルコフスキー監督『僕の村は戦場だった』(1962)がありますが、両作品の方がトラウマ度が高いです。
理由として考えられるのは、ウド・キア、ステラン・スカルスガルド、ハーヴェイ・カイテル、ジュリアン・サンズ、バリー・ペッパーといったプロの俳優(それも名優)を起用しているせいかもしれません。
とはいえ、この手の映画を初めて見るひとには衝撃度高しですが。