海辺の映画館 キネマの玉手箱のレビュー・感想・評価
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映画館の暗闇の中でなにを視るのか
自宅での鑑賞が続いていたので、多くの作品は、わざわざ映画館で見なくてもいいのではないかしらん、と思うようになってきた今日この頃ですが、さすがに大林宣彦監督の遺作のこの作品を見逃すわけにはまいりません。
尾道唯一の映画館、それは海辺にある古いコヤの「瀬戸内キネマ」。
ピカと稲妻が光り、ドンと雷鳴轟く嵐の中、最終日を迎えることになった。
最後の上映プログラムは「日本の戦争」映画大特集オールナイト上映。
映画を観ていた3人の若者、突然スクリーンの世界にスリップイン!
そこでみた「映画の真実」「日本の戦争の真実」とは・・・
といったハナシだけれど、オープニングから面食らう観客が続出するかもしれない。
先に書いたあらすじに入る前に、監督の分身ような(でもそうでないような)高橋幸宏「爺・ファンタ」が宇宙船に乗って登場し、何が始まるのか、もうてんで予想がつかない。
大林監督の妄想の大爆発なのだが、今回ばかりは妄想ではなかった。
映し出される映像は、おもちゃ箱をひっくり返しても、こうはいかないと思うぐらいのカラフルさ。
で、かつ、(一見)脈絡のなさ。
けれども、「日本の戦争の真実」が描かれている。
戦争といえば、太平洋戦争・・・というのではなく、幕末の戊辰戦争から描かれており、「日本の戦争」がそこから始まったと監督がみていることがよくわかる。
勝ったのは官軍、薩長とはいうもの、実は長州のひとり勝ち。
太平洋戦争で米国に日本は負けたけれど、長州のひとり勝ちは変わっていないんじゃないの、それはいまも続いているのじゃ何か知らんと訝っている。
映画は、時代も物語も登場人物もなにもかも縦横無尽に行き来する。
かつて、大林監督が言っていたことで印象的な事があります。
「映画というものは、止まっている画を動いているようにみせるものなんだけれども、画が写っているのと同じ時間だけ、画と画の間で閉じているシャッターの暗闇を観ているんです。暗闇の間は何も見ていないのではなく、実は、暗闇の中で自分自身を視ているんです」
暗闇の中で視る自分自身、自分自身の心・・・
一見、騒々しく取り留めのない煌びやかな画の連続だけれども、暗闇の中で自分自身と相対する・・・
大林監督、ありがとう!
でも、ひとつだけ文句を付けると、「ハッピーエンド」ではなく、「to be continued... and be happy」がいいと思うんですけど。
なお、後半登場する沖縄のエピソードでは涙が止まりませんでした。
大林監督の映画愛をもれなく受け止めました
今年4月に逝かれた大林宣彦監督の遺作にして集大成。今年の日本映画のベストワンであります。
ここには戦争の愚かさを伝えるという強い思い、そして何より映画への深い愛が在りました。
今日で閉館となる尾道の海辺の映画館。オールナイトの戦争映画特集。煙草と便所のにおい。私もこの映画館の客席に座る。
開始早々『今日も私は映画の中に入る。自分が自分であるために。』なんて台詞にウルウルしてしまう。これは私だけではないだろう。映画哲学とでもいうべき言葉が地雷のように埋め込まれ、それを踏むたびにグッとくる。
ここまで刻むかと思うほど細かく刻んだ映像に大量の台詞。これを鳴り止むことがない音楽に乗せて繋いでいく。もうノリノリだ。そしてスクリーンプロセスを多用した非現実感が『映画は映画である』と主張する。まさに大林ワールド。
ホント変わらないスタイルで嬉しくなる。何度もリフレインされる『嘘から出たまこと♪』というフレーズ。映画という作りものを通じて真実を語ろうとする大林監督の一貫した姿勢をシンプルに表現した素晴らしいフレーズだと思う。
映画の中に入り込む主人公の三人。戊辰戦争、日中戦争、沖縄戦、そして原爆投下前の広島。過去の悲劇を変える術は無いが、未来は変えられるという強いメッセージが在った。
大林監督との最後の真剣勝負を堪能した。とてつもない思いが込められた179分だった。清々しい感動があった。心地よい疲労感が残った。
映画に愛をこめて❤️
これが映画に身を捧げた男の生き様!
私はいったい何を観させられていたんだろう?これが大林監督が血肉を注いで表現したかったことなんだと、真正面から叩きつけられ、圧倒され、そして180分が終わってしまった…。
とにかくコンセプトも展開も斬新、こんな作品、他に誰が撮れるだろう?
なにをどうレビューしたらいいのか解らない。
とにかくとんでもないものを観た。それだけ。
同じ役者なのに、ころころ変わるキャスティング、時代背景、そして中原中也の詩…。
とにかく全員の観客の脳をリカバリーしたような、そんな感覚さえある。
クロマキーを敢えて使っての表現もとても良かった。
そのチープさが、かえって悲痛を表現していたとも思う。
ややや、ここまで書いても整理できないなんて初めてだ。
そしてエンドロールが終わって照明が明るくなるまで、誰一人席を立たなかったことが、
すべてを物語っている気がする…。
大林監督、あなたを理解するには、まだまだ脳が未熟でした。
また改めて観て、何度も咀嚼して、胸の中に受容したいと思います。
どうぞ、安らかに…。
未来へ託した自分の為の自分だけの遺作
大林宣彦という作家の原点であり集大成ともいうべき映画だった。
軽くて、不気味で、エロティックで、細々していて、ノスタルジックで、そして感動的で…。
テクノロジー的な進化を全く感じなくて、途轍もなく古めかしい。しかし、感情や感覚を奥底から揺すぶられるような思いになってしまうのだから、まさに映像マジック。
自分勝手な大林作品のイメージとしては、常に哀しいというもの。であるから、この最後の作品も、哀しくて、どんなに軽く陽気で派手な演出がふんだんに盛り込まれていようと、それがまた感傷を高めているような、そんな辛さを含んでいると強く感じてしまった。
今の日本は巨匠の目にはあまり好ましいものには見えていなかったようだ。
その元凶をただすべく、過去を(複雑怪奇でありながらも)丁寧に再現記録し、未来への強いメッセージを放っている。表現が余りにも独特すぎるので、素直に聞き入れることができないという鑑賞者は少なくないだろうけれど、作家の強い意志や哀しみは存分に伝わってくるはず、多分…長いし複雑で難解なところもあるけれど─。
劇場で寝ててもいいけれど、少しは何かを感じて、作品の雰囲気とは違った未来をつくってほしかったのでしょう。
変えたい過去は無数にあるし、過去を変えようと試みた映像作品は数多ある。大林映画にもあった、と思う。でもそのどの作品も過去を改変したものは無いのでは─。この遺作も、結局過去は変えられず…。でも未来はこれからつくられるのだ!という意志を自分は感じることができた。
すでにその志を受けつぐ者が日本映画を作り続け、これから受けつぐ者が良作を作り上げそしてまた世界を作り上げていってくれることだろう。それが決して哀しいものではないよう、自らもその中に加わっていこう!と劇場をあとにしながら思いに浸る。
大林宣彦という映像作家の遺言
これを劇映画と呼んでいいのかわからないが、大林宣彦という映像作家のすべてが注ぎこまれた遺言と言うべき映像作品。
戦争、チャンバラ、アクション、歴史物、白黒サイレント、ミュージカル、SF、ファンタジー、メロドラマ(そしてヌードシーンも)など、あらゆる映画のジャンルを取り入れ、映画への感謝、敬意に満ち溢れている。
始まりから目まぐるしいカット、音、色、字幕、合成映像の連続で、このままついていけるかと思ったが、偽のインターミッションを挟んで、3時間という長さを忘れて一気に観入ってしまった。
モチーフとなっている中原中也の詩をはじめとした無数の引用とともに、大林監督から私たちに手渡されたこの遺言を、どう受け止め、どう答えていくかが問われていると強く感じた。
とにかく、これだけの作品が作られ、残されたことに対して、大林監督はもちろんのこと、この作品に関わったすべての人に感謝する。
残念ながら合わなかった
大林監督の願い
大変に癖のある作品で、前半はその世界観に入り込めず、失敗したかなと思っていた。しかし中盤から徐々に面白くなり、終盤になるとなんでもない場面にも感動するようになる。前半にばら撒かれたわかりにくいシーンの真意が終盤ですべて明かされるのだ。そういうことだったのか、大林監督!と膝を叩きたくなるいいシーンの連続である。
明治維新の際に活躍した西郷隆盛や坂本龍馬や大久保利通がたとえ現代に生きていたとしても、世の中は決してよくならないと思う。ひとつは、国をよくしたいという情熱に満ちた彼らであったが、彼らのいう国とは国家のことであって国民のことではない。開国直後の日本は欧米の列強に伍していくことが主要な課題だったのだろうが、現代に求められるのは国民が平和に幸せに暮らせる国造りである。人権という考え方が世界中に浸透している時代なのだ。
もうひとつは、時代が彼らを否定したということである。彼らが不慮の死を遂げたのは、結局は当時の国民が彼らを望んでいなかったからだ。時代というものはそういうものである。その時代、その時代に、目に見えない大多数の意志みたいなものが確かに存在するのだ。日本が中国や朝鮮、東南アジアを侵略したのは国民の大多数がそれを望んでいたからである。大林監督はその国民性を付和雷同として一刀両断する。現代に待ち望まれるのは維新のヒーローの再来ではなく、ひとりひとりの自立した世界観なのである。
昔から役人は国民のことを蒙昧であると考えている。啓蒙という言葉の対象は常に庶民だ。「由らしむべし知らしむべからず」という封建主義時代の施政方針も同様に国民を馬鹿にした考え方に基づいている。実は現代の政治家や官僚も依然として同じ考え方をしていて、国民には情報を公開しない。都合の悪いことは教えないのが江戸時代から連綿と続く施政方針なのである。だから学校の教科書では日中戦争や太平洋戦争を教えない。そういう戦争があったことは教えても、その実態については教えない。
映画人は教科書が教えない映画の実態を描いてみせる。百聞は一見に如かずだ。教科書で教わるよりもよほど戦争の本質が理解できる。大林監督は本作品を通じて、戦争映画を見よ、そして戦争の悲惨さを知れ、愚かさを知れ、愚かさの来る所以が国民の付和雷同であることを知れというのである。
本作品では兎に角たくさんの名前が登場し、ひとつひとつの名前がとても大事にされる。全体主義の世の中では個人が重んじられず、個人は全体のための犠牲となることを美徳とせよという価値観に席巻されている。つまりは天皇陛下万歳と言って死ねということだ。対して戦後民主主義の範である日本国憲法は個人主義であり、第13条には「すべて国民は個人として尊重される」と書かれてある。
映画は人生を描くものだから、常に個人が主役だ。名前を大事にするのは個人の人生を大事にするということである。そのあたりの大林監督の覚悟が本作品全体を通じて強く訴えかけてくる。その魂のありようは立派であり、見事であり、悲壮である。だからなんでもないシーンでも落涙してしまうのだ。
さて映画の中ではところどころで中原中也の詩が部分的に紹介される。戦争という言葉が中也の詩の中に出てくるのは本作品で紹介された「サーカス」の他にもう一篇「秋日狂乱」という詩である。
僕にはもはや何もないのだ
僕は空手空拳だ
おまけにそれを嘆きもしない
僕はいよいよの無一物だ
それにしても今日は好いお天気で
さつきからたくさんの飛行機が飛んでゐる
───欧羅巴は戦争を起すのか起さないのか
誰がそんなこと分るものか
今日はほんとに好いお天気で
空の青も涙にうるんでゐる
ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて
子供等は先刻昇天した
(中原中也「在りし日の歌」より「秋日狂乱」の冒頭部分)
本作品はこれからも戦争映画を作り続けてほしいという、映画人に対する大林監督の願いであり、戦争映画を観て戦争の本質を知り、全体主義の陥穽にはまらないでほしいという観客に対する願いでもある。個人を重んじるためには多様性を受け入れる寛容さが必要だ。映画を観て寛容な心になってほしい。しかし現代は世界中にヘイトが蔓延しつつあるように見える。大林監督は不寛容な全体主義が猖獗を極めようとしている現状を危惧していたに違いない。
大林 "・爺" ありがとうございました!
大林 "・爺" ありがとうございました! 嘘から出た実 = 《平和への希求》願い。広がるイマジネーションと歴史、平和も広がればいい! と同時に映画という表現への祝祭でラブレターのように総覧していく、なんたるエネルギー量。戦争映画を中心に多ジャンルに広がっていく映画史と日本史、そして"未来の歴史"を作ることができる可能性を秘めた明日を生きる僕たちに託されるバトン。観客も主体性を持つことできっと"ハッピーエンド"は実現する。だってハッピーエンドは永遠、ハッピーエンドは万国共通なんだから…アンハッピーなことばかりの現実においても。
生涯現役。大林宣彦監督本人も恐らく今度が本当の本当に最後になるかもしれぬという意識があったのか、(とりわけ前作『花筐』はじめ近年の)集大成的かつ明確なメッセージが1ミリの言い訳もなく観客の心を射抜く。と言っても作品そのものは感傷的になることなくキッレキレな大林節・ワールド全開炸裂で、怒涛のカット割と情報量にむしろこちらが付いていくのがやっとというくらい必死。いつにも増してトリッピーな仕上がりになっていて、本当にすごいなぁと脱帽。頭が上がらない根っからの表現者精神とそれを実現するために必要な衰えを知らぬクリエイティビティ(←敵性言語)をお持ちの方だった。こういう言い方が正しいのか分からないけど遺作に相応しい。
宇宙規模で考えれば僕たちはみな同じ"人"なんだから。僕も真っ直ぐなくらいマヌケでありたい、そう思う。
中原中也
今年映画館多分42本目
大林監督の遺言フィルム
色々と大林監督らしかった。当たり前ですけどねw
遺作って言うより遺言。商業映画と言うより、個人記録。intermission以降は映画って言う感じはあったけど、個人的には多弁が苦手なので、しんどかった。脱線して喋り過ぎになってるところを全部切り取りたいw
いずれにしても。
大林監督のご冥福を、心からお祈り致します。
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8/2追記
映画の中に「人影の石」が出てきます。爆心地から260mの場所にあった「住友銀行広島支店」の階段に残された、人が座っていた痕跡とされているものです。
「そこに座っていた人は、余りの高熱で一瞬にして蒸発した」と言う「人体蒸発説」が流布されており、広島市の公式記録誌にも「爆心地から半径500m以内の地域は(中略)ほとんど蒸発的即死に近く(以下割愛)」とあるのですが、そもそも、この「公式」がデタラメです。
地表面温度は最大4,000度まで達したと推測されていますが(大林監督が言った6,000度も盛り過ぎ)、炭化した組織は残ります。
この映画の直前に美甘章子さんの「8時15分」を見たばかりでしたので、ちょっと気になってしまいました。
それに、映画で歴史は学べませんでしょうよ。
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8/19 追記
因みに、爆心地から半径500m以内での被曝を「近接被曝」と呼びます。1972年時点で、近接被曝の生存者は、78名おられたそうです。どれほどのご苦労があった事かを思うと、言葉になりません。
この映画の中での表現には許せないところが有ります。残念な気持ちで一杯です。ちゃんと頑張って生きて来られたんですよ。勝手に死んだことにするなよ。って思いながら見てました。
映画はエンタメ
2019年、尾道の小さな映画館「瀬戸内キネマ」が閉館になる日、オールナイトで上映された戦争映画特集に訪れた観客が映画の世界に入り込んでしまい巻き起こる話。
戦争映画といいつつ歌謡ショーの様なシチュエーションから劇中劇が始まって、現実と映画の世界が一緒くたになり、3人の青年がスクリーンの中に入って、劇中劇の登場人物となっていく。
中原中也を引用しつつ、戊辰戦争から始まり太平洋戦争まで、沢山のシチュエーションと時間軸を行ったり来たりしながら寸劇を繰り返していく流れで、コミカルさと若干の重さが常に同居し、ブラックな表現もチョイチョイはさんでくる。何故か巌流島もw
基本ファンタジーなところに戦争の無情さや虚しさを織り込んでいる感じで、面白いといえば面白いけれど、似た様な題材の寸劇の積み重ねだし、抽象的なところもあって、果たして自分はちゃんと読み取れているのか…。
あらすじに記されている桜隊が登場するのは2時間過ぎてからw
桜隊が登場してからは結構巻き返した感じだけど、やっぱり長過ぎた。
コロナで延期になってしまったけれど、この作品が当初封切りされる予定だった2020年4月10日に亡くなった大林宣彦監督。
オープニングとエンディングのナレーションに一言ずつだけど監督の声が入っていたり、劇中でも二役ぐらいやってたり、なんか色々と感慨深い。
合掌
映画は何を伝えるために在るのか
わかりやすい映画は存在する。
確実に怖がれる、確実に泣ける、等々。
配給側もCMで宣伝し(「全米が泣いた!」)、観客もそう期待して映画館に足を運ぶ。
それは決して悪いことではないし、映画はTVニュースではなく、所詮はエンタテイメントだ。ただ、「親切」の度が過ぎるのもいかがなものかと思う。
やたらとテロップが流されて、過剰なナレーションやコメント、BGMには作り手の「押し付けがましさ」を感じる。まるでワイドショーと同じレベル。きつい言い方をすれば、一種のプロパガンダだ。
わかりやすいということは、確実に作り手が「制作」した見解を一方的に提示し、受け手が考えて選択する権利を奪っている。
「はちどり」のキム・ボラ監督はこう言っている。「観客たちは映画について、豊かに想像を巡らせます。私はすべてが正解だと思っています。作り手の意図とは関係なく、映画にはいろいろ答えがあるのです。」
「過剰演出は観客が望むことだから」と言われてしまっては反論もしようがないが、約ニ時間という制限された時間と空間で、製作側は何を盛り込み伝えようとするかと思いを巡らせ、観客は制限された情報から何を読み取り、思うか、観賞中と後に深く考える。
最後まで大林さんらしさを貫く
大林宣彦監督の遺作。
閉館する尾道の小さな映画館で、現代の3人の若者が映画の世界に入ってしまうお話。
戦争映画特集だったため、江戸時代から、乱世の幕末、戊辰戦争、日中戦争、太平洋戦争の沖縄……「戦争映画」の世界を旅していく。
で、時間経過とともに、白黒サイレント、トーキーから総天然色と映画の進化に合わせた変遷の、ポップな画面作りをしていたので、目が超チカチカしました。
そこには、大林さんのエネルギーと、行き過ぎといえるほどの「映画愛」があふれていました。
あふれすぎて、前衛的にぶっ飛んでいて「よくわかんないよ!」と叫びたくなるくらい。
そのため、万人に薦めるかは微妙。
『花筐/HANAGATAMI』と似たような作りなので、あれが好きな人にはおすすめします。
また、反戦と平和への祈り、大本営発表しかしない政府への恐怖、そして権力に与する付和雷同な日本人の特性への危機感をあらわにした内容。
死の直前まで、自由な発想で若者みたいな新規映像へのチャレンジをし、反骨精神を忘れない、大林さんらしい作品だったと思います。
そしてヒロインの一人に新人を起用し、アイドル的に撮ってたのも大林さんらしかったw
二人称単数での語りかけが重い
驚くほどストレートな反戦メッセージ。
(特に後半は怒涛の畳み掛け)
に見えましたが、実は、
『そこのあなた、映画を見て○○を学んだ』とか『大事なメッセージを受け止めた』とか言ってるようだけども、じゃあ〝今、なすべきことはなにか〟について語るものはあるのか?
と、観客席の不特定多数が相手のはずなのに、二人称単数で直接語りかけられたような重さを感じました。
監督の目には、現代日本人の多くが、空気を読んでばかりで(忖度を優先して)、結果的に付和雷同と言われるような言動を選択しているようにしか見えない、ということなのだと思います。
詩人・中原中也のように近い将来に起こり得るリスクを想像する思考習慣を身につけ、時には自分の中の直観的な違和感をもっと危機感として表現してもいいのではないか。
映画を語る時に、政権や社会への客観的事実に基づく批判ではなく、政治色の強いイデオロギー要素の文脈を取り入れるのは、生理的にあまり好きではないのですが、鑑賞後に少しばかり気になる点を振り返ってみたら、
・明治維新後の長州閥(現首相も山口県にルーツがありますが、伊藤博文や佐藤栄作など在任期間トップ4はすべて山口県出身‼️)の政府要職の独占
・大本営発表のフェイク振り
・現政権の強行的な運営手法(結果的に官邸への忖度が常態化している)
これらのすべてが繋がっているかのように描かれていたと感じられたので、何となく違和感が残りました。監督の意図について実際のところは分かりませんし、ただの思い過ごしかもしれません。
このように、総合芸術である映画にしては、ある意味〝身もふたもない〟ほど直截的メッセージに満ちた作品であるように、私には思えた分、今なすべきことを考えることよりもそちらの印象の方が、最終的には強く残ってしまいました。
作品のあり方として、良いか悪いか、ではなく、一表現者としての監督が、そのようにストレートな表現方法を取らなければならないところまで追い詰められるほど、現状への危機感があったのだと受け止めたいと思います。
ご冥福をお祈り申し上げます。
大林監督はとても大好きな監督さんで、私の青春の1ページを飾ってくださった監督さんです。
ですので、お亡くなりになる直前まで映画を撮り続けられたパワーに心より敬意を表します。
…多くは語りませんが、私はこの映画は好きになれませんでした。描きたいことはわかるのですが、設定にも違和感があり、歴史考証も甘く、クロマキー合成やアフレコのせいか、出演者にまったく感情移入ができず辛い時間でした。
編集も、たしかに体験したこともないものでしたが、私は映画にこんな違和感のある体験は求めません。不愉快に近いものでした。NHKの「歴史が動いた」や「歴史秘話ヒストリア」の編集の方がずっと上だと感じました。
厳しいレビューになりましたが、大林監督の後を追ってがんばる皆様もおられると思いますので、観客として、追悼の意を込めつつも率直な感想を書かせていただきました。
もし、若い方がご覧になって、「戦争の悲惨さ」や「大林監督のパワー」を感じられたのなら、それはそれでよいと思いますが、少なくとも私の世代には受け入れがたい作品と感じました。
今年No.1
お疲れ様でした
監督の底力に圧倒されます
全81件中、61~80件目を表示













