「映画は何を伝えるために在るのか」海辺の映画館 キネマの玉手箱 h.h.atsuさんの映画レビュー(感想・評価)
映画は何を伝えるために在るのか
わかりやすい映画は存在する。
確実に怖がれる、確実に泣ける、等々。
配給側もCMで宣伝し(「全米が泣いた!」)、観客もそう期待して映画館に足を運ぶ。
それは決して悪いことではないし、映画はTVニュースではなく、所詮はエンタテイメントだ。ただ、「親切」の度が過ぎるのもいかがなものかと思う。
やたらとテロップが流されて、過剰なナレーションやコメント、BGMには作り手の「押し付けがましさ」を感じる。まるでワイドショーと同じレベル。きつい言い方をすれば、一種のプロパガンダだ。
わかりやすいということは、確実に作り手が「制作」した見解を一方的に提示し、受け手が考えて選択する権利を奪っている。
「はちどり」のキム・ボラ監督はこう言っている。「観客たちは映画について、豊かに想像を巡らせます。私はすべてが正解だと思っています。作り手の意図とは関係なく、映画にはいろいろ答えがあるのです。」
「過剰演出は観客が望むことだから」と言われてしまっては反論もしようがないが、約ニ時間という制限された時間と空間で、製作側は何を盛り込み伝えようとするかと思いを巡らせ、観客は制限された情報から何を読み取り、思うか、観賞中と後に深く考える。
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