「鑑賞記録」劇場 ハッピー・ホーガンさんの映画レビュー(感想・評価)
鑑賞記録
どうも自分は行定勲リテラシーが低いらしい。いや、正確に言い表すならば、行定作品の女キャラクターがつかめないのだと思う。『ナラタージュ』の有村架純、そして本作の松岡茉優がそれである。鑑賞中は自分自身の理解が追いつかず、そのまま終演を迎えた。
山崎賢人演じる永田の自意識の七転八倒は『何者』の佐藤健を想起させるこじらせ具合で、自己肯定感が低いのに自尊心は高い、大変に共感しやすい人物であった。
反面、もう1人の主人公でもある松岡茉優演じる沙希への理解に苦しんだ。身も心もボロボロになっていく過程、そしてその理由についての理解が及ばなかったからだ。これについては妻との会話によってだいぶ整理され、落とし込むことができた(のろけではない)。
8割方永田のせいで転落していっているように見える沙希が、なぜ永田に見切りをつけられなかったのか。それは、永田という男が、上京して都会の波にもまれていた沙希に、演劇という輝ける場所を与え、愛おしい時間を共に創り上げた存在であったからではないか。理不尽な言動で困らせられても、キラキラした思い出があればこそ自分自身は永田を包み込む存在で在れる。しかし、一歩間違えれば共依存やDVとも取れる関係性の中においては沙希のメンタルも健全を保てず、結局ソウルジェムは濁ってしまった。
永田自身、自分の愚かさを知っているのにも関わらず、それを省みて沙希に報いることは出来なかった。代わりに、人間的なやさしみ、心の器の面積を、ほんの少し大きくすることができた。それは沙希の聖母のような温かみ、いや、もっと言ってしまえば沙希の犠牲によるものだ。
そう考えると、芸に生きる人ってのはまあご勝手でござんすねとも言いたくなる。でも、とどのつまりこのように憤ってしまうのは他でもない私自身に後ろめたさがあって、たぶん、そういう犠牲を他者に、とりわけ家族に強いてきてしまったからなのだとも思うのである。誰も1人では生きられない、人という時は人が支え合ってできている。昔の人はよく言ったものだ。
ラストシーン。自分の人生を観客という立場で俯瞰する沙希と、演劇という人生の中で役を生き続けている永田。これは煉獄から抜け出した者と囚われた者の対比であろうか。自分はそうは思わない。沙希は人生の中でも苦楽が渦巻いているパートから距離を置くことで前に進むことができた。永田は沙希を傷つけ、笑わせられなかった人生を作品という形で昇華することで、悶々と過ごす日々から抜け出すことができた。2人がそれぞれの人生を歩み始めるエンディングは『ラ・ラ・ランド』のそれも想起させられた。
わかりやすい作品は好きです。でもやっぱりたまにはわかんねぇって作品にも出会わないといけませんね。そしてこうやってあーだこーだと考え直すことも大事だと思いました。そしてそこに一緒に見てくれる存在がいるということは尊いことなのだともわかりました(のろけではない)。