実際にアメリカで起きた猟奇殺人事件を題材にした物語のようだ。
当時、誰もが想像さえできなったことをフィクションに乗せた。
サスペンスやミステリー的にこの物語が表現されていることで、事件の背景を際立たせている。
この物語で描かれる「憎しみ」
リジーが持ったこの感情は、継母との反りの合わなさに始まったように思った。
そして体裁を重要視する父アンドリューの態度 「お前は一家の恥だ」
特に強盗と偽って宝石類を質屋に入れた行為に対する罰
大切にしていた鳩をすべて殺し、夕食に出したこと。
リジーの殺意が頂点に達したのだろう。
最終的にそう思えたことでこの事件を計画して実行した。
そして、
良家という身分と財産があっても、なお残る「望み」
リジーはブリジットと一緒にいたいと望んだ。
友人もいない彼女にとって、ブリジットとのひと時は心安らぐ時間だったのだろう。
読み書きを教え本を貸す。
メイドのブリジット
勝手に名前をマギーにされてしまうのは、これが身分の差を象徴するもので、金持ちであれば何でも好きなようにできることを示唆している。
そして保安官の質問に「アメリカでは誰もが恨みを買っている」と言ったリジーの答えは、当時のアメリカ社会を的確に表現していた。
面会に来たブリジットは「私は何も望んでなかった」と言った。
この言葉はリジーの想いと対照的に描かれている。
「生きるために我慢している」
この生きるために搾取され続けているのがブリジットの身分
名前を取り上げられ、働かされ、身体まで奪われる。
ブリジットはリジーのやさしさに心を動かされたのは間違いない。
二人の身分の差は「友人」にはなりえず、そこが同性関係となったのだろうか。
母の危篤から死に至る時間、ブリジットを探し続けていたが間に合わなかったこと。
これもまた、当時の社会というのか身分の差を感じる部分だ。
この身分や貧富の差は、家族を分断する要因でもあるのだろう。
特に財産分与
前半 父アンドリューが、借金を返せない理由で農夫たちの土地を次々に取り上げていったことが語られる。
かつてお金とは金を預けていた証書であり、金本位制の延長線上の取引を認めたものだ。
しかし現在この金本位制は取り払われ、管理通貨制度(不換紙幣制度)を採用している。
これは、通貨の価値が政府や中央銀行の信用に基づいているが、そもそも1971年のニクソンショックが原因だ。
しかし、今でも住宅ローンが払えなければ家は銀行に差し押さえられる。
では「管理通貨制度のもとで、なぜ住宅ローンを払えないと家が差し押さえられるのか?」
金本位制では、通貨は「金」という実物資産に裏付けられていたため、貸し借りには「実物の価値」が関わっていた。
だから、返済不能=担保(家)を差し出すのは直感的に理解しやすい。
管理通貨制度では、通貨は政府の信用に基づく「信用創造されたお金」。
銀行は預金の一部を元にして、何倍ものお金を貸し出す(信用創造)ため、「実体のないお金」で家を買い、返せないと「実体のある家」を失うのは不公平に感じられる。
「実体のないお金で実体のある資産を奪えるのは、果たして公正なのか?」
これを感じてしまった。(完全に脱線です)
さて、
このミステリーの見どころはやはり両親の殺害シーンだろう。
二人の女優が脱ぐこととホラー的な猟奇殺人
この組み合わせはエロスと恐怖を二重で感じる。
また、
ブリジットはメイドである故、ご主人様たちに従うことが生き方でもある。
ブリジットが見せた自由意志は、母の訃報の時だけだったように思う。
「生きていくための我慢」
ただそれだけだったのだろうか?
読み書きや友情 または愛情
余計な詮索をせずにただ仕事をこなすこと。
しかし、リジーの事件に巻き込まれてしまった。
ブリジットにとって、肉体の搾取はこの上ない苦悶だったに違いない。
しかし、我慢していればよかった。
ここでまた明日も生きて行ける。
ブリジットにとって、今日を、そして明日を生きることがどれほど大変なのかが窺い知れる。
それだけで精一杯なのだろう。
そして、リジー
金銭や身分に恵まれていながら感じる理不尽さ。
リジーにとって自分の自由意志を奪うものこそが敵
この精神的苦痛に加え、言うことを聞かなければ精神病の施設に入れると暗に脅され続けている。
「男は無知で構わないけど、女はダメ」とブリジットに言う。
当時の女性にたちは、男どもは頭がいいと自負しているが、いつか逆転して見せると思っていたのだろう。
叔父のジョンとの会話に何度もそれをうかがわせる部分が登場していた。
表面上の身分はあっても、結局は男に虐げられて生きていたのが当時の女たちだった。
この構図は昭和時代にも見られた。
キャリアウーマンという言葉 1970年代
対照的だったのが良妻賢母のような女性像
抑圧された女性が反旗を翻すのは、西洋的に見える。
その方法が殺人
当然財産も目的だった。
物語の終わりに、それぞれの人生がナレーションされる。
それが余韻となっている。
しかし、事件が何かを変えたかと言えば、そうではなかったように思う。
男性社会 女性蔑視に対する一矢は、やがて単に消え去ったのだろう。
実際に起きた猟奇事件を、当時の社会を背景にフィクションとしたことで、あの一矢が初めて歴史の一部だったと感じるのだろう。