「死が究極の否定ではなくなった時代の象徴としてゴダールは死んだ」気狂いピエロ 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
死が究極の否定ではなくなった時代の象徴としてゴダールは死んだ
1 映画作品について
本作を最近初めて見たのだが、実はちっとも面白いと思わなかったのである。
聞けば、本作はそれまでの映画と関係者(制作者、評論家、マニア)向けに既存映画のルールを破って見せたものだから、既存映画のルールに通じていない小生のようなド素人には面白くない、ということらしい。
仮にわからない人が面白がるとしたら、俳優たちの身に着けているファッションとか女優の魅力、文学作品の引用等、表面的なレベルで面白がってみせるしかない。そうした表面的な「魅力」の部分を取り上げる人ばかり見てきたせいで、小生の中ではゴダールは知的スノッブ向けの知的スノッブ監督という固定観念が出来てしまった。
そうした表面的な「魅力」は、時代が離れれば離れるほど陳腐化していくから、評価されにくくなってくる。他方、いわば楽屋裏を見せたり、壊したりということが、何故そんなにプロ受け、マニア受けしたのか、というわからなさはますます大きくなっていき、優れて情況的映画の「情況」を語る人もいないとするなら、ゴダールの作品は映画史の中に埋もれていくだけかもしれない。
2 ゴダールの死
そのゴダールが9月13日に死んだ。享年91歳。死因が自殺幇助というのは、それがさも当たり前のことででもあるかのように報じられたのは、何やら象徴的ではなかろうか。彼の好きだった文学的引用で言えば、エリオットの詩がすぐ頭に思い浮かんだ。
エリオットの代表作『荒地』のエピグラフはこうだ。
「クーマエというところで一人の巫女が甕の中にぶら下がって暮らしていたのを実際に私は目撃したからだ。街の少年たちはいうのだ『巫女さん、あんたは何がしたいのだ』巫女はいつも答えた『わしは死にたいよ』」(ペトロニウス『サテュリコン』)
この後すぐに、あの有名な「4月はもっとも残酷な月」というフレーズが始まるわけで、「死」が否定の極致であるという前提で、死の匂いに包まれた時代に生を模索するのが『荒地』だった。
この詩が書かれてちょうど百年後の今年、ゴダールは自ら死んでいった。不死の呪いをかけられたクーマエの巫女と同じように、医学により生命維持の呪いをかけられた現代社会の中で、呪縛をほどくようにして喜ばしい死を迎えたのだと思う。
死が究極の否定ではなくなった時代の象徴として、ゴダールは死出の旅路についた。小生は彼のファンではないが、儀礼だから弔いの言葉をかけよう。
ボン・ボヤージュ、ムッシュ・ゴダール