「ここユキさんち?雨、あがったんだね。」静かな雨 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ここユキさんち?雨、あがったんだね。
中川龍太郎監督の映画には、いつも慎み深い若者が出てくる。それは、遠慮なのか、卑屈なのか、諦めなのか、どこか精気の薄い印象から始まる。そしていつもそれとは異質の他者に触発されて、歩みだす。けして派手ではない。他人からしたらたいした進歩もみえないようなこともある。だけど、本人の内面は格段に成長を遂げている。心が豊かに。その静かな過程を見届けているこちら側の心を、たっぷりと温かな水で満たしてくれるように。
中川監督は、”過ぎる”演出はしない。そこは観客が自分の世界を作り上げるところ。だから、なぜ行助が足を患っているのか、こよみが鯛焼き屋を営んでいるのか、は不要。そのおかげで劇中の気づきのたびに、はっとする。時には胸が苦しくなるのだ。
まだ知り合ったばかりの行助が階段の下でサヨナラをしたのは、その足のせいだったのだろうか。僕はそこに彼の自尊心を見た。この人には蔑まれたくないという虚栄を。そしてそのとき、静かに雨が降り出したのだ。そこがうまいんだよなあ(ここは原作と描写が異なっていた。個人的には映画のほうが好み)。これで、毎朝聞いてくるこよみの問いかけが活きてくる。切なく、狂おしく。おまけに母親の「ああいい天気やなあ。何があっても、晴れるんやなあ。」までも脳でリフレインされて、餡子に足した絶妙な塩味のようになっているし。じゃなけりゃ、フライパンにポタっと落とした二つ目の卵で泣けるか?って思う。そして僕だったら、行助のように、また、いちから繰り返される日常に耐えられるのか?って自分に問いかけている。
”シーシュポスの岩”のような日常を受け入れていた行助。昔の恋人は忘れることがないのに、自分との思い出は毎日リセットされる苦痛が彼を襲う。それは屈辱でもある。だからあれほど感情をあらわにしたのだ。苦労を嫌がったのではなく、こよみの世界の中に自分が存在しない虚無感が、彼の心を荒らしたのだ。そこで目にしたブロッコリのメモが、リスの貯食行動とリンクされる。それはこよみの、行助の嗜好を忘れまいとする努力と、それが成さない無力。行助でなくたって胸が苦しくなってくる。それと同時に、隠し味のザリガニの話も老人の日記の話も、一緒に頭の中で煮込まれていく。そこに、ドローンでバーンと住宅街の向こうに現れる朝焼けだ。それはまるで、未知でまだほの暗い二人の未来。スクリーンに圧倒されて、眼を見開き、画面をも吸い込んでしまうかのように、大きく口を開けて息を呑んでしまった。落ち着いた僕は、大丈夫、二人の世界は同じじゃなくても、しっかりとお互いの世界にお互いは存在しているよ、と声を掛けたい気分だった。
帰り道、原作本と立原正秋『冬の旅』をさっそくポチり、スーパーで小豆とザラメ糖を買った。