劇場公開日 2019年9月27日

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「個性と自由を認める社会風土」パリに見出されたピアニスト 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5個性と自由を認める社会風土

2019年10月6日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 世間知らずの青年が大人に翻弄されながら、少しずつ自分の道に気づいていき、逆に周囲に影響を与えつつ成長する物語である。卓越した才能が見出されたのは幸運であり、人はそれを運命と呼ぶかもしれないが、客観的には偶然以外の何ものでもない。
 才能というのはひと言で言えば、そのことが他に替え難く好きなことで、歌が上手な人は四六時中歌っているし、釣りの上手い人は年中釣行に出掛ける。人を騙すのが好きな人や留守宅に侵入するのが得意な人もいるだろう。善悪は別として、好きこそものの上手なれで必ず上達する。そして壁が訪れる。その道で食べていけるかどうかの壁である。
 詐欺師や泥棒は実利のある才能だからそれで生きていけるだろうが、音楽や芸術はどんなに才能があっても、それで食っていけるかどうかは世間の評価次第である。いまでは何百億円もする絵が画家の生前には発表されることも少なく、売られもしなかったという話もある。
 音楽の演奏家の場合は生きている間に評価されないと意味がない。コンサートに沢山の人が来てくれて、その多くが演奏に感動してくれることが目標だからである。音楽は人が演奏するから美しい。将来はAIが正確無比な演奏をするかもしれないが、熱量がないから誰も感動しないだろう。
 本作品の肝はそのあたりにあって、人がその人生を背負って演奏するから、昔の曲が現在に蘇る。個々の演奏者なりの解釈、個々の指揮者なりの解釈により、クラシックの名曲たちは常に変化していく。だからクラシックはいつも新しく、コンサートに人が行く理由となる。
 フランスは芸術と哲学の国だから、個性に対して常に寛容である。その演奏家の出自がどうであれ、演奏するチャンスは与えられるし、演奏のみによって公平に評価される。権威や権力に高圧的に支配される時代でも、芸術は誰に対しても平等でなければならない。そういう精神性のある土壌が羨ましい。権威や権力に極端に弱い精神性の国民が住む極東の小国では、同じ条件の主人公がいても、決して表舞台に立つことは出来ないだろう。
 既に日本ではあいちトリエンナーレの事件がに象徴されるような、表現の自由に対する弾圧が始まっている。これがどれほど恐ろしい事件なのか、歴史が明らかにしていくだろう。本質はナチスと同じだからである。日本の芸術家全員が声を上げなければおかしい。浅はかなパラダイムに引きづられて表現の自由を投げ出してしまうのは芸術の自殺行為だ。

 本作品はプロットでは若干ご都合主義的な面はあるが、芸術と表現の自由、それに人間の生き方の自由を認める社会風土が伝わってきて、心を和ませてくれる映画に仕上がっている。差別と格差とヘイトが社会風土の主流となってきている現在の日本の息苦しさの中で、一服の清涼剤のようであった。

耶馬英彦