家族を想うときのレビュー・感想・評価
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ニューカッスルのマンUファン
観た映画のチラシを保存することにしたのは昨年からです。だって、何を見たのか、それがいつの映画だったのか、誰が出てたのか等々。全然、記憶できなくなってしまったから。尚、パンフは滅多に買いません。数えてみると、今年は5冊です。でも、取ってるだけで、どちらもあまり見ないw
でね。珍しく、今、この映画のチラシを眺めてるんですけど。
「家族を守るはずの仕事が、家族を引き裂いてゆく」
まぁ、確かに。でも、仕事が引き裂く訳じゃない。しかめっ面で遅く帰って来て、カリカリして怒り声を上げてる、お父さんの態度が問題なんですけど。
「それでも負けない 気高く力強い絆を描く感動作」
確かに、母子三人については、そんな感じでしたけど。でもでも、負けてるでしょ。判って無いでしょ。お父さん一人が。
「今を生きる私たちを吹き飛ばそうとする嵐に、名匠ケン・ローチ監督が正面から立ち向かう」
いや、この作品を「立ち向かう」って言うのか?それはぁ、ちょっとぉ、違うと思うぅ。
「いったい何と闘えば、家族を幸せにできるの?」
そんなん、オノレ自身や無いの。「吹き飛ばそうとする何か」に負けないココロで家族と向き合えば良いのであって。
マンチェスター・ユナイテッドがマンチェスター・シティに優勝をかっさらわれた、と言うか、逆転優勝を逃したのは2011-2012シーズン。イングランド・プレミアリーグの最終戦。アウェーでサンダーランドを下したマンUは、ホームでQPRに1点差で負けていたマンCの試合終了を待っていました。このままシティが負けるか引き分けなら、マンUの優勝。ところが。シティはロスタイムの4分間で2点を奪い逆転し優勝します。同点弾を叩きこんだのはセルビアモンテネグロのエースだったジェコ。逆転弾を奪ったのが、アルゼンチン代表FWのアグエロ。
ニューカッスル・ファンの男は、このゲームのことでマンUファンであるリッキーをからかいます。でもね、「ルーニーの増毛問題」や「サー・ファーガソンの後任であるデイヴィッド・モイーズやルイ・ファン・ハールがグダグダなサッカーをさせた事」などなど。もっともっと、マンUファンの血を逆流させるネタは、他にもたくさんあるんだけど。ちなみに、今ニューカッスルには武藤嘉紀が所属しています。フーリガンの国、イギリス。サッカーの話で、顧客とマジで言い合いをする場面は、リッキーが労働者階級の典型である事の描写です。
最近、救われる気分にしてくれる映画が好き。逆がダメ。丹念に撮られた、リアリズムに満ちる「ある一家庭」の物語は、恐ろしく長さを感じる100分の物語。救いのないラストに、薄暗いモノだけが、心の中に沈んで行きます。奴隷契約のオーナーフランチャイズ制は、英国内の労働問題、雇用問題の厳しさの象徴なのでしょうね。
手に入りそうだったマイホームを、金融ショックのあおりであきらめざるを得なかったリッキーは、焦りで自分を見失っている。ただ昔の父親に戻って欲しい、自分を大切にして欲しいと言う家族の想いは、全く届かず。家族の為だと言いながら、VANを運転し仕事に向かうリッキー。
救いが無い。ほんのちょっと、何かを示唆するだけでも良いので、明るい気持ちにさせてくれるモンが欲しかった。
私たちは闘っている。社会的な成功は無くとも、幸せを感じられるモノを持っていれば良い。それを守るために闘っている。そんなんを、暗に期待してたので、かなり寂しい終わり方でした。
いずれにしても。ケン・ローチ、って言うか、脚本書いた人は、マンUファンの気持ちが全然分ってない人だと思いますだ!
警鐘、またひとつ
今年の観納めはこの作品だった。
「わたしはダニエル・ブレイク」より泣けた。
貧困にあえぐ家族の日常生活(とはいえ、アジアとか中南米とかに比べたらまだマシか?)が、「わたしは〜」同様、淡々と描かれながらストーリーは進む。
何か問題が起き、ホッとしたかと思うとまた問題が。その繰り返し。
優しい奥さんが電話で上司を罵倒(優しいけどね)するシーンはスカッとしたけど、この後家族は乗り越えたのか?
真面目な父親、母親は優しさに溢れ、息子(声が良い!)も何だかんだ優しいし、家族想いの健気な娘。
必ず乗り越えて幸せになって!
そう願わずにはいられないエンディングだった。
いろんなこと考えさせられ、利便性ばかり追求していると、あなたたち確実に破滅するよ!という警鐘を鳴らされたと思う。
流通業、老人介護などなど深刻な社会問題はこれからも山積みだから。
ボトラーになって叶えたい夢
不況の世に揉まれながらも金銭的な潤いを求めて過酷な労働環境の職に身を移し、日々の暮らしにズレが生じてほころび始める家族を追い込む(どこかの国の厳しい現実社会で今この瞬間にも実際に起きてそうな故にいちいちが身につまされる)エピソードの数々が、観る者の身を削り、腹にのし掛かり、話を飲み込んだ胃をもたれさす。だがそのリアリティの高さが良い、それだけ腹にこたえるところが良い。
最初の印象とは異なり案外頑張るお父さん、反対に落ち着いた野太い声のわりに案外年相応に未熟な粗も見せる息子君、かつての家族の温もりを求めて自分なりに葛藤する幼き娘ちゃん、理不尽な態度の老人たちにも普段から甲斐甲斐しく尽くし培われたお母さんの忍耐力をも一気に吹き飛ばす1,000ポンド(14万円強)という破壊された携帯端末の賠償金に、その命運を左右されそうな一家と、そんな格差の下層で悶える諸事情を抱えた労働者家族らと対峙するために常にバリアで結界を張る能力者 自称聖人マロニーちゃん(これ書きたかっただけだろ!👋🏼)。
嗚呼、皆が幸せに回る社会なんて この世には決して実現させられないんだな‥そういう資本主義の現実を再確認されられますし、幸せな気分にもなれないし観る時も選びますけど、愉快でない実情を描いた硬く厳しいドキュメンタルな内容は〜嫌いではないです‥ と他人事みたいに終わらせずにお前も頑張れよ‼️🤨👋🏼と。
"豊かな"現代社会
余裕のある暮らしがしたくて宅配業として独立するが、独立とはほど遠い業務委託だった。家族のためを思い、働けば働くほど、家族と過ごす時間はなくなり、家族はばらばらになっていく。救いようのない状況で始まり、救いようのない状況で終わる。映画としてのカタルシスも何もないけれど、これが先進社会のもたらした現実なのだ。
思えば、私が子どものころは、貧しかったけれども、父親は夜はいつも家にいた。母親ももちろん家にいた。職住近接で6時ごろには全員そろって夕食を食べていたと思う。今、そんな家庭がどこにあるだろうか。まだまだみんな職場にいる時間だ。確かに社会は便利になった。家の中は物で溢れている。ファストファッションのおかげで破れた服を着ている者などいない。携帯をもっていない人もいない。テレビの買えない人もいない。でも、どうなんだろう。おだやかな落ち着いた家庭をこどもたちに与えられているのだろうか。
宅配ドライバーと介護士という現代社会を代表するような仕事に就く夫婦の極限の物語だ。
「ダメおやじ」ではないが誰のせいにもできないからやはり「ダメおやじ」
最初は「ダメおやじ」な話しかなと勝手に想像したけど違った。酒や女やギャンブルとは無縁で、家族想いで真面目で、言行に関しても家族に非難されているほど感情に走ってはいない。過労死という言葉をニュースや新聞で見聞きするようになって久しいけど、本作はその過労死の近辺が描かれていた。最後、疾走していく親父だが、あのまま失踪しても、あるいは海へダイブしても仕方ないと思えるほど追い詰められていた感がある。
過労死は真面目でないとできない。真面目は通常誉め言葉だが、どこか視野の狭さを伴っている感じがある。一途なあまり融通が利かないというか。向上を希い時間を費やし努力しているのに一向に成果がでないなら、もっと根本的なところで改善を試みればよいのにそれができない。もっと強くもっと密に重ねれば上手くいくと信じているようで、そしてもっとマズくなっていくのである。
本作は映画の力でもって観る者を大局的見地に押し上げてくれて、ターナー家がにっちもさっちもいかず落ちていくさまを、岡目八目の見識でもってみせてくれたが、省みれば我が振りも随所で無能の行き詰まりなのである。
人は誰しも得手不得手があるから、些末なことや愛嬌的にいくつかのことが下手であっても構わないが、真摯に取り組むべきところでは上手くありたい。
本作を労働問題、ひいては諸悪の根源は社会問題や資本主義でみるのもひとつだが、まずもって「ダメおやじ」のダメの規準は上手くできない原因を「自分のせい」にするか「自分以外の何かのせい」にするか、ではなかろうか。
親父のドツボにはまっていくさまが、どうしようもないなと同情的に映るように、リアルに自然に描かれていただけに要注意だ。「家族のため」は愛情を感じさせるが、事態が悪化すると「誰かのせい」にすり替わっていた。「家族のため」と「誰かのせい」は表裏一体で「誰かのせい」も「社会のせい」も五十歩百歩。missingを厭うは、ジリ貧を脱せられる勇気と見識、そこである。
「ダメおやじ」ではないが誰のせいにもできないからやはり「ダメおやじ」。厳しいようだが現実はもっと厳しいからそう結論せざるをえない。少し前『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』という書籍が話題になったが、原作ではないようだがつながってそうである。読んで現実を覗いてみたい、いや、これ以上みたくないか……。
考えさせられる作品です
イギリスのターナー家のお話。父は名ばかりの自営業者だが実は何の自由も保障も無い運送屋、母はハードな介護士、思春期でぐれ気味の高校生の兄と純粋な小学生の物語です。とにかく両親は生活の為に朝から夜遅くまで働くが、いつまで経っても生活は楽にならず家族の団欒の時間は少なく、本当は優しくて良い子の息子もグレて、純粋な娘まで両親や兄との争いでピュアな心が傷ついていく、、。もう少し希望は無いのかあとか、自分はまだ恵まれてるなあとか考えるました。お金はありすぎても子供はグレるしロクな友達出来ないし、夫は浮気したりして夫婦仲は悪くなるし、江戸時代とか昭和の貧しい時代でも貧しい中でも4畳半一間に家族全員でちゃぶ台を囲んで楽しく笑い声の絶えない食卓風景は古き良き時代の幻想なのか?今や食事中でも思春期の子供はスマホいじって会話も少ない家族も多い
これはわたしたちのいまの姿
前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』で監督引退を表明していたケン・ローチ監督だが、昨今の労働者階級の社会的立場に憤りを感じての新作です。
英国ニューカッスルで暮らすリッキー(クリス・ヒッチェン)。
介護福祉士の妻アビー(デビー・ハニーウッド)、16歳の息子セブ(リス・ストーン)、12歳の娘ライザ・ジェーン(ケイティ・プロクター)の4人暮らし。
10年前の金融危機で働いていた建設会社が倒産した後、職業を転々とするも暮らしは良くならない。
一念発起して個人事業主の宅配ドライヴァーとしてフランチャイズ契約するが、配送に使用する白いバンは妻が訪問介護で使用している自動車を売って購入、1日14時間の労働と過酷な状況がつづく・・・
といったところから始まる物語。
はじめに断っておくが、ここ数作のケン・ローチ監督作品では、厳しい環境の中で暮らす市井の人々にも映画の最後にはささやかな希望のようなものが描かれることが多かったが、本作ではそんなことはない。
働けど働けどわが暮らし楽にならず・・・というのがどこまでも続く。
ただし、家族の絆は映画が始まるときから比べると強くなっているが。
この最後まで明るい希望がみえない物語は、現在、ローチ監督が実感していることだろう。
初期~中期の作品では、このような救いのない、厳しい映画を撮っていたので、本家帰りともいえる。
映画的には、息子のエピソードが余計な印象。
反抗期であるとしても、家庭の状況を悪化させる方向にしか進まないような行動をとる姿は、観ていてイライラしました。
ま、セブのような若者にも未来が見えない閉塞感があって、自暴自棄になっているとも受け取れるのですが。
原題の「SORRY WE MISSED YOU」とは、宅配の不在通知票の定型句(知らなかった!)。
ですが、リッキーが妻に宛てた短いメッセージを書くのにこの用紙が使われ、言葉どおりに「あなたたちがいなくて、寂しく、恋しく思います」という意味に変化する映画の終盤は見事。
しかし、そのように想いながら、傷ついた身体のまま白いバンのハンドルを握らざるをえないリッキー・・・
その姿は、英国の市井のひとびとのみならず、我が国の多くのひとびとの姿に通じるでしょう。
そう、これはわたしたちのいまの姿なのです。
人生をどう積み上げるかを考える映画。
「家族を想うとき」人生は選択の連続だ。どんどん不幸になっていく家族を見て、何が悪かったのか、どの選択が間違っていたのかを考えたけど、答えは出なかった。
夫、妻、息子、娘。誰の立場で考えても悪意で選んだことなんてひとつもないし、そんなこと言ったら宅配ドライバーの仕事を選んだこと、それを選ぶような人生を積み上げたこと、そんな環境に生まれたこと、今の時代を生きていること、自分でどうにかできることからできないことまで全てが少しずつ間違ってる。どこに戻ってやり直しても、救えない。
家族4人ともがそれぞれにしっかり良心を持って行動していることに見る側は度々救われるけど、ボタンが食い違うように、目線が合わないまま貫き続ける良心は、空回り、疲れ、不幸を生む。働かないと家族を幸せにできない。仕事は家族が一緒にいる時間を奪う。仕事をせず、一緒にいるだけじゃ「万引き家族」みたいになるんだろう。それじゃ頑丈な幸せは手に入らない。
介護士のアビーと、足が動かないおばあさんの会話。
「こんなこともできなくなって、情けない」
「私はあなたから学んでる」
「まだ役に立てるの?」
「もちろんよ」
この映画で唯一、幸福を回してそれが上手く働いている場面だったと思う。辛さに耐えてひねり出したなけなしの幸福で、誰かを救う。涙が出た。
「急いでる」というアビーの言葉を聞きながら皿を落として食べ物をぶちまけるおばあさんも、意地悪をしてるんじゃない。ただ、寂しいから帰らないでほしいんだ。血も涙もないように見える宅配会社の元締めのハゲも、決して良い悪いでは測れない。この人の立場で、力づくでその場を回していくためには、感情抜きの絶対的なルールを作ってそれを守り続けるしかない。ここで線を引かなければ自分が破綻する。
時々ある場面の切り方が印象的だった。会話の途中でばっさり切れるところがあったり、答えが出ないまま場面が変わったり。妻の車を売るか売らないか、あの終わり方だってそう。どのシーンも、その後どうなるかは絶対的にわかってる。あえて写さず、こちらに想像させるから余計ずっしりくる。
この映画を見て、「誰も悪くない、社会が悪いんだ」とは言いたくない。みんなに都合が良い、完璧な社会で生きられる日なんてどれだけ待っても来ないだろう。
積み上げてきた人生で、選択は変わる。映画はまだ知らないいくつもの人生を体験させてくれる。人生をどう積み上げるか。それを考える映画だと思った。見てよかった。
自分事として考えてみた
もしタイムマシンがあって過去に戻れるなら、
どうすれば良かったのか考えてみた。
自分がそうならないために。
①嫌な上司や仕事でもサラリーマンを続ける
②家は買わない
③独立するなら低リスクで、フランチャイズに加盟しない
※映画では宅配でしたが、日本ではコンビニも同類だと思った
④感情とは逆の行動をとる
※ここが一番重要かもしれない。
⑤娘がカギ盗んだことが分かった日に今後も仕事を続けた場合、辞めた場合のそれぞれのメリット、デメリットを家族全員で話し合う
[未見者連絡報告票]この作品は、内容が大変重いですので、覚悟して真剣に拝見して下さい。
ケン・ローチ監督作品に巡り合ったのは、2度目である。最初は、「私は、ダニエル・ブレイク」でした。労働者である男が、外壁に大きく自分の名前をスプレーで描いた場面が、強烈に覚えている。自分は、一人の労働者である前に一人の人間である。という印象を私の胸に焼き付きついたのを覚えている。あれから、3年後の現在、久しぶりに「家族を想うとき」に巡り合った。この作品は、家族を守るために働くが、なぜか悪循環を繰り返す
観終わってからも「どこで、ボタンを掛け違えてしまったのか。」その主人公の悲惨な末路の原点をしばらく考えてしまう。鑑賞後、主人公の生き方をしばらく考えてしまう作品も
此処最近、非常に珍しい。個人的にこの作品に出逢ったことは、稀な幸運を掴んだと思った。最初は、フランチャイズの宅配ドライバーになるために訓練訓練の毎日であるが、家族のことを想いながらも、家族のそれぞれの事情により足をとられることになる。家族のために仕事をすればするほど、家族の中に溝が出来始める。一番手を焼く時期でもある思春期の息子にかなり手を焼かれる。作品の要所々々においては、日本の現状と交わる内容が具に描かれていて、他の先進国においても、日々の暮らしの中で似たような問題を抱えているのだろうかと思ってしまうほど、重なってしまう問題が見受けられた。リッキーが、怪我を負い、病院で順番待ちをしている所は、「ある、ある」と、同情してしまった。この作品のラストは、う~ん、観る人に想像させる域。ケン・ローチ監督には、此処の家族が抱える問題を扱った、虚飾のない作品を届けてもらいたい。
時間とお金のバランス
ユーロライブにて試写会鑑賞。
ターナー家の父は運送屋、母は介護士、高校生の兄と小学生の妹の一家の物語。
父はマイホームのために1日14時間働き、母も同じくらい介護の仕事で働く。その為どうしても家族の時間というのは限られてくる。そんな中、兄は非行に走り、妹は兄の悪い姿を反面教師として成長していくが寂しさを助長していく。そんな家族の物語だ。
時間を削ってでも働くのはもちろん家族のためである。だがやはり家族といっても共にする時間がないとどうしても心が離れてしまう。そんな中、兄は悪さをするが、それはどことなく自分の存在を知らせてるようにも見えた。悪いことをすることで家族は自分に目を向け、自分の存在を認識してくれる。根っから家族に迷惑をかけたいわけではない。だから最後父親が怪我をした際には駆けつけたのであろう。
父も母もまた、狭い家で暮らすよりマイホームを買い家族がゆっくり過ごせるために日々汗水流して働いている。妹は小学生ながらそんな姿を客観的に見て、いい子でいる事で家族のバランスを保とうと必死になっている。作品内ではぶつかることばかりが多く、最終的にもぶつかったまま幕を閉じるが最初から最後まで家族は互いを想いあっている。ただそれが中々形とならないのが現代社会を現しているのかと感じた。
妹と宅配作業をし父と娘は幸せな一時を過ごしていたように思えた。ただそれも次の日には注意され二度とできない事に。
一家団欒食事している中、母が急に仕事が入ったが兄の提案で家族で母の仕事先に行くことになる。とても幸せそうだった。ただ翌日にはまたぶつかり合ってしまう。
幸せになりかけてもどうしても時間の余裕のなさが、引き金となり衝突しあってしまう。
では時間があれば幸せになるのか。そうすると今度はお金が減り違う問題が生じまたぶつかり合うとおもう。
この時間とお金のバランスというのがこの作品では強く考えさせられた。
上にも書いた通り、最後父は怪我をした体で職場に向かう。家族は制止したが振り切って向かった。
まだあのまま作品が続くのであれば、また父が家に帰ったあとぶつかり合うようにも思える。
結果この作品内では確固としたハッピーエンドは描かれる事はなかった。
それは時間とお金のバランスがターナー一家、そして社会全体としての答えが分からないからであろう。
その答えは鑑賞してる我々が考えるべきなのかもしれない。
そんな感じでこの作品内では具体的な答えは描かれてない。その答えを考えさせられる作品だった。
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